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メンヘラから見える新幹線殺傷事件

 6月9日、痛ましい事件が起きた。東海道新幹線の社内で男女3人がナタなどで切りつけられ、女性2人が負傷、男性1人が死亡した。被疑者は殺人容疑で現行犯逮捕された。被疑者は引きこもりがちで、周囲に対し「自分は価値のない人間だ。自由に生きたい。それが許されないのなら死にたい」等と話していたという。

 これを聞いたときは被疑者のことがどうしても他人事ではないように思えた。なぜなら筆者も引きこもりがちで「自分は価値のない人間だ。自由に生きたい。それが許されないのなら死にたい」というようなことは毎日のように考えている。

 被疑者は自閉症を患っており、精神病院に入院していたということが報道されている。筆者は自閉症だからといって犯罪が許されるわけでもないと考えるし、自閉症患者が犯罪者予備軍であるように考えるのも反対である。
 しかし、本事件に至る過程を考える時に、被疑者が自閉症を患っていたことは無視できる事実ではない。

小島容疑者は同県一宮市出身。中学2年生のころ、「授業についていけない」などの理由で不登校になり、両親との折り合いも悪くなった。両親と住んでいた一宮市の実家を出て、県内の生活困窮者の支援施設で約5年間暮らした。
 小島容疑者は施設から定時制高校に3年通い、卒業後は名古屋市内で1年間職業訓練を受けた。施設での問題行動はなく、「本来4年かかるのを3年で卒業」するほど高校の成績も良かった。
 職業訓練を終え機械修理会社に就職し、施設を出て埼玉、愛媛県で働いたものの人間関係を理由に退職。2016年4月ごろから、岡崎市で伯父と祖母(82)と同居するようになった。「2階の部屋に引きこもり、パソコンでインターネットをすることが多かった」という。
(引用元)


 こういった経歴を見ると、自閉症によって、決して能力が低いわけではないものの、社会に馴染めず、孤立してしまったようにも思える。頼れるはずの両親も何年も連絡を取らず、祖母の養子となったが、家族に行方も伝えず旅に出たという。繰り返すが自閉症そのものが犯罪を引き起こすわけではない。自閉症によって社会から孤立し、その孤独が被疑者の心を蝕んでいき、凶行に及ばせたのではないだろうか。

 どれほど言葉を並べたところで被疑者は檻の中で報道される情報だけでは憶測の範囲を出ることはない。だから筆者の経験を語ろうと思う。
 筆者が引きこもり始めたのは2年ほど前からである。もともと精神の不調を患ってはいたが、現在ほど家に閉じこもっていることはなかった。きっかけは仕事をクビになったことである。以来、孤独と無気力感に苛まれながら日々を過ごしている。毎晩夢でうなされるのだ。今までに関わりのあった人々から自分は無能で無価値であることを証明されるような夢を毎日見てうなされるのだ。アニメを見れば友達や恋人や異性に囲まれている主人公を見て、自分は他人から全く関心を持たれない存在であることを再確認させられる。そんなときふと思うのだ。「自分なんか死んでしまえ」と。鏡を見ては「死ね」、トイレに入れば「(自分に対して)ぶっ殺すぞ」、風呂に入れば「キモいんだよ」などと、自分に対して呪いの言葉を吐き続ける毎日を送っている。ネットで調べると「汚言症」などというらしいが、まだ精神科の主治医には相談したことがない。

 この汚言症を発症しているときはほとんどの場合、過去の出来事が脳裏によぎっている時だ。過去の自分がどうしても許せないという感情が汚言症という形で表層に現れているのだと思う。そしてその過去の出来事は誰かとの関わり合いの一場面である。人間関係における自分の失態(冷静に考えれば失態とも呼べるような大した事ではない)が毎日のように記憶の底から湧き上がってきて、自分を許せない気持ちが湧き上がり、気がつくと「ぶっ殺すぞ」などと言っている。過去の記憶を思い出してから「ぶっ殺すぞ」と言うまでの時間は極めて短く、1秒もないと思う。逆に言えば、それだけ自分自身のことが嫌いで嫌いで仕方がないのだと思う。
 そんな惨めな生活を送っている横で、友だちに囲まれ、恋人がいて、仕事も順調な隣人が笑顔でいる姿を見ると、さらに自分が惨めな存在であることに気がつく。「生きているだけで丸儲け」などという人がいるが、人間はそこまで図太く生きてはいけないものである。

 自分が惨めな存在であることに気がつくと、なぜ自分は惨めな存在なのかという疑問が湧いてくる。これまでの人生で自分は最善を尽くしてきたという自負がある。後から考えたらもっと良い身の振り方もあったかもしれないと思えることもあるが、その時には気づき得なかったことで、正解表をみてから思いついたことは後出しジャンケンのようなものだ。問題を解いている時に最善を尽くしたかどうかで言えば、自信をもって最善を尽くしたと言える。だからこそ、いま現状惨めな生活を送っていることが腹立たしい。

 人生に対してそれほど大して情熱を持っていない者をみると余計に腹立たしい。こちらはその時時で最善を尽くしてきたにもかかわらず、彼らは余力を残しているのだ。それにもかかわらず自分より良い結果を出している。みんなが笑っている時、怒っている時、悲しんでいる時、筆者は常に思考をめぐらせ最善を尽くしてきたにもかかわらず、何一つ報われていないのだ。妬ましい。恨めしい。

 筆者はそうやって負の感情を溜め込み続け、自殺(未遂)や自傷行為で発散する。しかし、発散がうまくできない人もいるだろう。そういう人はまず他人との関わり合いを一切断つのだと思う。それもうまくいかない場合は、自らの境遇を社会のせい他人のせいにせざるをえない。その極地に至った者が今回の新幹線殺傷事件の被疑者ではなかろうか。そんな気がしてならない。だからこそ他人事とは思えないのだ。
 もし、筆者に、彼に、救いの手が差し出されたのであれば、自殺も自傷行為も殺傷もせずに済んだのではないかと思う。救いの手と書いたがそんな大層なものではない。素の自分を受け入れ頼り笑い合えればそれでいいのだ。

 そういう人間関係がこれほどまでに重要なものだとは、誰も教えてくれなかったのだ。

追記

 被疑者の祖母への取材の画像がTwitterで話題になっていた。このやり取りを見る限り、被疑者は勤勉であったものの、それを仕事に活かすことができなかった。また、仕事ができないことを祖母から責められているようであった。現代では、仕事とその人の価値がイコールであるように見る人々が多い。筆者の両親も「仕事をしなきゃ意味がない」というようなことをたまに言う。そんなとき筆者はこう思うのだ。「仕事をしていなくても、僕の価値を認めてください。仕事ができないのだから、そんな価値観から離れ自由に生きていたい」と。
 何より自分自身が「仕事ができない自分は無価値である」という呪いの思考にはまってしまい、自己否定感によって苦しめられる。被疑者はそうした呪いから逃れるために旅に出たのではないだろうか。
 人間の価値はア・プリオリに認められても良いはずだ。そうでなければ我々は一生「何のために生きるのか」という答えの出ない残酷な問いを自分に投げ続けなければならない。

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