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個性について思うところ

個性とは何か。

個性を個という枠で考えると、思考する方向性は非常にシンプルです。自身と如何に向き合い理解するか。自身を文脈で捉える、ということです。
ところが、社会を形成することにおける個性の在り方を考えると、途端に複雑になります。社会では、他者と自身との双方向での個性の尊重が必要だ、と私は考えているからです。他者の個性を尊重する/自身の個性を尊重してもらう、ということにおいて、何が重要なのか?尊重とは何なのだろうか?これを考えると意外に難しいことに気づきます。ここでは、そんな思考の旅に出てみます。

最近、落合陽一氏のデジタルネイチャーという世界観に触れました。それは人とモノの境界がコンピュータによって融合し調和した世界。人はコンピュータがより良く動作するよう調整と創造することでコンピュータに還元し、コンピュータは人で行うまでもないベーシックな事項を限界費用ゼロで担当し、時が流れる世界です。そこでは、人やモノや情報を含めた全てがキノコのようにコンピュータによりネットワーク状につながり、コンピュータを発展させ生活を向上させる以外の所作は、気ままなネコのようなコンブィブィアルな振る舞いで、放浪しながら自然に暮らしていきます。

共有し、発見し、発展し、共有し、、、が自然に繰り返される中、どこでも気ままに暮らすことでサスティナブルが実現する理想がそこにあります。


一方、似て非なるデストピアがあります。

スタートレックのBorgは、何万もの機械生命体の個々がリンクした一つの集団が、究極の生命体を目指すために、宇宙を放浪して他種族の文化や技術を強制的に共有化しながら侵略していく強制共生集団です。アメリカ自由主義らしく、「個」を強奪し・尊重しないこの集団は巨悪として描かれています。


この二者を比べてふと思いました。
デジタルネイチャーにおいて、「個」はどう扱われているのだろうか?と。

つまり、デジタルネイチャーにおける、きのこ状のネットワークにおけるネコ的でコンブィブィアルな行動を、他者が社会的に受け入れるときに「強要」と感じてしまうと、意図せずして「個」を犯してしまう気がしたのです。

こうして、人々の労働は、機械の指示のも働くBI的な労働(AI+BI型・地方型)と、機械を利用して新しいイノベーションを起こそうとするVC的な労働(AI+VC型・都市型)に二極化し、労働者たちはそれぞれの地域でまったく違った風土の社会を形成するはずだ。 

落合陽一 デジタルネイチャー


例えばデジタルネイチャーにおいて、落合陽一氏はVC+AIとBI+AIの二極化へ自然に移行するだろう、ということを推察していますが、ここの分断のような表現は、いかにも個への非意図的な強要の発生が出てきてしまいそうな気もしてます。デジタルネイチャーの概念が機能するならば、個を形成する個性に関して、ここに何らかの作用とバランスが存在するのではないか?と感じたのです。

そんな疑問から、もしこれから時代がデジタルネイチャーへと変化しているであろうなら、その時のヒトの「個性」について考えて見たいと思いました。



まず、自身の個性についての文脈の構築が出来ている前提で、他者との個性の違いを考えていこうとしました。

そこでふと、個性は人それぞれ違うことが前提なのに、「違いを考えること」を起点にして考えようとしている自身に違和感を感じました。そもそも、違うのは当たり前じゃないですか!

個性については、画一化への批判から、「違いを考えること」に推移していく流れが一般的にあったと思いますが、そこから思考を更に推移させて、個性は違うことを前提とした上での「他者との共通性を考えること」を起点として思考してみます。

これ、難しいです。特に、命題が「共通性」で前提が「違うこと」、と矛盾してるように見える部分のせいで、答えがなさそうに見えます。ただ、感覚としては、個性は人それぞれであったとしても、その根底の部分のどこかに共通性があるのではと感じています。「この人、なんか私と似てるな」という感覚です。

こうして思考していくと、ただ唯一、ともかくはこれを考えるにあっては、自身を基軸として他者に興味を持たないと始まらないことが分かりました。この思考をするためには、自身の個性を探求し続け、他者の個性を尊重するために、他者に興味を持ち、自身との共通点を考え続ける、ということが必須なのです。

とするとです。もしかすると、たとえ命題が解けなくとも、この「他者との共通性を考えること」を思考するという所作そのものが、他者への個性の尊重へと結びつくと言えるのではないでしょうか。

なんとなく掴みかけたような気がしますが、もう少し具体化したいです。

そのような中、民藝の考えに出会いました。真の民藝についての考察の中に近いような答えがありそうと感じています。

民藝の解説の中で下記があります。

今日の民藝は、「カレー」という一種類の名前の料理に、欧風カレーやインドカレーのように多数のバリエーションが存在しているのと同じ状態になりました。「何が民藝か」という問いにひとつの答えがないのはその為です。民藝とはなんぞや?という課題は柳宗悦存命のうちに一つの形に達しました。誰もがカレーの概要を知っているようにです。しかし、味の好みや調理器具の変化、素材の変化で、当時のオリジナルを再現することは民藝に限らず厳密には不可能です。

落合陽一さんとのトークセッション原稿|朝倉圭一#note

和食は素材の味を複雑に足し合わせることで全体のまとまりを作ります。ここに民藝とも通づる点を見出すことが出来ます。和食はダイバーシティ・多様性の料理です。

原稿その3:コンヴィヴィアルと民藝|朝倉圭一 #note

様々な種類のカレーの違いの中に共通性を見出そうとして「カレーとは」を定義しようと思考し続けるような、答えのない思考の旅。レトルトカレーのような画一化でない、共通性への探求。民藝を個性に置き換えると納得がいく解釈が生まれそうです。つまり、他者と自身の個性の共通性は、答えなき命題なのです。その答えでなく、概要を感覚でとらえつつ、ただただ考え続けるその所作そのものが重要である、ということが、民藝からの考察でも示唆されてます。民藝では規範、と言う言葉を使っているようです。

自身の個性の文脈を把握し、他者の個性を考え続け、共通点を考察し続ける終わりのない思考の旅。これこそが、デジタルネイチャーの中での個性であり、個々を繋げる本質としての接着剤であり、きのこ状のネットワークにおいてシームレスにVC+AIとBI+AIの二極化を繋げる潤滑油になるのではないでしょうか。

そんな思考にたどり着いたとき、たまたま視聴した養老孟司氏の動画が妙に腑に落ちたりしました。サムネが結構攻めていますが、内容はそんなに尖っておりません。

このNOTEで思考している、「違うということを理解した上での共通性の探求」は、養老氏のお話での「同じと画一の違い」を理解しようとすることの延長線上であると感じています。
(話は逸れますが、動画というものは理解をしやすい反面、引用部分を明示し難い部分がありますね。)

デジタルネイチャーにおける個はホモコンブィブィウムと呼ばれるそうです。ホモコンブィブィウムの個性。この思考の旅から考えると、このような思考を続けることが、ホモコンブィブィウムの個性の在り方なのかもしれませんし、更には私自身の文脈の一つなのかもしれません。

まだまだ思考の旅が続きます。

次は言語を介さないとき、個性やモノや情報にどんな共通性が感じられるのか?、でしょうか。それの理解を深めると、言語を超えて、より「違うということ」への理解ができていきそうな気がします。このような思考の旅が、将来、人と一緒に大きな仕事をしていくときの助けになることを期待しています。

と思いつつ、ニーチェを齧ったら、同じ考えがそこに!宇宙技術芸術と奴隷道徳や時間の価値と超人にも繋がってそうです。次の思考の旅はどこに向かうのか、、、。

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