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トビウオをめぐる民俗誌 ー宮崎県都井岬のトビ網漁ー


「トビウオをめぐる民俗誌」『宮崎県総合博物館紀要21』(平成11年3月、宮崎県総合博物館)草稿に、原稿には掲載しなかった写真等を挿入した。

1.はじめに

 トビウオは、一般には海面を滑空する姿が親しまれ、よく知られている魚であるが、その特異な生態から特定の地域では季節とともに群をなして訪れる重要な魚種となっている。日本近海のトビウオは、約20種類もみられ、そのうち食用として7、8種が重要で、そのほとんどが日本の南方海域で育ち、夏に産卵のため北上し、沿岸域に近寄り、秋には南下するという生態を持っている。トビウオの成魚は、産卵のため沿岸の藻場に大群をなしてやってくるため、その瞬間を一網打尽にすれば数万尾の漁獲が得られる。その習性を利用した刺し網・まき網・定置網が各地で行われている。また、この他、延縄やタモすくい漁などで漁獲されている(註1)。
 宮崎県串間市の都井岬周辺の漁場でのトビ網漁は、初夏の田植えの季節を伝えるもので、その漁の勇壮さは有名であった。この漁について宮城雄太郎が「飛魚の石打ち網」として記述している。(註2)
 都井岬の追込み網は、網船二隻、石打船三隻で編成され、他の飛魚網組との間に、すさまじい競争が展開される。夜半に出漁してまず漁場の探査である。これは他の組にさとられぬように、船頭の指揮で隠密に行動し、魚群を見付けたら静かに夜明けを待つ、その間は煙草をのむことも慎しみ、所在を知られぬように心を配るのである。飛魚は朝まずめに、産卵のために接岸するので、ころあいをはかって網を張る。網を降したとみるや、石船の若者は、積んだ石を雨、霰と打ちこみ、魚群を引網へと追込むのである。もちろん、他の網組も魚群を探索して網を降すが、同じ魚群を、二組、三組が探知して待機している場合もある。そのような場合は、網を張る競争、投石の競争とまさに海上の死闘さながらである。
 田植えに重なるこの時期には、漁村のみならず、農村も総出でのトビウオの追い込み網漁が行われる。この漁法は、集落単位で行われることが多く、このトビウオの来遊が人々の生活に与える影響は大きく、その民俗全般を一年にわたってトビウオを軸に暦や社会組織が構成されるのである。
 本稿では、宮崎県串間市都井岬周辺のトビウオ漁を取り上げることで、トビウオという一魚種が民俗に与える影響を民俗誌的に捉えようとするものである。二つの集落が同様のトビウオという魚種の来遊に対してどのように異なった対応をするかを、漁村と半農半漁村との比較でみてゆく。

2.トビウオの研究史

 トビウオは海流にのって寄り来る魚種として、カツオと並んで、様々な視点から研究の対象となってきた。
 まず、下野敏見氏による鹿児島県屋久島のトビウオ招きの儀礼を中心にした研究があげられる(註3)。屋久島の「トビウオ招き」儀礼と種子島で行われる「エビス祭り」との比較をとおし、東シナ海に伝わる儀礼を比較民俗学的に考察した。また、種子島のトビウオ漁についての詳細な報告もある(註4)。種子島の報告に関しては、この他、川崎晃稔氏による報告もある。種子島の一漁師の日記をもとに記した生活誌では、種子島におけるトビウオ漁の重要性が把握できる(註5)。渋沢敬三によれば、太平洋側でトビ(トビウオ)というのに対して、日本海側ではアゴという(註6)。この日本海側のアゴ漁に関しては、野地恒有による報告がなされている。回遊魚とそれを追って移動する漁民との関連を指摘する研究もある(註7)。
 これまでの研究は、主に各地の民俗事例を共次的に比較し、そこに伝播経路を見いだすという方法がとられてきた。トビウオを追う漁民が伝えたであろう儀礼が、なぜすべての地域に残されてこなかったのか。以前、屋久島のトビウオ漁について調査した際、トビウオの来遊に会わせて出稼ぎに行った者がいっせいに帰省し、この時期に重なる田植え・麦刈り・サツマイモの種付け・畑作物の収穫などをまとめて行ったという話を聞いたことがある。(註8)トビウオの大群の来遊が人々の生活に与える影響を考える必要性を感じた。そこで本稿では、宮崎県串間市都井岬の特定の集落を取り上げ、トビウオがもたらす影響の違いを見ていく。

3.トビウオの生態と漁の種類

(1)生態

 トビウオは、日本近海では20数種が知られているが、そのうち水産上重要なのは、ホソトビ・ツクシトビウオ・アヤトビウオ・ハマトビウオである。(註9)
 ホソトビは、日本海沿岸でアゴ・マルトビ、宮崎県串間市でコトビ(コマトビ)と呼ばれ、全長30cm以下で、ツクシトビウオより味がやや劣る。日本海側で最もよく獲れる。
 ツクシトビウオは、日本海側でカクトビ、宮崎県串間市でオオトビ(ウトビ)と呼ばれ、全長35cm以上で、八十八夜の頃種子島・屋久島・都井岬方面に大群をなして来遊し、5月下旬~6月上旬にかけて盛漁期を形成する。産卵の際に海水が乳白色になるが、この現象を種子島や都井岬では「アゴをたてる」という。
 アヤトビウオは、夏から秋にかけて出現し、胸鰭に多くの紫褐色の斑点がある美しい魚で、串間市ではヒジロと呼ぶ。
 ハマトビウオは、伊豆七島でハルトビ・カクトビ、種子島・都井岬でカクトビ、油津でコシナガと呼ばれ、日本産トビウオ類中、最も大きくなり、全長50cm、重さ1kgに達する。魚体が大きいので、刺身になり、塩焼きやクサヤの干物にもする。油津では、現在でも延縄で漁獲される。

(2)漁の種類

 『宮崎県漁具図譜』(註10)には、トビウオの主要な漁法として、敷網(都井・福島・北方)・延縄(南郷・油津・青島・都井)・桝網(都井)の三つの漁法が取り上げられているので、ここで桝網と延縄を紹介する。この他、都井岬周辺では、タモすくい漁が観光的に行われている。

【とびうお桝網】図1
大 き さ 囲網 囲40~50尋、囲口10尋、嚢2~4尋
      敷網 側25尋、胴9~10尋、垣網60尋内外
形状・構造 塀状箱型の囲網、一直線に壁立する垣網及楕円半形皿状の
      大敷型敷網、円錐状の嚢網よりなる。
      敷網は囲網の嚢網を付せざる側に付す。多くビクにて定置す。
      網は3号8~10節及び荒手。
      側綱はマニラ、沈子綱は藁、その他は棕櫚。
      浮子は竹及び桐、ビク及び石。
漁   法 7~8人乗。6~7尺肩。和船1隻にてトビウヲの場合は
      敷網口より揚網し魚取に及ぶもその他の磯魚は沈子網に添いて
      嚢尻より揚げ、嚢尻の括綱を解きて漁獲す。
漁   場 都井岬付近水深5~7尋のところ
漁   期 5~7月
漁   獲 トビウオ・イカ・エバ・ニベ・ボラ・カマス
漁 獲 高 2,000円
図は都井村に於ける一例  図 説 第一、二図 とびうお桝網
側綱、棕櫚径6分  浮子 台は長3尋、孟宗竹10本
嚢網・浮子網、棕櫚径5分    側、垣は長2尋、孟宗竹1~6本 2~3尋間隔
垣網、びく網 藁径2寸     桐は長7寸巾2寸、厚1寸のもの7寸間隔、敷網及び囲網に付す。
ぼたん網、藁径1寸    沈子は、びく及び鉛・石。鉛は敷網口及び囲網裾に石は垣網裾に付す。

『宮崎県漁具図譜』
『宮崎県漁具図譜』

【とびうお延縄】図2
大 き さ (1鉢)幹縄300~400尋、枝糸1~1尋半、鉤7分
構   造  浮子を着けたる長さ1条の幹縄及び鉤を有する80~100条の枝糸よりなる。水面を延るものなるを以て浮子縄を■く。沈子は浮標の下部に付す。幹縄は綿糸4~5号。枝糸はテグスあるいは綿糸及びテグス3尋間隔。浮子は桐。浮標はボンデン。
漁   法 3~4人乗、4~5尺肩、和船にて潮流を過りて、4~8鉢を投縄し、■間2回3~4時間放置流下せしめ揚縄す。餌料 イセエビ、イカの切肉。
漁   場 距岸2~8里
漁   期 7~10月
漁 獲 物 トビウオ・シイラ・エバ
漁 獲 高 3,000円
図は南郷に於ける一例  図 説 
第一図 とびうお延縄操業のところ 幹縄 綿糸12本合1鉢300尋1条。枝糸 テグス1尺5寸1鉢100条 3尋間隔。浮子 桐径5分、長5寸ノモノ。枝糸4本間隔に付す1鉢23個桐径2寸長6寸のもの鉢の始めと中間に付す1鉢2個之に旗及び竿を付してボンデンとす。沈子 石50匁ボンデンの下部に付す1鉢2個。
第二図 鉤及び鉤に餌をつけたるところ。

『宮崎県漁具図譜』
『宮崎県漁具図譜』

4.トビウオ漁の歴史

 宮崎県南部の漁師は、古くは漁場を求めて南下することの方が多かったという。大隅・薩摩のみならず、南西諸島への出漁も多く、島々では宮崎からの漁師との交流について話を聞くことも多い。なかでも屋久島・種子島との交流は深く、都井岬への移住者も確認している。ここで取り上げるトビ網に関しては、種子島から伝えられたとの言い伝えがあり、『都井村史』(註11)には次のように記されている。

飛網 本漁業の元祖は立宇津小網なり、元禄の交鹿児島県種子島に於ける同漁法を伝え之を改良したるものなりと、宮之浦浜網も同年代の創設なりと伝うるも何れも確たる口碑なく、其如何なる人に依って創始せられたるか不明なり、次で立宇津大網、宮之浦在網、黒井網、今町金屋■網等を見るに至れり、之旧藩時代に於ける制限網にして、之以上には 濫りに新設を許されず、迫、宮原網の起こりは明治の初年にして、廃藩後制限解禁後の設置なり。

『都井村史』

 種子島でのトビウオ漁は、都井岬のものと比べると少人数であり、素潜りで追い込む糸満式に近い漁法であり、「改良したる」との記述にはうなづけるところがある。元禄年間(1688~1704)に伝えられたとあるが、種子島の「トビ繰り網」が宝永6年(1709)に長崎の五島から伝えられたとの伝承があり、時代が前後はしているが、おおよそ近世中期に伝えられたと考えられよう。(註12)
 立宇津小網・立宇津大網・黒井網(旧都井村)、宮之浦浜網・宮之浦在網(旧大納村)、今町・金谷網(旧本城村)などが藩による許可漁業として行われたことは、他の史資料では確認できない。ただし、明治初期のデータを元に編纂された『日向地誌』(註13)には、この地方の漁獲物としてトビウオの漁獲高が記されているので、かなり大規模でのトビ網が行われていたことが分かる(表1)。

表1 都井岬周辺集落概要(『日向地誌』を要約した。明治初年の状況を示している。)

 昭和20年代は、比較的大漁であったという時期の漁獲量を『水産年報』で見てみる。表2のように、富島は定置網による大漁捕獲、油津・目井津は延縄による大型のコシナガ狙いということもあって、数字的には群を抜いている。

表2 漁協別トビウオ漁獲高(『水産年報』1954による。註14)

現在までのトビ網を保有する集落の変遷を見てみると表3のようになる。近世期には制限網であったために、5統のみの稼業であったが、明治期以降、都井村の各集落も参加できるようになる。迫・宮原網に続いて、毛久保集落の網はさらに後になってから始められたものである。毛久保集落自体が立宇津などの漁村からの移住者によって作られた集落とのことである。

表3 網を持つ集落

5.トビ網について

 本稿で主として取り上げるトビウオ漁法は、都井岬周辺でトビ網と呼ばれ、その勇壮さ、漁獲量の多さとで有名であり、漁獲されたトビウオの干物は田植え時期のタンパク源の供給食糧として馴染みが深かったという。村をあげての行事のようにして漁に出ていた。

(1)漁の時期

 6月10日頃から1ヵ月ぐらいが漁期になる。戦後1回だけ6月1日に行ったことがある。トビウオは、6月初旬に小さめのコトビ(コマトビ)、下旬にオオトビ(ウトビ)、漁の終わりを告げるヒジロ(目玉が大きく、羽に茶褐色の斑点がある)と、時期によって種類が変わり、トビ網で漁獲するのはこの3種類である。トビ網は、夕方の漁(午後3時~6時)と朝の漁(午前3時~6時)の2回行われた。夕方の漁は、群が固まっていないため多獲はできないが、朝の漁では、1回で1万から1万5千尾が獲れていたので、数回繰り返すと網のアバ(浮子)が沈んでしまうほどで、ヒブネでアバを持ち上げる必要があった。

(2)漁場

 漁場の事をタンポといった。漁場は、岬神社の下から西側にかけての地点。特に「黄金の瀬」の内側の北西側(ウロブチ)で全漁獲高の3分の2に当たるトビウオがとれていた。
 都井村の時代、最盛期には、毛久保で1張り(一時期2張り出したこともあった)、立宇津で2張り、迫と東宇土が一緒になって1張り、宮の浦が1張り、黒井が1張り、今町からも1張り来ていたので、計7張り出していた。1統に4、5隻の船が必要で、約30隻の船が漁場にひしめきあった。トビ網は県知事の許可が必要で、他県からの網船は来ていないし、他の漁の船も青年達が近づけようとしなかった。
 櫓が漕げないほどホンダワラなどの藻がたくさん生えていたので、2尋位しか網が沈まないこともあった。そのため、エンジン船でジュウセン(網船)を代用することはできず、昔からの櫓漕ぎのジュウセンを使っていた。戦後は動力船でジュウセンを引っぱって使用することが多くなった。
 かつてはホンダワラが豊富で、トビウオやミズイカが産卵する場として最適だった。また、この時期黒潮が「黄金の瀬」の下(しも)の方に寄せてくることもトビウオ漁の好条件だった。ところがホンダワラがほとんどなくなってしまい、魚影も薄くなったために今では定置網漁でとるようになった。
 黒潮に乗ってくる魚は、トビウオのほか、カツオ・シイラなどがいる。シイラは、トビウオを追い出すので、定置網漁でトビウオをとる漁師にとってはうれしくない。

(3)漁の説明

 トビ網は、魚群を箕状の網に追い込み漁獲するもので、その漁法に関しては『宮崎県漁具図譜』(註15)には「とびうお敷網」として紹介されている。

大 き さ 肩50尋 裾18尋 側15尋前後 図4 トビ網の図
形状・構造 側及び裾を以て径とする。半円に近き扇面形にして
      箕状をなす。浮子浮上し沈子中層にあるこ2艘張網
      は裾に比し肩著しく長し。網は麻9本合節。綱は棕
      櫚。浮子は杉。沈子は石。
漁   法 13人乗8尺肩和船2隻にて潮を受け魚群を囲みて投
      網し、5~6人乗5尺肩和船2隻にて石・竿等を用
      いて脅喝し魚群の脱出を防止しつつ網裾を引揚げ両
      側より揚網漁獲す。
漁   場 県南距岸1~2里。殊に都井岬付近を好漁場とす。
漁   期 5~7月
漁 獲 物 トビウオ
漁 獲 高 50,000円
図説
第一図 とびうお敷網
浮子綱 棕櫚径3分、50尋のもの1条。浮子綱 同18尋のもの1条。
側綱 同15尋のもの各1条。
引綱 藁径5分。
浮子杉 長3寸巾3寸厚さ2寸のもの6寸間隔。
沈子 石 沈子綱の両端のもの2貫匁 中央160匁のもの2個。
第二図 操業せるところ
第三図 網地配置
イ、麻4本合9節65尋3反。
ロ、同61尋2反(下段5尺ニ付3寸減)。
ハ、同55尋2反(下段5尺に付5寸減)。
ニ、同47.6尋5反(下段5尺に付順次7寸減)。
ホ、同3節27■尋1反

『宮崎県漁具図譜』
『宮崎県漁具図譜』
『宮崎県漁具図譜』
『宮崎県漁具図譜』

 以上のような構造の網は、戦前までのかたちで行われ、戦後は網が合成繊維に、浮子がプラスチック製に代わった。これらの構造を持った船で、どのような漁が行われたか、以下、順を追ってみていく。
①ヒブネのオモテダチが魚群を見つける。
 トビウオは、潮が寄せたところにしか上がらない。だから、夕方に潮を見に行けば、翌朝どのあたりに上がるかわかる。
 夜間にはトビウオの姿は見えないが、トビウオが動くとリンがかかる。そのリンで魚群を見つけられる。月夜で明るくなるとリンがかかるのが見えなくなるため、明るさを頼りに魚影を確認して見つけることになる。トビウオはまったく動かなくなるとリンが消える。リンが出ている間に網を入れてしまうといっせいに逃げてしまい漁獲率が減じてしまう。そこで、暗黙の了解で、リンが消える瞬間までは網を入れない約束があった。リンが消えるやいなや網を入れた。そのリンの消え時を見極めるのがオモテダチやイワツケの目の良さと経験であった。
 朝の漁で、ヒブネがトビウオの群を探している間は、ジュウセンは沖の方で待機している。待機している人みんなが、すべてのヒブネのオモテダチに注目している。自分の統のオモテダチだけを見ているのではなく、他の船のオモテダチも虎視眈々と見つめている。そこで、自分の統だけにしか分からない合図を考えて工夫していた。例えば、座っていた人が立ち上がる、ポケットに手を入れる、頭を掻く、等の仕草があった。後にはジュウセンに電灯の明かりで知らせた。群を見つけるのは立宇津の統が先ず見つけていたので、立宇津の船が動き出すと他の統もいっせいに動き出した。立宇津の人は何するでも作業が早かった。
②魚群を見つけると、ジュウセンは網を降ろし広げ、ヒブネは道具を使って魚群を網へと追い込む。
 ヒブネにはオモテダチ(船の表に立って見る人)を乗せ、トビウオを捜し、発見した群れをジュウセンに追い込む。トビウオを驚かせ、追い込むためにウチイシ・カリボウ・ウチオロシを使って魚群を追い込んだ。
 ジュウセンは10尋の帆柱を積んでいたが、それで船を突いたり、石を投げたりしていた。この漁場争いが激しいことで有名であり、昭和25、6年頃には、人に石が当たって大けがをして警察沙汰になった話もある。ヒブネの舳先に立つタイショウ(船頭)が魚を見る。ジュウセンの舳先にもタイショウが立っている。ヒブネのタイショウの合図は、手を広げて「やれー」で、ジュウセンがいっせいに網を落とした。よその地区が出したジュウセンよりも先に網を入れなければならない。負けたら突き曲げられるから必死だった。櫓を漕ぐときには「エイヤー」「エイヤー」と交互に声を掛ける。櫓は1年に2~3本折れていた。網を降ろすと、さらに「エイヤー」の掛け声で魚群を急いで取り囲む。
③魚群を取り囲むと網を揚げる。
 網がパンと張ったら「ヤーレー、ノセー」と掛け声をかけ、網を船に引き揚げる。
④魚群を寄せてタブですくい取る。
 魚群を寄せてタブですくい取るときには「エイトー」と声を掛けながらすくう。

撮影:清水洋香。昭和30年代後半

(4)船の構造と構成

 1統の構成は、15~16人乗り込んだジュウセン(漁船)が2隻、6~8人乗り込んだヒブネ(灯船)が2隻(後に3隻)である。ジュウセンは網を積む船で、長さ10尋(15mぐらい)、幅9尺(3mぐらい)の大きさで、6~8丁艪で、ヤヒロブネ(八尋船)とも呼んでいた。高さ15mほどの帆柱に帆を掛け移動し、漁の際には帆を降ろし帆柱を倒した。10年ほど前まで宮之浦の大敷網に使われていたが、現在は残っていない。ヒブネは一般の漁で使うときにはテント(テント船)と呼んでいた。船の大きさは、長さ5尋(約7.5m)・幅7尺(約2.5m)で、4丁櫓であった。
 ジュウセンは、統の違う船と船が漁場争いのためにぶつかり合うために、ロドコがゆるんでしまう。宮浦から船を借りてきたときには、ロドコがゆるんでいるため、まずこの作業を始める。トッポイ(アケビ)のカズラを藁の火で焼き、水に浸けて腐らせて、皮をむいて使う。櫓床(ロドコ)を葛で結びつけた。皮をむいたつるが柔らかいうちに結ぶと、乾燥したときに強く締まった。
 艪木はイチイガシを使った。船の親方が持って来ていた。右前の櫓は、若者が3人で漕いでいたので、すぐに折れてしまった。そうすると船大工が眠くても次の漁までに作らなければならなかった。船大工にとっては櫓が折れることは大変迷惑だったという。
 網の間口が20間、長さが50間(片翼が25~30間)。一晩に6万尾とったこともある。捕獲したトビウオは、ジュウセンに積み込んだ。網は、ナイロン製のもの以前は、綿糸を買って使っていた。浮き(アバ)は桐を用い、昔は、自分で作っていた。おもりは鉛だが、昔は、イワイシ(浜で拾ってきた丸石)を使っていた。
漁から帰ってくるとすぐに夜いくら遅くなっても次の漁のための準備をしなければならなかった。昔は石浜だったので石ばかりの浜であった。船を浜に揚げるときには、コロ(枕木)を据えて馬で引くこともあったという。
 ウチイシ(打ち石)は直径15cmほどの大きさの浜石で、事前に船に積んでおく。海に投げ込みトビウオを驚かす。ジュウセンにもヒブネにも積み込んだ。
 カリボウは、1mほどの長さ、樫・松の木製の大きなバットのようなもので、先に窪みがあり投げ込むと泡がたつ構造であった。丸みのある先をノコで十文字に切り込み、中を少しえぐっておくと、それから生じる泡によってトビウオが驚く。固くて粘りのあるカタシ(ツバキ)の木や、ヘバ(シャリンバイ)の木を用い、投げ込む要領があり、少し上向きに投げると勢いが付いて水面深く沈んでいた。縄が付いており回収し何度も使う。縄の長さは7~8尋、沈める深さ2~3尋で、麻縄やシュロ縄など丈夫なものを使った。ヒブネに積み込んだ。
 ウチオロシの石の大きさは、直径15cmで、形は卵形で、紐をかけるための溝を彫る。今は定置網の沈子に使っている。繰り返し振り下ろす。麻縄やシュロ縄など丈夫なものを使い、ジュウセンにもヒブネにも積み込んだが、ジュウセンのものはヒブネのものよりも大きな石を用いた。
 朝の漁では、石をあまり投げずにウチオロシであわを出すだけであった。群が固まっているので石を投げる必要はなかった。、夕方はカリボウとウチイシだけで漁をした。
 服装は、ツヅレ・ヘコ・ハチマキ・素足・ズボンなどで、雨の日にはミノを着た。コバの木の葉を築島まで買いに行ったり、築島から売りに来た物を購入したりして、自分たちでミノを作った。コバの葉は、軽くて、防水性が高いので、シュロミノより使いやすかったので、トビウオ漁で雨が降ったときにはこのミノを着た。イワツケなどは3人で網を揚げるので、ミノはボロボロになるものだった。
 船には、カライモや小麦粉のダンゴ、コッパンダゴなどを磯テゴ(四角で縁が丸い)に入れてたくさん持って乗り込んだ。また、水桶に水を入れて柄杓で汲んで飲んだ。

(5)トビウオの加工

 トビウオは傷みにくいことから、戦後はほとんどが氷詰にして仲買人が購入していたが、それまでは塩漬けや干物にすることが多かった。値がいいときは生で売り、値が悪い時はシオギリにしたという。立宇津にも毛久保にも川があり、そこに集まって魚をさばき、背丈ほどもある大きな樽にトビウオを塩漬けすることは大変な重労働であったという。戦前のトビウオの加工については『都井村史』に記述があるのでここに引用する。(註16)

(イ)干飛製造 乾燥の平易なるは本魚の特徴にして、古来干飛として販売せられたり、其方法は各網子が毎日其取上を分配し、各戸婦女子の副業として製造せられたるを以て其製造戸々不揃いにして製品至って粗雑なりき。
(ロ)中身抜取の事 飛魚切は製造中の重なる技術なり、古来漁家の副業として婦女子の業務に属せる事上述の如し然るに往時は中身取と謂つて飛魚を背開きに切割るに際し、背骨に肉を附し置き、之を包丁の背にて逆にコサギて中身を抜取り蒲鉾に製して販売したり、世に之を飛の団子と称して賞用せられたり、明治三十年頃より中身干飛は価格を区別する事となり漸次之を廃止したり、日露戦役後は専ら生魚販売に改め、製造も亦商人の一手にて精製せられ品質大いに改良せられたり。
(ハ)干飛の販路 重なる移出先は阪神地方なり、此地方に販路を開きたるは天保嘉永の交にて取引を開始せるは福島今町神戸氏の祖先なり、往時他に漁商なく全く氏の専売に任じたりと、而して重なる需要地は大和地方にて古来盂蘭盆精進明の肴として賞用せられたり、価格は旧藩時代に於ては商人の言うが侭にして至って低廉なり、明治の初年頃は天保銭一枚(八厘)にて十尾、十年頃にて五尾、一尾八厘を唱えたるは日清戦争後なり、日露戦役後は一銭三厘乃至る五厘に騰貴し、欧州大戦後は三銭乃至四銭の間を昇降し、他物価に比し割合に高価ならず。
(ニ)漁法改良の議  は常に当業者間に交換されたりと雖も、入漁慣行の広きと、漁業者の一致心に乏しきとは之が決行を見るに至らざるを遺憾とせらるる明治三十六年には迫、宮原、黒井の三部落共同の下に沖廻網を試みたるも当年は魚群少なく、且つ網の構造及使用法の欠陥に依り、遂に失敗に帰し一年にして之を廃したるは残なり。

『都井村史』

 トビウオは、昭和25、6年頃までは大阪辺りに船で売りに行った。小林辺りにも売りに行った。2、3日たって食べて当たった話などもあった。トビウオでもうけたお金で、公民館を建てた。

6.トビウオをめぐる集落の対応

(1)立宇津 

①立宇津の概要

 立宇津の漁師は、「本漁師」と言った。しかし、トビウオ漁の時期だけは他の漁を一切せずに、トビ網に専念した。手釣りの一本釣りや曳縄をチョロブネやテント(ヒブネ)などの小型漁船での漁がほとんどであった。以前は立宇津もカツオ一本釣りの船(ジュウセン)を持っていた。以前にカツオが多いときには、カツオがツボンボという小魚を追って群を成し海面が盛り上がるほどであった。黄金の瀬にまでカツオが寄ってきていたという。そのツボンボをタモですくい取り、生餌として竿釣りをしたものである。
 昭和38年頃からボウケ(棒受)網を個人でやる人が増えて、さらに巾着網をする人が増え、昭和38~42年頃、黒井の農家に加勢に来てもらったこともあった。
 立宇津にジュウセンがなかった理由は、ジュウセンの使い道が限られていた。ジュウセンは、カツオの一本釣り、定置網の引き揚げ、トビ網と、共同の漁に使う船で、ジュウセンの購入にはかなりのお金がかかった。金持ちでないとその様な大きな船は買えなかったし、本漁師にとっては個人漁ができるテント(小型の船、ヒブネ)やチョロ(1丁櫓船)を個人所有で持つ方が効果的であったためであるという。
 戦前は、大網組と小網組の2組に分かれて競い合っていた。嫁の家の父親の統が違ったりすると、トビ網の時期には口も聞かなかった。大網・小網と言うが、網の大きさは同じであった。戦後は合同で行うようになった。
 立宇津では、船が2統あったため、トビウオの時期になると、集落が統によって二分された。親子・兄弟であろうとも口も聞かないと言ったことが当然であったという。
 昭和18年ごろは、県北の富岡辺りから5~6人、金谷から2~3人出稼ぎに来ていた。

②漁の様子

 公民館に青年が2人ぐらい、交代で泊まり込んで、時間になると「デッドー、デッドー」とオランデサルイタ(叫んで起こして回った)。オラビカタは、魚がたくさん獲れても、夜9時くらいには眠りに帰った。オラビカタは昼の間には毎日網に風を通すため繰り回した。濡れたままにしておくと腐ってしまうため。
 トビ網の時期には、他地域からのヨダキ(夜焚き)に漁に来ていたが、この時期だけは禁止されていた。火を焚いている船を見つけたら青年が行って、ヨダキはできないといって追い払ったものである。

③行商

 とれたトビウオは、行商で売るよりも、婦人部総出で塩による加工をした。当地を流れる2つの川の河口をせき止めて、その場でさばいていた。朝とってきたトビウオが、夕方の漁が終わって戻って来た時も、さばき終わらないこともあった。塩をふった後、直径が3mほどの樽につけ込んでいた。
 女の人は、担いで本城・福島へ行く。戦後はシオギリなどを買いに来る業者がいた。都城市辺りからは反物を持ってきて数箱と交換していたという。
 タゲという疑似親族関係があった。行商先の方面に決まった家があって必ず魚を持っていったようである。戦後は廃れたようである。

④船

 大正時代頃までは、カツオ船を持っていたようである。立宇津は、ジュウセンを所有していなかったため、宮之浦から借りてきた。1月から5月上旬に掛けては、宮之浦でジュウセンがブリ大敷網に使われているため、この大敷網の時期が終わってから、立宇津や毛久保の人たちが借りに行った。5月20日頃から宮之浦に船を借りに行く。借りてきた船には、櫓床を結んだりなど、船や網の準備を始める。6月10日から13日頃にトビウオ漁が始まる。7月10日頃まで続く。旧暦の5月5日頃が漁期になる。毛久保の組は、普通作の田植えの作業時期に重なった。7月20日頃までには、宮之浦に船を返しに行った。大敷網を仕掛ける正月までこの船を使うことはないため、港から丘の上まで押し上げておかなければならなかった。

⑤麻

 祖父の時代は、各家が網を作るために「麻畑」をもっていた。そこでとれた麻で縄を作り、分担して網を作っていた。製作後1ヵ月も使っていると腐りはじめ、網を揚げようとすると切れてしまったこともあった。終戦後4~5年ほどは、釣り縄も麻縄を使っていた。麻の皮を蒸さないで、川につけておいたのをほぐして、紡いだ。麻は蒸すと力がなくなる。祖母が指先に灰をつけて、こよりを入れるように、撚りを入れながら糸巻き機に巻いた。麻の茎は精霊様の箸に使った。

⑥分配

 立宇津では、船がないために、宮之浦からジュウセンを借りた。宮之浦の船主から立宇津の船主代理が借り受け、この代理は船代として4人前の配当をもらう。船主は次の通りである(←宮之浦の船主)。
  山本房吉(←谷口六左衛門)  山口藤次郎■(←河野作次郎)
  岩切福松(←前田常義■)   ■(←河野末治)
 船の管理は、シケで漁のない時を利用して、青年三〇人ぐらいで行なった。明治頃には、立宇津でもカツオ船としてジュウセンを持っていたが、昭和に入ってからは宮之浦から借りてきていた。
 ・ジュウセンの船主 4人前    ・イワツケ     1人2~3合 
 ・ヒブネの船主   2人前  ・トモロオシ  1人2~3合
 ・フネンシマツ  3人前      ・オモテダチ  1人2~3合
 ・オラビカタ 3人前  ・テランメ  2統各1人前
 ジュウセンの船主4人前の内3人前は宮之浦の船主に渡す。後に2人前になった。船を預かる家のことをカブと言った。ヒブネは毛久保から借りてくることもあったが、その時も2人前渡した。ヒブネは、ほとんどの漁師が持っていたため、借りることはほとんどなかった。オラビカタは、戦後は2統からそれぞれもらって2人前もらっていた。フネンシマツとは、船の手入れをすることである。
 オラビカタは、朝と晩に漁の時間になると「でっどー、でっどー」とおらんで(大声で伝えて)回る役割である。当初、毛利久平(通称きゅうへいじい)が専門で行っていたが、戦後、青年が交替で担当するようになった。トモロには、ミツオジ・キクゾウジ・金丸ヒデジ・岩切孝さん達が当たった。イワツケには、岩切久三・ショウイチロウジ・ジサジ・トイチボイさん達が当たった。オモテダチには、岩切ソウイチ・ヨキジさん達が当たった。
 全体的に、船主や船頭が徳をするようにホシの計算がされていたため、戦後、セイネンノメ(青年の取り分)が設けられ、そのお金は積み立てをして油津や宮崎に遊びに行ったという。
イケマ掃除 漁から帰ってくると船の掃除を子どもたちが手伝うと、トロ箱一つくらいずつ褒美としてもらうことができた。

⑦信仰

 昭和9年が最も漁があったときで、10万越し獲れて、万ゴシ祝いをした。当時コマトビが8厘、ウトビが1銭3厘であった。10万越えると赤い旗を立てて、1万ぐらいだと白い旗を立てて、赤い鉢巻きがわたって、みんなそれを結んでいた。漁があるときには赤い旗を、漁が少なかったときには白い旗を立てて帰ってきた。
 諏訪神社 諏訪大明神 神像。お諏訪様の命日で、祭日は8月28日である。27日にヨドをした。昔は旧暦で行った。古川ジュウイチロウさんが20分くらいの神楽を舞っていた。各集落にはホッドン(民間の神主)がいた。宮原(土持家・井出家)・東(野上家)・迫(岩下家)がいた。立宇津には、神道の家は3件のみであった。エビス神社の祭りは、旧暦10月10日、現在は新暦10月1日に船主会のみで行っている。諏訪神社・エビス神社は第3日曜日に掃除をする。潮の流れが悪くなるとまったく漁が無くなる時がある。その様なときは漁祈念をする。エビスサンに神主が祝詞をあげ、昔は浜で相撲をとった。トビウオが獲れないときがあって何度か漁祈念をする事があった。
 ベザイテン様(弁財天様) 祭りはエビスと同じ。漁港沿いにせり立つ岩の上に鳥居と石祠がある。右舷側と左舷側からそれぞれ6尾ずつトビウオを投げた。これはトビウオの時だけ行ない、カツオ漁などでは行わなかった。トビウオが獲れたときには、ジュウセン1艘につき、それぞれ12尾ずつ投げ込んだ。この習俗はカツオ漁の時にはしなかったことである。トビウオは絞めてから投げる。ベザイテン様は、漁師が朝早く(朝2時頃)漁に行くと怒ると言われている。ベザイテン様は女性であり、女性は朝早く起こすと怒るからだという。

ベザイテン様

 龍厳寺 5月10日から6月20日にかけて子供が産まれると母と子は寺に籠もらなければならない。昔、トビウオ漁で漁船が大きな事故を起こし、占い師が尋ねると赤不浄が原因であるといわれ、それから寺に籠もるようになったという。また、長者の娘が隠れてお産をしたところ、トビウオ漁で大きな事故があったという話もあるが詳細は不明である。姫様の墓というものがあり、それは小田原家の先祖であり、この長者の娘ではないかとされている。
 井上タマ代さん(大正3年9月25日生)によると、龍厳寺は昔は大変大きな寺であった。六畳の客間に、母親と赤子が泊まり込んだ。夫も漁のない時には泊まりに来ていた。寺の人や女の人が船に乗ると漁が無くなると言われた。


龍厳寺

⑧漁の衰退

 トビウオ漁は、集落単位の大がかりな漁のため、共同で行わなければならなかったが、トビウオの漁獲量の減少に加え、巾着網が普及して、個人漁が多くなり、トビウオ漁への参加が少なくなり、廃れてしまった。
昔は船頭が星を着けていた。

(2)毛久保

①毛久保の概要

 毛久保集落は、立宇津からの移住者が中心につくった半農半漁の集落である。漁業は、定置網が主体で、トビウオ船(定置兼用)を独自で持っていた。カツオの一本釣りはしなかった。農業は畑作が中心であったが、昔は5、6軒しか田を持たなかった。百姓が半分で、一年間に船にのるのがトビウオ時期だけという人が多いので、必然的に立宇津が漁の主導権を握った。
 毛久保は、農家(宮原・迫)との共同作業のため、専業漁師の立宇津と比べると作業も鈍く、トビウオ漁に関しては、よく突っかけられていた。昭和24、5年頃に、立宇津と毛久保で監督船を出したことがあった。オモテダチには立宇津の人が当たり、その人は内緒で帰って、立宇津だけで漁に行き、毛久保の人をだますようなことがあったので、すぐに廃止になった。

②分配

ムラギミ    1人3合 トモロ 1人2合
ジュウセン   3人5合~4人 イワッケ 1人2合
テント(灯船) 2人 成員      1人
オモテダチ   1人2合 学校あがった子 8合目(1年目だけ)
 ムラギミ、あるいはツドリ(頭取)と呼ばれる会計の係が2人いてホシをつける。船主がツドリの加勢をした。何年かで交替した。役割などの取り決めなどはこの係が行った。ムラギミは1人3合前であった。尋常高等小学校を卒業後、すぐに網のウラデン(役員)を6~7年続けてやった。ウラデンとは、朝起こしてまわる人で、漁の時期になると、夜みんなを「行くどー」「でっどー」などと起こして回った。魚がとれるとそれを業者に売りさばき、寝る間がないほどだった。
 フネンメとは、船を出した人にわたる分け前のことであり、船を持っていることをカブという。ジュウセンカブ・テントカブといった。毛久保では、上原マサジロウ・村中千代吉がそれぞれジュウセンを持っていた。立宇津は持たなかった。迫では、川崎トヨジさんが網元で、2艘のジュウセンを持っていた。昭和38年に親方制度をなくした。

③漁の様子

 ろをこぐ人は裸になる。ロジリツケといわれた。最もトビウオがとれたのは、昭和20年代であった。それ以降、だんだんすたれていった。定置網が導入された後も、5月25日には網をあげさせて、村総出のトビ網漁に備えた。毛久保から2張り出したときは、迫と一緒になったため。集落が2つに分かれた立宇津とは異なる。中原健太郎さんは、網が揚がりはじめて漁に興奮してくると、帆櫃にのってげきを飛ばしていた。

④信仰

 集落全体が神道で、都井神社の氏子であった。葬式も神道葬であった。10万越しの時には、神社へ30尾持っていった。
 エビス祭りは旧10月10日に「注連縄ない」といって鳥居の注連縄をはりかえる。都井神社の神官をつれてきて、船主でドックのペンキぬりなどをして、なおらいをする。12尾もっていて腹合わせの掛けの魚にした。12尾(ジョウセン2隻づつ)を首をあげてあらって、12尾おいて、えびすさんにおがみながらエイヤーエイヤーエイヤーといった。イワツケの役がする。船を「エイヤー、エイヤー」と叫びながら、エビス様に向かって各2艘が12匹ずつ投げた。イワツケが柄杓で潮を汲んで体を清め、エビスさんに拝みながら、首を曲げて洗ったものを舳先から並んだ船の内側に投げ込む。

都井神社

⑤不浄観

 毛久保では、赤不浄の時、子供が産まれたら漁に行けなかった。1週間は漁に行けなかった。トビウオの時期だけであった。ヒ(不浄)が晴れるまでは漁に出ては行けなかった。共同事業のため、他の人に迷惑がかかるといけないのでということであった。星はもらえなかった。そういう人が船に乗ると穢れると言うことで乗せなかった。立宇津では、一緒に食事をしてはいけないということで寺に上がっていた。だから立宇津の漁師はお産があっても漁に行くことができた。
 黒不浄の時には、縁起がいいから漁に行けといった。葬列には、7色の旗を作り野辺送りに使用するが、新造船の船下ろしのときには、葬式の7色の旗を使った。葬式のあとはもらっておくように船大工がいっていた。

⑥加工

 業者は買ったトビウオを川でさばき、塩切して干していた。この時期は、業者もまた、寝る間がないほど忙しかった。仲買に生で売った。値がいいときは生で売り、悪い時はシオギリにした。毛久保の製品は川に水が冷たかったので商品がよかったとの評判であった。昭和42年頃までトロ箱につめて50尾ずつトビウオをつめて、行商にひきとってもらった。

(3)集落による対応の違い

 立宇津と毛久保、二つの集落のトビウオに対する対応を比べると、様々な面で異なる対応をしていることが分かる(表2)トビウオの来遊に対して、純漁村である立宇津集落では、他の漁をすべて止め、昼夜二回の漁に出て、漁獲したトビウオは業者に売り、残りはシオギリにして行商へと行った。大型のジュウセンは持たず、農村から借り受けていた。トビウオ漁期間中は、出産後の不浄を嫌うがトビ網の方が大切なため、母子は寺へ籠もらせ出漁した。一方、半農半漁である毛久保集落では、漁師と農家の共同で行う漁で、昼は田植え作業、夜はトビ網と一年で最も忙しい期間であった。不浄に対しては普段通りの習俗が守られた。このようにトビウオの来遊は決まった習俗を伝えるのではなく、その地域によって受け入れる習俗は異なってくる。

表4 2集落の対比

7.終わりに

 本稿では、まず、トビウオといっても数多くの種類があり、来遊の時期も違えば、種類によって漁法も違っていることを指摘した。なかでもトビウオ追い込み網漁をとりあげ、種子島・屋久島・都井岬の関連をふまえた上で、都井岬のトビ網漁の詳細を報告した。さらに立宇津と毛久保の2集落のトビウオに関する習俗を比較した。今後は、さらに宮之浦・黒井・金谷・今町などの他の集落を共通の項目で比較する必要があろう。
 最後に、本調査は宮崎県総合博物館のリニューアルに際して「海のくらし」のメインとして作られた模型作成のための資料として行った。本稿をまとめるにあたっては宮崎県総合博物館地村光広氏・西都原資料館清水聡氏をはじめ、立宇津の岩切孝・岩切五兵衛・山口藤雄氏ら、毛久保の村中雅富・中村正二氏らに御世話になった。この場をお借りして深謝いたします。

(註1)塚原博「魚類の生態からみた漁法の検討 ⑤トビウオの生態と刺網漁法」『水産の科学』2-4、1983
(註2)宮城雄太郎『漁村歳時記』1976、北斗書房
(註3)『トビウオ招き』1984、八重岳書房
(註4)『種子島の民俗Ⅰ』(1982、法政大学出版局)・『タネガシマ風土記』などがある。
(註5)川崎晃稔『資料 種子島の漁撈生活ー中原太吉氏の日記ー』1978、南島民俗研究会
(註6)渋沢敬三『日本魚名の研究』1959、角川書店(『渋沢敬三著作集 第二巻』1992、平凡社、p272)
(註7)「山陰沿岸地域のアゴスクイ漁」『民具マンスリー』20-3(1987、神奈川大学日本常民文化研究所)、「〈飛魚〉と漁撈儀礼」『民俗学評論』26(1986、大塚民俗学会)などがある。
(註8)拙稿「農業Ⅱ」『上屋久町の民俗(上屋久町民俗資料調査報告書(2))』1992、上屋久町教育委員会
(註9)『魚類』博物館にあった図鑑。
(註10)後藤豪『宮崎県漁具図譜』1934、宮崎県水産会、p92~94・p134~135
(註11)野辺幾衛編『都井村史』1930、
(註12)前掲『資料 種子島の漁撈生活』、p248~249
(註13)平部嶠南『日向地誌』(復刻版)1976、青潮社、p494~520
(註14)『水産年報』1954
(註15)前掲『宮崎県漁具図譜』、p58~59
(註16)『都井村史』

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