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「みる誕生 鴻池朋子展」を見る

鴻池朋子さんは私にとって最も重要なアーティストの一人だ。
今から18年前の森美術館。観たことも想像したこともない圧倒的なイメジネーションに溢れた巨大な絵画にノックアウトされてからずっと大ファンである。
その鴻池さんの展覧会が、高松市美術館(2022年7月16日~9月4日)~静岡県立美術館(2022年11月3日~2023年1月9日)~青森県立美術館(会期未定/2023年開催予定)とリレー形式で開催されている。私はこの3館の中で一番家に近い(といっても結構遠かったが)静岡県立美術館に今年の初めに行ってきた。


カービング作品 触ることもできる


美術館の裏山にも作品が展示されている


武蔵野トンビ 強風で片翼が壊れてしまった


旅する電気屋 未完成のまま高松から旅をしている。
青森に着く頃には完成しているかもしれない。


今回の「鴻池朋子展」。鴻池さんの作品だけが単純に展示されている展覧会ではない。

1. 鴻池朋子作品(インスタレーション、彫刻、絵画、版画など)
2. 「金曜会」の絵画作品
3.  物語るテーブルランナー

この全く異なる3つのコンテンツが、対等な立ち位置で、それぞれ絡み合い、補い合いながら一つの大きな塊になっている。
そう、この展覧会自体が巨大な一つの作品なのだ。

「金曜会」とは瀬戸内海の大島にあったハンセン病の療養所の患者さんたちが作った絵画クラブのことだ。「金曜会の絵画」と一言で言えないほど、それぞれが全く異なる個性が溢れている。正式な美術教育を受けていない、いわゆるアマチュアが描いたその作品は「素朴」だとか「プリミティブ」といった言葉では言い尽くせない「何か」がある。人はなぜ絵を描くのか、芸術の根源を問われているような気がした。


テーブルランナー(部分)


テーブルランナー(部分)

「物語るテーブルランナー」も不思議な作品だ。いわゆる一般の方が自分の物語を話し、それを聞いて鴻池さんが下書きの絵を描く、そして話をした人が今度はその下絵を元にテーブルランナーを縫い上げていく。鴻池さんとのキャッチボールのような共作だ。この作品もまた縫う人(話す人)によって作風は大きく異なる。が、鴻池さんの下絵を元にしているので、全体として統一感のようなものが感じられ、どこか温かく懐かしさのある作品だ。

こうした「普通の人」の作品と現代美術の最前線に立つ鴻池さんの作品を同時に並べることにどのような意味があるのだろうか?つまりこの展覧会という巨大な作品の意図は何か。

アートの歴史を俯瞰して、例えば、ラスコーの洞窟壁画、何かを伝えるための物語であった芸術の始原と、芸術とは何かを問う批評性を重視する現代美術。あまりにも大きく隔てられてしまったこの二つの芸術を再び統合することが狙いなのではないだろうか。

元々、芸術の制度を問い直し、制度を解体または拡張することが現代美術だったのに、いつの間にか自分で作ったその制度の中にがんじがらめになっている。「制度を解体/拡張しようとする制度」にとらわれて身動きできなくなっている。それってどうなの?という問いから始まったのだと思う。

この展覧会は、その制度の中に閉じ込められてしまったかのような現代美術を解放するための試みなのではないだろうか。人間(左脳と言い換えてもよい)中心主義への異議申し立てである。ただ難しいのは、現代美術を解放するための思考そのものが表現された瞬間、その試みもすぐに現代美術の制度の中に回収されてしまうことだ。現代美術は、新しいもの、自らを否定するものでさえ自分の栄養として取り入れ膨張し続ける貪欲で厄介な存在だ。資本主義にどことなく似ている。こうなると延々と動き続け、進み続けるしかない、極めて困難な道になってしまう。
しかし、この困難な道を「遊び」として軽やかに表現していることが、鴻池さんのアートの魅力だ。

静岡市郊外の高台にあるこの静岡県立美術館で開催された「みる誕生 鴻池朋子展」には、現代アート愛好家だけでなく、小さな子供を連れた家族、老夫婦、若いカップルなど、年齢・男女問わず、さまざまな人たちが訪れ、観て、触って、歩いて、アートを楽しんでいた。この多様な顔ぶれこそが、鴻池朋子さんの試みの可能性を物語っているのだと感じた。

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