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『不適切にもほどがある』と『光る君へ』の感想を書いているうちに、noteに性的テーマで(有料で)小説を書こうかな、と思いついた。そう考えた経緯。(Facebook投稿転載に、一部追記)

 突然ですが、noteに小説を書くことにしました。うん。しようかなあ。しようと思う。

 今までnoteは無料公開だけで書いてきましたが、小説は有料にすることにしようと思います。

 いや、自分の書くものに有料の価値があると思っているからではありません。価値もないだろうし、書くものは実は小説でもなんでもなく、ただ、内容が「性」に深く踏み込んたものになるので、「これは小説で、有料であえて読もうというひとだけ読んでね」という構えにした方がいいなあ、と思ったということなんですね。きっと書くのは今までと同じようにテレビドラマの感想だったり、少子化問題についての考察だったりすると思います。

 何をどう考えたらそういう話になっちゃったかをちょっと書きます。

 きっかけはどちらもテレビドラマ『不適切にもほどがある』と『光る君へ』の感想をFacebookにここのところ書いて投稿しているうちに、どんどん性的な話に言及するようになっているのが、いいのかなあ、ということを考えていたからです。妻からもそういう指摘を受けて、なぜそういう内容について書いているか、ということを昨日、口頭説明していたのですが、そういうことだとすると、それは「読む覚悟がある人」だけが読む形で書いた方がいいのかなあ、と思った、ということなんですね。性的なことに言及し、その視点から分析しているとしても、僕は非常に大真面目に書いているわけですが、読む人がそう感じないんだな、ということが、僕の予想を超えていた、ということなんですね。

noteでだけの、追加説明

 フェイスブックに書いた性的なことテーマにした投稿一つ目は、noteにも転載したこれ。「おっ〇い」連発の内容だったのです。

それから、『光る君へ』については、こんな投稿をFacebookにしたわけです。

 光る君への、あのエレキギターは、やはり例えると「ゲイリー・ムーアばりの」というのが正しいと思う。サンタナのような、ではないと思う。どこがどう違うのか、と言われてもよくわからないが。でもゲイリー・ムーアだよな。狙ったのは。(羽生結弦のフリー用に使われた「冬の散歩道」がゲイリー・ムーアね。)
 あのギターのシーン後の、キスシーンからのまひろ「北の方じゃないといや」、道長「勝手なことばかりいうな」の言い合いシーン、それをめぐるツイッター上の意見議論などについて、なかなか面白かったのだが。
 いちばん納得したのは妻の見解、あのとき道長は21才、まひろ17才なのである。それに対して演じている役者の年齢が高すぎる(柄本佑37才、吉高35才)。そこが変。なるほど。
 本当は今の主人公二人の年齢だと子役パート2.せいぜい現在の芦田愛菜と鈴木福くん2人とも19才が演じるくらいがちょうどいい。それくらいの未熟者感がないと納得しづらい。と妻は言うのだ。
 大河の後の、9時からの日曜劇場「さよならマエストロ」での芦田愛菜の演技をみながら、芦田愛菜がまひろになっての「北の方でないと」とゴネるのを想像する。これはありだな。前回の「わがまま」も今回の「わがまま」も納得できる。
 鈴木福くんの道長。えーと、これはかなり想像しにくいな。現在の福くん貼っておきます。
 なるほどなあ。
 ここからは僕の考えたことです。
 どっちもどっちそれぞれ別方向に未熟な言い分、それは真剣に未熟者が、男子は暴走する性欲と自分の家の状況の葛藤の中で前回まひろの言葉をそれなりに真剣に現実的に考えてきて(しかも2回目さらにグレードアップした左右方向かえてのキスで欲望大暴走、臨戦態勢化しているときにあんなこと言われたらそれは怒る。激オコである。)。一方、まひろも自分の恋心と将来の姿をロマンチックに想像しただけでなく、お父さんのこと(妾の不幸とか、求職活動とか)なんかも頭の中にあり考えたことの、未熟真剣に考えた結論方向性が、著しくすれ違ったのである。

※友人からの、なぜ二回にわたって二人のキスシーンと諍いを描いたのかという疑問コメントへの僕の返答
「大学2年男子と高校3年女子の初めての性愛ありからの駆け落ち結婚願望暴走というエピソードは「2回目したい、もう一回したい」を描かないと描き切れない、という脚本家大石静の深いエロス洞察から来ていると思います。」

Facebook投稿

 という二つの投稿について、一部同級生くらい年齢男性からはコメントやイイネをもらえたのだが、総じて反応が薄い。女性友人からは、きわめて反応が薄い。という事態が起きたのですね。

で、冒頭に戻る、小説noteに書くぞ宣言をFacebookでしてしまった、と事態は進むわけです。冒頭部分からの続きです。

 僕は文学部の卒業です。東京大学の文学部に進学する人は、だいたい入学時、文科三類、いわゆる文三という区分で大学に入学します。教養課程の二年間を終えると、三年生から、大半が文学部か教育学部に進学します。ごく一部、三年生からも教養学部の国際関係論とか相関社会学とか文化人類学とかそういう学際的新しい学問分野を専攻する人もいるわけですが。

 大学に入った時の僕は、無邪気にも文三クラスの同級生というのみんな文学大好きな人たちなんだろう、と思っていました。小説か、そうでなくても詩やらなんやら、そういうものが好きで、ちょっと毛色が違う人は歴史が好きで、頭がすごくいい人は哲学をやったりするんだろう、でも文学部の真ん中は「小説が好きで文学が好きな人がたくさんいるんだろう」と思っていた。

 でもね、全然そうではなかったんですね。文学部の中での進学先として人気なのは社会学と社会心理、心理学あたり。それらは小説を読んだり考えたりするような学科では全然なかったんです。いや、そういう学科に進む人でも小説が好きという人はいたわけですが、でも大半は「入試の時の成績として文一文二は微妙、文三なら入りそうだから文三、そのうえで就職のいい社会心理、社会学に進学して、ちゃんと就職しよう」みたいな人がたくさんいた。

 そうか。そうだよな。そういうことが分かってから、僕は、友人を「文学な人と文学じゃない人」と区別してつきあうことにした。いや、文学じゃない人でもいい友達はできて、別に文学じゃない人だから嫌い、とかそういうことじゃない。

 でも、単に小説を読んでる読んでいないだけではなく、生き方として「文学な人」と「文学でない人」というのを、その頃から、すごくはっきり分けて考えるようになったのです。

 僕にとって文学というのは何かというのは、人間の、個人的体験・視点から世界を捉えて表現することであり、そして人間の、通常の社会生活の外側にはみ出る部分「性」と「暴力」について、真正面からとらえようとするもの、ということだと思っているわけです。「性と暴力」が絡むと犯罪になることがわりとあるので、文学作品内で「犯罪や殺人」が起きることも多いですが、それは「性」と「暴力」を重要な構成要件としたことの結果として起きるだけだと思うわけです。

 文学とは性と暴力をその重要な一部として内包する人間が、個人の視点から世界との関係を体験していく、その過程や構造を描くことで、世界と人間を捉え、言語で表現しようとする人間の営みのこと。

 僕にとって文学というのはそういうものです。だから、性と暴力について、知的に平静にオープンに語ることができる友人が「文学について語りうる友人」で、性と暴力について語ろうとすると「なんでそんなことあえてここで言うわけ、変じゃない?」という人は、僕にとっては文学的な友人ではないわけです。もちろん「ここでは、原君とはそういう話はしないけれど、一人の時にはものすごくそのことについて考えている、性と暴力ばっかり考えている」という、もっと僕よりさらに文学的にこじれた人も中にはいるわけで、そういう人は「ものすごく文学的存在だけれど、語りあうことができない人」という分類になるわけですが。

 少子化問題についての政府の施策やマスコミの議論を僕が読むと、明らかに「文学的な性的視点」が欠けている、と例えば、思うわけです。「性的欲望と行動と生殖」みたいなことについての洞察が決定的に欠けていると思うわけ。少子化問題はそういう文学的人間観からも議論されるべきだと思うのだけれど、あんまり誰もしようとしない。

 戦争について考えるにしても、人間の暴力性というものを文学的に考えたことのある人とそうでない人だと、議論はかみ合わないなあと思います。集団としても、例えば国の指導者個人としても。

 例えば今読んでいる『コールダー・ウォー』マリン・カッサ著、という本の冒頭で〈プーチンは小柄な男である。背の低い人物は軽く見られがちだ。プーチンについてはそれが有利に働いたとは言えないこともない。プーチンはマーシャルアーツ(格闘技)のチャンピオンであり、六十二歳とはいえ、その肉体は見事に鍛えられている。そのせいか、彼はマッチョな男らしい政治家というイメージだけが先行した。道化師的な男に見られたのである。〉とある。こう書ける著者は、文学的視点を持っていると僕は評価する。個人としての肉体的要件が人格形成にどう影響し、暴力性の行使にどういう特徴があるかというのは、ロシアという国家の行動、戦争についても大いに関係がある。

 というような、僕の定義による文学の定義をもって、世界を理解しようということが、僕が一貫してやってきたことなのだなあ。

 今年の大河ドラマ『光る君へ』が僕にとって面白いのは、脚本家、大石静氏が「源氏物語」という日本文学の最高峰を書いた紫式部という人、それを生み出した平安中期という時代が、まさに僕のいう文学の定義「性と暴力で、個人と世界が対峙した時代」として捉えているからなのだな。インタビューで答えている。

〈「戦がない時代。男性のエネルギーは女性に向かっていったのではないか。平安時代のセックス&バイオレンスを描きたい」〉(Oricon News 2022-05-12 11:10)

 『不適切にもほどがある』についても、令和と昭和の対比、「なんとかハラスメント」とかコンプライアンスとか、そういうことに焦点が当たって語られることが多いが、「思春期から恋愛から結婚、家族形成と至るプロセスでの、男女の性的なことへの目覚めがどのように起き(男女ではそうとう異なる形で起き)、それがどういう形で恋愛となり(女性への、無個性な肉体部位や行為への興味と欲望が、どう特定一個人、恋愛対象への好意と欲望に変わり、それが家族形成、子どもを持つことにつながっていくか)というプロセスが、昭和においてどうあって、令和の現在どうなっているか、そういうことがこれは各回単発のテーマではなく、ドラマ全体を貫いて描かれているのである。

 という視点での分析として、キヨシの「地上波でおっ〇いが見たいんだ」の話も書いたわけだし、『光る君へ』一回目と二回目、なんで二回にもわたってキスシーンと、その場での道長とまひろの言い争いが描かれた分析、というのもしているわけである。

 なんだけど、そういうことは、読むのはばかられる、こういうFacebookのオープンな場で語るべきことじゃないのよ、的なシラーっとした感じ、というのが、なんだか感じられたわけである。

 なのでね、そういう、本当に文学的なことを、大石静先生も平安文学、それを生み出した平安時代が、極めて文学本質そのものの「セックス&バイオレンス」に満ちたものであったことを、ちゃんと論じる気持ちと能力のある人だけのために、「文学的な人」だけのために、「これは小説なのよ」という形で、noteでだけ書いた方がいいかなあ、と思ったのだな。

 こう書いてみると、別に有料にすることもないか。

これからは、Facebookでは「例の件、noteに書いたよ」と告知するだけにしようと思います。


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