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『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』 ヤニス・バルファキス (著), 関 美和 (翻訳)。すごい本だよー。


『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』
ヤニス・バルファキス (著), 関 美和 (翻訳)

Amazon商品紹介「★世界って、こういうものだったのか!
★経済を知るとはこれほど面白いことだったのか!
★世界的ベストセラー! 25ヵ国で続々刊行!
★「朝日新聞」(梶山寿子氏評)にて
「とんでもなくわかりやすいだけでなく、とんでもなくおもしろい」
「知的好奇心を刺激するドラマチックな展開に、ぐいぐい引き込まれる」
「一冊で仮想通貨や公的債務の是非、環境問題まで網羅しているのも驚き」と絶賛! 」

さて、ここから僕の感想。
 電通同期で、今はクリエーティブ・コンサルティング会社を経営している友人の友原君と昨日会っていて、MMTやらなんやらの話になり、僕が中野剛志『富国と強兵』について説明し始めたら、友原君が「今、読んでいるこの本に書いてあることに似ている、読みかけだけど」と、この本について言及したので、「おお、そうだ、僕もその本。買ってあるけれどまだ読んでいないな」と思い出し、読んでみた。女子ワールドカップとコパアメリカの間の二時間で読めた。すぐ読める。が、異常に面白い。
 僕の読む、好きなジャンル「ものすごくスケールの大きい視点で書かれた本」、「世界をまるごと理解しようという本」なのだな。しかも、筆者はただの経済学者ではなく、かつて(財政破綻で苦しんだ)ギリシャの元財務大臣なのだ。10代の娘に、経済専門用語を使わずに、しかし、きわめて本質的に、経済を使って、世界の成り立ちを、人類の初めから、これから先の未来にわたって、「サピエンス全史+ホモ・デウス」と同じくらい大きなスケールで語ってくれる、わかりやすく説明してくれる本なのだ。

 もうひとつ、かなり関係があることなので、書いておくと、この前MMTについての僕の投稿に対し、友人の北原君から、「私は理系なので、理論、って基本的には過去の積み重ねから得られたものではありますが、それで将来を見通せるわけですよね。相対性理論が登場したからと言って、普通の物理現象はニュートンの力学でほぼ説明できるわけで、ですから、投げたボールの行方は予測が出来る。その意味では経済理論、って完成しているのでしょうか?」という質問を受けて、僕の答え「していない。学問分野ではあるが、科学ではない。数学をたくさん使って科学のようなふりをしているが、前提が間違っていたら、どんなに数学を捏ね上げても科学になりようがない。社会「科学」を標榜している経済学も社会学もエセ「科学」だと、私は思っています。学問分野としては存在するけれど、数学だとかエビデンスだとかいって科学的学問のふりをするのはやめた方が良い。というのが、人文学の立場から私が「社会科学」について思っていることです。 哲学、文学、歴史学は「学」ではあるけれど、「科学」ではないですよね。お金を扱うから、数字を扱うから、経済学は科学的でありうる、というのは、考え方としてお馬鹿さんだと思います。「お金ってなんだろ」とか「利子ってなんだろ」っていうところで、もう合理的でない、なんか変な要素(人間の欲望とか、約束なんだけれど、守ったり守られなかったりれするとか)が入り込んでいるので、政治学や心理学やその他もろもろの不確実な要素が入り込んでくるので、科学的学問ではありえないと思います。」と答えたのだが、
 なんと、この本の筆者、最終章で僕とおんなじことを言っています。引用します。
「私がなぜ経済学者になったか、君に話したことがあっただろうか?
経済を学者にはまかせておけないと思ったからだ。経済理論や数学を学べば学ぶほど、一流大学の専門家やテレビの経済評論家や銀行家や財務官僚がまったく見当はずれだってことがわかってきた。
一流の学者は見事な経済モデルをつくってきたが、そうしたモデルはこの本で書いたような現実の労働者やおカネや借金を感情に入れていない。だから市場社会では役に立たない。
(中略)経済学は「公式のある神学」
 君のパパは何もわかっちゃいないと言う人は多いだろう。そんな人は「経済学は科学だ」と言う。物理学が数理モデルを使って自然を解き明かすように、経済学も数理モデルを使って経済の仕組みを解き明かすものだと。
 だが、そんなものはデタラメだ。(中略)たしかに経済学者はすっきりとした数理モデルやたくさんの統計ツールやデータを使う。しかし、だからといって彼らが本物の科学者だということにはならない。少なくとも、物理学者と同じ意味での科学者ではない。(中略):経済学者が数学を使うから科学者だと言い張るのは、星占い師がコンピュータや複雑な表を使うから天文学者と同じくらい科学的だというのと変わらない。」

 この本はMMTの本ではない。それよりもずっとスケールの大きい本だ。中野剛志氏の『富国と強兵』も、MMTの本ではない。この本の著者と同様に、現代の主流派経済学が科学のふりをした似非科学であることを批判した本だ。

 最近、「原はMMTを支持するのか?」という質問を受けることが多いが、主流派経済学に対する、別の「科学的経済学説としてMMTを支持する」ということは、全くない。そうではなくて、主流派経済学が現実に役に立っていないから、それとは異なるアプローチが経済政策には必要で、それを経済学的に説得する必要があるならば、MMTを援用するしかない、というだけの話である。

 この本の冒頭が、そもそもこう書いている。「経済学を教える中でさらに強く感じてきたことがある。それは「経済モデルが科学的になればなるほど、目の前にあるリアルな経済から離れていく」ということだ。」

この本の筆者が財務大臣経験者であること。中野剛志氏が経産省の官僚であること。つまり、経済は政治との関係の中でしか機能しないこと。そこまで含めて理論化しようとすると、「主流派経済学の、高等数学を駆使した説明」は、まったく機能しないことを二人とも実感した、その結果として、彼らはそれぞれの本を書いたのだと思う。

だから、この本の終盤は、未来に対して、その選択肢を娘に話していますが、それはほぼ政治的選択の話になっています。引用します。「さて、 この章では同じ話をもう一歩進めたい。理性あるまともな社会は、通貨とテクノロジーの管理を民主化するだけでなく、地球の資源と生態系の管理も民主化しなければなら ないと私は思う。私が口を酸っぱくして「民主化」と繰り返すのはなぜだろう? チャーチルのジョークを少し言い換えると、民主主義はとんでもなくまずい統治形態だ。欠陥だらけ で間違いやすく非効率で腐敗しやすい。だが、他のどの形態よりもましなのだ。
反対に「すべてを商品化しろ」と言う人がいる。権力者が好きなのは「すべての商品化」だ。世界の問題を解決するには、労働力と土地と機械と環境の商品化を加速し広めるしか ない、と彼らは言う。反対に、僕がこの本を通じて主張してきたのが「すべての民主化」だ。    どちらを取るかは君が決めていい。ふたつの主張の衝突が、私がいなくなったずっと後の 未来を決めることになる。未来に参加したいなら、このことについて君自身が意見を持ち、どちらがいいかをきちんと主張しなくちゃならない。(中略)
私は中立を装ったりしない。だからこう言わせてほしい。「商品化」は失敗する。喫茶店 のサプライを管理したり、好みの異なる消費者にものを売るなら、たしかに市場は最適だ。 しかし、この本で私がずっと言おうとしてきたように、通貨と労働力とロボットの管理をまかせるとしたら、市場は最悪だ。環境に関して、市場主導の解決策は、市場の最悪の面と政府介入の欠点を組み合わせたようなものだ。}

この部分を読んで、私の思ったことを書いて、感想はひとまずおしまい。

「民」の文字がついているから、「郵政民営化」って、いいことだと思って、小泉純一郎政権下、竹中平蔵のやりたい放題を支持したところから、日本めちゃくちゃ化(日本の良いところも富も環境も、何もかも、グローバル資本に売り飛ばして、日本の若者を貧困のどん底に叩き落す地獄)は始まったんだと、今はわかる。「民営化」っていうのは、すべての「商品化」であって、「民主化」ではなかったんだよ。

経済と政治の関係については、商品化ではなく、民主化。

しかし、この本、最終章は、もっともっと深い、人生の幸せとは何かまで、話は行きます。ホモデウスの時代に、人の幸せとは。そこは、自分で読んでみて。

本当に、必読。お薦めというか、お願い、読んで、というくらいの本でした

 
 


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