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2000年のおかげ祭り(都城市、六月灯)

※2000年8月の『毎日新聞』の草稿である。

 「この祭りはどこまで大きくなるのだろう?」今年七月九日に行われた「おかげ祭り」の印象である。
 「おかげ祭り」は宮崎県都城市の駅前商店街が始めた町おこしだった。「最初は、神柱宮(かんばしらぐう)の六月燈(ろくがつどう)に合わせて、出店を出して子供たちの綱引き大会をする程度だったんですよ。それが商店街にあったデパートがつぶれて、祭りを続けるかどうかの議論が起こったんです。」と、ときわ通り商店街会長の芦田均氏は振り返る。
 そこにかり出されたのが、「祭りバカ」を自称する博多出身の川本翰治氏。山笠中洲流にいた川本氏は、「祭りを作るんだったら、中途半端じゃだめ」と提案、議論の末「伝統文化を掘り起こし、後世まで伝えていけるような祭り興しをやろう」と、神柱宮に使われずにあった御輿と大太鼓を見つけ、それをメインにした御神幸行列に決定。早速、全国の都市型の伝統的な祭りを視察した。
博多山笠からは、祭りの組織作りの重要性を学んだ。縦のつながりをしっかりすることで祭りの作法や連帯感を養うということである。御輿の担ぎ方も博多に出向いて中洲流れの若衆にコツを伝授された。
 三社祭からは、女性も興味を持つ粋な衣装の必要性を知る。そこで福岡の書道家石田先峰氏の「楽」という字をもらい受け、広島県の染物屋に本格的な三社祭風の衣装を注文した。一式約三万円の衣装は、祭りの参加者自身が購入することとした。(当初は人数が集まらなかったが、現在ではこの衣装を着るために祭りに参加するという女性が急増しているという。)
 神社にあった太鼓は、昭和四十五年頃に寄贈されたもので、それを「おかげ太鼓」と命名し、御神幸の際の太鼓や鳴り物の演奏に関しては、当時無名であった和太鼓グループ「橘太鼓響座」のメンバーに協力を得た。御神幸後に行われる、神社境内の大樹のもとに設えた幻想的なステージでの演奏は、現在、和太鼓グループのあこがれの的となっている。
 祭りの準備は整い、後は歴史を積み重ねるだけという確信はあったようだ。
 七年後の今年、都城駅前広場での御輿連出立式には、祭り装束に着替えた三百人を超す参加者が集まっていた。御神幸は午後七時に始まった。灯籠・旗・先祓いの天狗に続く獅子舞は日南市から習い受けた。跳人には博多から約二十人が参加した。響座による「おかげ囃子」、小学生が乗る「おかげ太鼓」、都城市長に続くのは今年から始まった子供御輿、参加者急増の女御輿、八百キロを超える男御輿。最後は、神柱宮の神官と福笹である。現在一キロにわたる御神幸も、「最初の年は、二十メートル程度を担ぐのが精一杯。担ぐ姿も今振り返るとみっともなかった。」と総務総括委員長の黒岩常正氏は苦笑する。
 昨年の夏、宮崎市のある伝統的な祭りが、御輿担ぎ手がいないために中止された。多くの地域では伝統を守ることが重荷になりつつあり、義務感を感じた若者たちは祭りから離れている。一方、年を追うごとに拡大する「おかげ祭り」がこれまで発展し続けられた理由は、役員の方々の話を考え合わせると「組織化による人々の結びつき」「(見られたい、参加したいという)かっこよさ」といえよう。
 廃れる祭りがある一方で、新しく生まれる祭がある。こうした新しく作られる祭りが常に必要とするものに伝統性がある。何らかの形で歴史を引き継いでいるという拠り所である。神柱宮の夏祭り「六月燈」にあわせて行われるおかげ祭りでは、神柱宮と関係の深い神社から担がれることのなくなった御輿を男御輿と子供御輿として復活させているという説明がされるのだが、これは単なる金儲けの町おこしではなく、熱中するに値する祭りである拠り所探しだといえよう。今後も地域の歴史や伝説が再確認され、様々な点で、祭りの再構成が図られることであろう。
 「伝統」とはこうして作られていくものなのかもしれない。

『みやざき民俗』編集長。日本民俗学会会員。宮崎県生。

※以下に2000年の六月灯の写真(渡辺一弘撮影)を紹介する。

都城駅前

※現在のおかげ祭りについては、ニュースなどで多く紹介され、公式ホームページができている。


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