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『人新世の「資本論」』斎藤 幸平 (著)、今年僕がお勉強したこと、社会的共通資本・コモンズ(宇野弘文)、ブルシットジョブとエッセンシャルワーカー(デヴィッド・グレーバー)全部まとめて最新マルクス研究に落とし込んで地球温暖化を止める方策につなげる、すごい本でした。

『人新世の「資本論」』 (集英社新書) (日本語) 新書 – 2020/9/17
斎藤 幸平 (著)
Amazon内容紹介
「人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。いや、危機の解決策はある。ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす。
【各界が絶賛!】
■松岡正剛氏(編集工学研究所所長)
気候、マルクス、人新世。 これらを横断する経済思想が、ついに出現したね。日本はそんな才能を待っていた!
■白井聡氏(政治学者)
「マルクスへ帰れ」と人は言う。だがマルクスからどこへ行く?斎藤幸平は、その答えに誰よりも早くたどり着いた。 理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
■坂本龍一氏(音楽家)
気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら?
■水野和夫氏(経済学者)
資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ。」


 ということで、ここから僕の感想意見。 

 電通先輩の四國さんがお薦め投稿されていたので、さっそく読んでみたわけですが。 内容については、全く正しく、賛成なのですが、
「うわ、面倒なものを読んでしまったぞ。やっばいなあ」というのが、正直な感想なのですね。 

 本書を絶賛する四國さんと、「うわっ面倒」と思う僕の、その違いというのは、ひとえに僕が、具体的社会的活動に対して「面倒くさい、人に会いたくない」という、初老ひきこもりだからだと思うわけです。ひきこもっていることを許してくれないのだもの、この本。


 2011年3月の原発事故を機会に、「絶対、脱原発すべき」と確信した僕は、人生で初めて、ブログなるものを書き始めたのですが、それは、裏表、二本立てのブログだったんですね。


 ひとつ、表のブログは脱原発、電気の東電からの自立、(自宅発電自宅消費)を、資本主義、消費主義の「もっともトレンドに乗ったおしゃれなもの」にして実現しよう。という呼びかけと実践を報告するもの。「世田谷自然サヨク」的消費主義を肯定したまま、脱原発を、いろいろお買い物をすることで実現しようという呼びかけだったわけ。太陽光発電をつけたり、エネファームをつけたり、とにかく自分の家の電気は自分で作れば、東電から電気を買う必要がなくなる。電気なんて自給すればいいのだ。今、その宣言投稿のアクセス数を確認すると、2万弱の数字になっている。そのブログは以下の下線部クリックすると飛びます。

自己紹介 と プロジェクトを思い立ったきっかけ(2011年4月9日)


 裏のブログは、原発推進に至った戦後政治の在り方自体を考え、批判する政治的ブログ。僕の父親が、原発推進の立場ではないけれど、北海道開発庁という「開発による経済成長」を推進する役所の役人であったことから、原発推進の「開発、経済成長主義」(それが肯定された戦後の経緯自体)を批判するいう政治的なもの。こっちのアクセス数は2万5千くらいになっている。そちらのブログはこちら。(同様、下線部クリックすると飛びます。)

2つのNOについて考えた。その2 政治的・政治的ではない、とはどういうことか。 [文学中年的、考えすぎ的、] (2011年4月15日)

 何故、このふたつ、裏表を分けたかと言うと、裏の、政治的文脈で原発推進政策を批判するスタンスというは、政治的抗争を呼び込みやすく、政治力学で潰される可能性が高い。一方で、資本主義、消費主義を肯定しながらのおしゃれな脱原発は、一定の支持を得やすい、大企業のビジネスマインドを推進力にできるから、という計算があったわけ。


 つまり、資本主義、大企業を敵に回すべきか、味方にすべきか。脱原発の推進にもふたつの道があり、それは「混ぜるな危険」というか「混ぜたら台無し」だと思った。


 10年たって、政治的にがんばっている人たちのおかげで、再稼働している原発はごく少数で、いまのところ、「原発が動いていない」という状態は10年間、ほぼ維持されている。しかしまた、そろそろ様々な原発で再稼働に向けた動きも強まっている。


 一方、エネルギーを自給するほうがおしゃれだよね、の動きは、太陽光パネルを屋根に乗っける人は、余裕がある人ならかなりするようになり、例えばゼロエネルギー住宅(太陽光と蓄電池をセットにした)が、大手住宅メーカーでは商品化され人気になっているように、お金持ちの消費においては普通のことになりつつある。電力会社も自由に選べるようになり、意識高い系の人なら、自然エネルギーを積極的に使った電力会社に契約を切り替えることもできるようになった。


 10年たった今、「原発、脱原発」問題よりも、人類にとってより深刻なのは、CO2の排出による温暖化だ、ということになり、そのことを解決するアプローチが様々、出てきたわけだ。(地球温暖化を前面に立てる中で、原発推進を再開しようという姑息な動きも現政権は見せているし、世界の温暖化問題活動家の中でも、原発をどう考えるかは立場が分かれているよね。)


 地球温暖化へのアプローチにもいくつかある。その中で、SDGsというアプローチと言うのは、大企業大資本や政府の責任逃れ、先進国の豊かな人たちの免罪符でしかない、温暖化時代の「大衆のアヘンだ」と批判することから本書は始まるから。


 いま、民放テレビ局が「SDGs週間」みたいなことをやったり、電通の中にもSDGs担当部署ができたり、大企業大資本が、地球温暖化に対して、いいことしながらビジネスしますよ、の免罪符キャンペーンを大々的に進めている、普通の人は、消費者として、そういう良心的大企業の商品サービスや株を買って応援すれば、自然に地球温暖化に対して正しい暮らし方、生き方になりますよ、という免罪符を大量販売しているような、そういう状態なわけ。


 本書著者、斎藤 幸平斎藤氏は、そういうSDGsなんかじゃ、地球温暖化は、全然止まらないぞ、ということを本書前半で、徹底的に、様々な角度から論証していくわけだ。


 それはSDGsだけではない。もちろん、温暖化を進めるいちばん最悪な立場が新自由主義である、ということは言うまでもない前提なのだが(この点は僕ももちろん同意)、それに対し、ケインズ主義的アプローチで解決を図る「グリーン・ニューディール」、スティグリッツの「ニューエコノミー」、経済成長の中で新技術の開発を進め、技術的に解決を図ろうとする「デカップリング」など、資本主義と経済成長の枠組みを維持しながら地球温暖化を解決しようとする、あらゆるアプローチを一個ずつ、徹底的につぶしていく。


 そして、ここからが本書の特異な点なのだが、「マルクスの徹底的な読み直し」というマルクス研究の世界的最先端の成果をもとに、この解決策を見出していくのが本書中盤。従来のマルクス主義では、生産(力)至上主義という意味で、実は資本主義と変わらない経済成長を追い求めることになったから、従来の社会主義共産主義では、地球温暖化は全く止まらない。ということを著者は指摘する。

 そして、「マルクスは、最終的にには脱・成長を理想としていたのだ」という、最新のマルクス研究の成果をもとに、そこに解決のヒントがある、と主張するのだよね。


 ちょいと難しい話になるが、マルクスは「価値」が生まれるのは、本来、共有で無限なコモン(共有の、誰のものでもない)土地や水や、というものを、かつては人は循環し、減らないようにする管理の知恵を持っていた。「コモンは潤沢」をいったん置くわけ。(日本の入会地とか。)それに対峙させて、資本主義の発生と言うのは、コモンを誰かの私有物にしてしまうことで、「稀少なもの」にしてしまう。コモンの潤沢に対し、資本制の基本は「稀少化」による価値の創造だと置くわけだ。みんなが必要なものを誰かが私有しているために、本来は潤沢なものが、すごく稀少なものになって、それを独占しているやつはどんどん豊かになるし、それを所有していない人はどんどん貧しくなる。それが資本主義の基本構造だと、(ざっくり、僕の言葉でまとめると、)マルクスはそう考えているのだと、斎藤さんは言うわけだ。


 で、貧しくなった労働者を救うには、今までのマルクス主義の「生産力至上主義」では、「とにかくたくさん生産すれば、みんなに必要なだけいきわたるでしょ」と考えていたというわけ。生産手段を共有化するだけでなく、いっぱい作り続けなければだめだ、というのが、ソ連型の社会主義だった。その「いっぱい作る競争」において、資本主義陣営に、ソ連型社会主義は負けたのだ、ということだな。(冷戦の終結について、ここは僕の勝手な解釈ね。)


 一方、本当のマルクス(と斎藤さんが考えるマルクス)は、「いっぱい作ることが解決」とは考えていなかった、というわけ。「無理やり作られた稀少性によって生じた価値」なんていうものを、無理やりいっぱい生産しようとするから、やたら働かなくちゃいけなくなって、しんどいだけ。生活が豊かじゃなくなっちゃう。それは資本主義でも、ソ連型社会主義でも一緒。そんなものはマルクスは目ざしていなかった。

 「無理やり創り出された稀少性による価値」なんかではなく、本当の「使用価値」だけを、かつてのコモンの知恵、仕組みを参照しながら、作り出すことを目指せば、もっと少ない労働時間で、経済成長なんて目指さなくても、人は豊かに暮らせるのである。これをマルクスは、最終的には目ざしたのだ、というのが、21世紀に入ってのマルクス研究の成果なのだ、と斎藤さんは言うわけだ。


 ここで、今年の僕のお勉強の、最大の収穫である二人、宇野弘文の「社会的共通資本」について言及があったり、ディヴッド・グレーバーの「ブルシットジョブとエッセンシャルワーカー」について、かなり多くの言及がある。また、真のマルクスの目指したこうした「コモン」を実現する仕組みについては「アソシエーション」という用語を斎藤さんはときどき使っており、おお、これは柄谷行人の交換の4形態の、最終理想形の話と被るではないか、ということで、今年いろいろお勉強して考えてきたことが、この一冊の中でいろいろと登場してきて、「わかるわかる」と嬉しくなったわけである。


 端的にいうと、僕がやっていた「広告、マーケティングとか、パッケージングとかブランドとか」いうようなブルシットジョブは、全部禁止!!!! プレゼンのための資料作りだのなんだのも、やめちゃえ。ブルシットジョブをなくして、エッセンシャルワークに集中した仕事を、コモンの、アソシエーションの形で行う社会になれば、経済成長はなくなるが、労働時間は短くなるし、働き甲斐は増えるし、真に豊かな世界になると同時に、そういう働き方の転換は、大きな二酸化炭素排出の削減をもたらす、というわけだ。
ここまではね、全く賛成なわけ。言う通りです。


 では、どこが「面倒くさいなあ」かと言うと。斎藤さん、こういう社会への転換の具体手法についても、最終章で、ちゃんと具体的に提言しているのね。こういうことを、選挙を通じた投票行動のみで実現しようというのを「政治主義」といって、批判するわけ。民主主義の、しかも選挙での投票に限定した行動では、絶対、実現できない、と言うのね。なぜかというと、選挙、政治という仕組みは、企業、資本のロビー活動とか大資金とかによって大きな影響を受ける、と言うか、コントロールされてしまうから。大企業・資本主義による支配(普通の人が、それに従属してしか生きられないとあきらめてしまうことを、資本による包摂、と著者はいうのだけれど)は、崩せない、と言うわけ。


 結局、大企業とその支配にある中小企業に雇われて長時間働くことでしか、収入は得られない。それで得た安い賃金で、ユニクロとかのファストファッションを買って、牛丼やハンバーガーなんかの安い食べものを食べて生きていくしかない。そうすると、ファストファッションは最も貧しい国の労働力、最も貧しい国の綿花栽培に頼っており、牛丼やハンバーガーは南米やいろんな国の熱帯雨林を牧草地に替えてしまい、温暖化を促進させている。日本の消費者からは見えにくいだけで、見えない遠くの国で、地球を破壊することに加担しながら、日本の最も貧しい労働者は生きていくしかない。


 これを変えるには、市民が、何らかの、小さくてもいいから、具体的な活動を始めないとダメだよ、というわけ。社会を変えるには、3.5%の人が、なんらか、新しい仕組みを立ち上げたり、抗議行動を起こしたり、変革のための行動を始めないとダメなのよ。斎藤さんはそういうわけ。何も大げさな、大きいことじゃなくていいのだよ。地域の、コミュニティの活動から、自治体レベルでの新しい取り組みを創り出し、それを世界の同様の都市と連帯していく。バルセロナの「フィアレス・シティ」という宣言、取り組みを紹介しながら、市民の草の根の活動をつなげていく方策を示して、本書は終わる。


 四國さんは、おそらく、この最終章に、大きな希望を見出したのだと思うのだけれど、僕は、限りない面倒くささを感じた、というのが、いちばん最初に戻っての、僕の感想なのね。


 「地域の取り組み」という話、バルセロナの例、パリの例、南米の都市に広がる例、どれもすごく希望に満ちた話が上げられている。四國さんは、お父様、反戦・反原爆の画家でいらした四國五郎さんの作品、業績を広める活動をずっとなさっているので、こういう市民の連帯による活動、ということの中に常に身を置いていらっしゃるので、そこには具体的な手ごたえとしての可能性を感じられたのだと思う。


 一方、僕は、基本的に、家から出ること自体がすごくおっくうで、昨年度、たまたま、地元自治会会長を輪番でするはめになって、20年住んでいるのに、初めてお隣の奥さんとも口をきいた、というくらい、近所付き合いも全くしない人間なのですよ。

 京都の綾部という農村に移住して半農半Xの新しい暮らし方を始めた、電通同期の平田君の、農業と、移住促進活動と、綾部市民新聞での活動を日々Facebookで読むたびに、「すごい、素晴らしく素敵だけれど、ああ、絶対、僕には無理」「隣近所の人と仲良くして、協力して、村用を定期的にしては、そのたびにお疲れさんで酒を飲む」みたいなことは、僕が最も苦手なことで、ああ、無理無理。と思ってしまう。

 電通をやめてふらふらしていた僕を拾ってくれた大恩人、竹之内さんが、東京西荻で、コミュニティの共有スペース「okatte西荻」を作って、地域の人と様々な活動をどんどん広げているのを見ても、「うわ、まさにコモンズの活動が、どんどん広がっていく、すごい」と思いつつ、「無理無理、絶対無理」と思ってしまう。「ご近所さんとは、できるだけ顔合わせたくないもん」だもん。


 この本を読むと、四國さんのように、平田君のように、竹之内さんのように、新しい生き方、新しい仕組みを立ち上げて、そして、そういう仕組みが様々、連携していく中で、資本主義の限界を乗り越えるということが、地球温暖化を止めるための、具体的活動のベースになっていくのだ、ということがよくわかる。すごくよくわかる。


 すごくよく分かるだけに、「おい、そこの人、家に引きこもっていてはだめだぞ」と、斎藤さんに怒られているようで「うわ、困ったなあ」と思ったわけなのでした。


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