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現実をつかむ(その1)

話の発端として、新型コロナウイルス(COVIDー19)によるパンデミック状況下において、人々は現在の2021年の現在の現実を正確に把握しているのだろうか? という疑問。わたしたちが住んでいる日本の現実を人は正確に把握しているのだろうか? いや、そもそも、「正確に把握したいという欲望」が存在しているのだろうか? もっと根源的な言い方をすれば、2021年の現在の日本に「現実を知りたいという思い」は本当に存在しているのだろうか?

COVIDー19というウイルスが「現実をつかむ」ことの困難さをわたしたちに突き付けている。もしかしたら、わたしたちは巨大な「非現実」の中に囚われているのかもしれない。

人間にとって「現実をつかむこと」はとても難しい。

目の前のテーブルの上に水の入ったコップがあるとしよう。そのコップをつかむことは比較的簡単かもしれない。水がこぼれないように、そっと、冷たいガラスのコップをつかむ。指と手のひらに適度の力を加え腕を連動させてコップをつかむ。

でも、「現実をつかむ」のは、こんな風にはうまく行かない。

なぜなら、「現実」は物体でも物質でもないからだ。では、「現実」が観念だから、だからそれをつかむことが難しいのか? これも一面そうなのかもしれない。しかし、人間は観念であってもそれをある程度つかむこともできる。

例えば「自由」とか。それはコップをつかむことよりは難しいかもしれないが、でも、「現実をつかむ」ことよりは容易かもしれない。「いや、そんなことはないだろ。自由も人間にとっては難題だよ」と。私がここで言っている「つかむこと」の意味は、「それと対峙することが容易か否か」という問いであって、それらを「手に入れることの容易さ」のことではない。

「自由をつかむ」こと。「自由をコントロールすること(肯定的にも否定手的にも)」肯定的に、それは自由を生み出すことであり、自由を得ることでもあり、自由を守ることでもあり、否定的に、自由を剥奪されることでもあり、自由を奪うことでもあり、自由を壊すことでもある。

(話が逸れてしまうけど、現在の香港の状況を見ていると、「裏返されたベルリンの壁の崩壊」を見るようで、息が詰まるような苦しい思いがしてしまう。まさか、21世紀において「ベルリンの壁」が再び生まれることが起きるなんて思いもしなかった。この件についても改めて考えてみたいと思う。題して「21世紀のベルリンの壁、自由と資本主義と国家について」)

少し、話が拡散してしまったようなので、小休止。話がいろいろ迷走してしまうけど、うん、こんなもんかな? 整合性より、断片性、矛盾だらけの下書きなしの口述筆記的メモ。ずっとずっと後で、きちんと統合しよう(できれば)

(メモ書き)

現実、現実をつかむ、物質、観念、物質(物体)をつかむこと、観念をつかむこと、自由、観念としての自由、自由をつかむ、自由を守ること、自由を奪うこと、自由と現実の関係性、現実と観念と物質と人間の関係性の整理、「現実とは何か?」 これをある程度規定しなければ話は拡散してしまう、「物質と観念の複合体としての自由」、現実の一部としての自由、そもそも観念と物質は分離しているものなのか?人間の営みの在り様と現実の関係、抽象ではなく具体としての現実の把握、現実は物質と観念の複合体であるということ、「物質と観念の複合体としての現実」、世界(宇宙)と現実と人間と物質と観念などなど、(それから現実と非現実の関係性も)



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