見出し画像

「かぐや姫の物語」高校生の考察。 罪と罰、現代の我々の罪とは。

人生で初めて泣いた映画だった。
こんなにも感情を揺さぶられる映画は後にも先にも、そうそう無いだろう。この時期に投稿すると金曜ロードショーで見ただけのにわかに思われてしまいそうだが、映画館でちゃんと公開日に観た。
あの、余白の美学をこれでもかと取り入れたかのようなタッチに純粋に興味が湧いて、観に行ったのを覚えている。2014年公開だったと思う。もう4年も前のことになっている。

さて。高畑勲さんの遺作になってしまった「かぐや姫の物語」だが、ほんとうに、これで遺作で良かったのだろうな、と思う。
高畑勲さんの遺作として金曜ロードショーでも取り上げられ、ノーカット、3時間ほど丸々放送したわけだが、Twitterでも賞賛の声が大きかったように思う。3時間。小さい子供ならぐずる長さだろう。あの「愛のむきだし」は4時間超えていたっけ。満島ひかりの新約聖書を読み上げるシーン、本当に素晴らしい。

愛のむきだしは…また後で紹介します。
満島ひかりが本当にイイ。

愛のむきだしはさておき。まず、かぐや姫自体は「竹取物語」として9世紀後半ごろから成立している。

今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつゝ、萬の事につかひけり。名をば讃岐造麿となんいひける。その竹の中に、本光る竹なんひとすぢありけり。怪しがりて寄りて見るに、筒の中ひかりたり…

中学校の時、暗記させられた人も多いのではないだろうか…と思う。

この作品には、かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説話、複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に多様な要素が含まれているにもかかわらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品として評価されている[誰によって?]。
大きく捉えれば、天人女房型説話が難題求婚譚を挟んだ形になっているが、これは単なる伝承の継ぎ接ぎではない。それら伝承を利用しつつ、「人間の姿そのものという新たな世界」を創り出そうとしたところに、物語文学の誕生があるからである。
by Wikipedia

この物語を、高畑勲さんが「翻訳」したもの、すなわち高畑勲さんの思想そのものが見え隠れしたものが、今回の作品ではないか、と思っている。

「翻訳とは何か」という山岡洋一さんの本にも以下のように書かれている。

「翻訳とは、原文の表面をみて、訳文を作り上げていく作業ではない。それは英文和訳<中略>であって、翻訳ではない。<中略>翻訳とは、原文の意味を読み 取り、読み取った意味を母語で表現する作業である。<中略>そして、翻訳は学び伝える仕事である。学んだ内容を伝え、伝えるために学ぶ。」(p. 100)

その高畑勲さんの翻訳の思想を、ほんの少しだけ、自分ながらに紐解いてみたい。

「姫の犯した罪と罰」

原作の『竹取物語』で、かぐや姫は、月に帰らなければならなくなったことを翁に打ち明けたとき、「私は“昔の契り”によって、この地にやってきたのです」と語ります。そして迎えに来た月の使者は、「かぐや姫は、罪を犯されたので、この地に下ろし、お前のような賤しいもののところに、しばらくの間おいてやったのだ。その罪の償いの期限が終わったので、こうして迎えにきた」と翁に言います。
いったい、かぐや姫が月で犯した罪とはどんな罪で、“昔の契り”、すなわち「月世界での約束事」とは、いかなるものだったのか。そしてこの地に下ろされたのがその罰ならば、それがなぜ解けたのか。なぜそれをかぐや姫は喜ばないのか。そもそも清浄無垢なはずの月世界で、いかなる罪がありうるのか。要するに、かぐや姫はいったいなぜ、何のためにこの地上にやって来たのか。
これらの謎が解ければ、原作を読むかぎりでは不可解としか思えないかぐや姫の心の変化が一挙に納得できるものとなる。そしてその糸口はつかめた! とそのとき私の心は躍ったのですが、半世紀を経て今回取り上げるまで、この“昔の契り”コンセプトは、長年埃をかぶったままでした。
私にはいまも、月での父王とかぐや姫のシーンがありありと見えています。父王は姫の罪と罰について重大なことを語り聞かせています。かぐや姫はうわの空で、父王の言葉も耳に入らず、目を輝かせながら、これから下ろされる地球に見入るばかりです......。

かぐや姫公式サイトより引用↑

それはとりもなおさず、 地球に生を受けたにもかかわらず、 その生を輝かすことができないでいる 私たち自身の物語でもありうるのではないか。 地球を体験した月の人であるかぐや姫が、 命あふれる地球の豊かさや、わたしたち人間の愛憎、善良さと愚かさを 照らし出してくれないはずはない。 

―高畑 勲「かぐや姫の物語」企画書より―

——  かぐや姫が生きたその一瞬一瞬を通して、みずからの“生”を力一杯生きることの意味を問う、 スタジオジブリ最新作「かぐや姫の物語」——

突然ですが。
我々はこの地に生を受けて生きている、ということは疑いようのない事実ではないでしょうか。考え、悩み、苦しみ、喜び、生きている。

人間そのものは、サヘラントロプスチャデンシス、あるいはアウストラロピテクスの頃から存在しています。
石を削り、木を切り、子供を産み、生き存えてきた。
村を作り、都市を作り、コミュニティの中で生きてきた。

今、我々は解決不可能なものに直面しているように、僕は思うのです。
地球温暖化、テロ、食糧危機、核兵器、冷戦、宗教問題、コミュニティの破壊、sns上での喧嘩、言い合い。
どれも「主体」が見えなくなっているように思います。

昔は、良い意味で単純だったのではないでしょうか?
誰かがアイツのことが「気に入らない」から殴る。
その時生まれた不幸は、「殴った相手」を殴り返せば解消された。
あるいは気に入らないところを改善すれば良かった。

しかし、今となってはインターネットのもたらした匿名性によって主体性の秘匿が行われています。
前に読んだ論文では、現代の「希望喪失の時代」は三つの暴力によってもたらされている、と言います。

これらの暴力によってもたらされた希望喪失の時代に我々は生きている、と言います。

日本のうつ病患者の割合は15人に一人、と先進国の中でも異常な数値になっています。「ムラ」意識、共同体意識、深刻な働き方の劣悪化、中でも学歴主義、などなど、原因は挙げればいくらでもありますが…

生きにくくないでしょうか?辛くないですか?

常に目的を問われ、純粋に生きたいのにお金がないとご飯すら食べられないし、田舎で生活しようものなら、その捏ねくり回された変な共同体意識に絡めとられ、追い詰められる。学校の授業でさえ、そうです。自由な身分を与えられていたはずの学生にも、意味が問われる
何のために勉強をするのか。「お金が欲しいから」「生きるため」などと言えば不適切呼ばわり。
椎名林檎の歌詞にもこんなフレーズがあります。

東京なんてのは危険な処よ ちょっと特別視すりゃ不平等呼ばわり
平等な関係、平等な姿勢 できていると言い張れる奴ほど疑わしい
何もキめずに静かに生きるわたしは今すぐ
抜けて泣けて笑える映画が観たいのねえ貸してよTSUTAYA
まっとうな人生目指して うそを云わないで
正常な神経保っていようとしてんだ此方人等
美味しそうな今美味しそうな旬を美味しく戴く それが人生よ つまり
愛すべき今愛すべきひとと愛し合うまでよ邪魔しないで
相も変わらず都会は剣呑で信じたいものが一番怪しくて
恐怖を覚えていながらどうしても負けちゃあいられない

——  椎名林檎 静かなる逆襲

<iframe width="854" height="480" src="https://www.youtube.com/embed/9vzpWN9av2g" frameborder="0" allow="autoplay; encrypted-media" allowfullscreen></iframe>

かぐや姫の物語の冒頭では、原作に沿って、竹から生まれたかぐや姫の成長が色彩豊かに描かれます。
「ヒーメ、おーいで、ヒーメ、おーいで、ヒーメ、おーいで、おいで〜!」と連呼する翁の溺愛っぷりは微笑ましいです。
彩り豊かな山、川、木々、鳥たち、朝な夕なの営み。自然とともに生きている、原風景。とり、むし、けもの。くさ、き、はな。
異常なのは、ヒメの成長速度ぐらいです。
そりゃあ、ヒメが普通の子供と同じぐらいの速度で成長してたら、ととさまも、かかさまも死んでしまいますもんね。

竹を「よろづのこと」に使う翁がいつものように竹やぶに入って竹を切っていると金や布が出てくる。
これを天啓と思い、高貴の姫君に育て上げよ、という宣託だと思った翁が京の都に豪邸を購入してしまう。

当然、この時代では高貴の姫君となり、天皇の側女にでもなることが最高の幸せと見做されていたわけですから、翁の思考回路もまだ理解の余地はあるのですが…
やはり、あの決断で、ヒメの「生きること」は一気に色褪せてしまったように思います。

「馬鹿みたい!高貴な姫君だって汗をかくし、時にはゲラゲラ笑いたいことだってあるはずよ!涙が止まらないことだって、怒鳴りたくなることだってあるわ!」
「いいえ!高貴の姫君は…」
「高貴の姫君は、人ではないのね!」

「馬鹿みたい!私だって怒りたいこともあるし殴りたくなるし、時には泣きわめきたくなることだってあるわ!勉強なんかしたくないし、数学なんてできなくたって生きていけるはずだわ!」
「いいえ!この時代を生きるためには…」
「この時代での『普通の人』は、人ではないのね!」

この時のかぐや姫はまだ、生きていたように思います。
自然に任せ、泣きたい時に泣き、嬉しい時に喜び、怒りたい時に怒り…
けれどそんな想いとは裏腹に、残酷なまでに「都市化」されてしまう。「一般化」されてしまう。
翁の思う、あるいは一般的な幸福の定義に、かぐや姫がどんどん押し込まれてしまう。

本当は、「かぐや姫」が、ではなく「タケノコ」が、なんでしょうが。
かぐや姫、という名前にしても、名誉を目的とした名前ではないか?
タケノコにとって、ずっとずっと寄り添ってくれた嫗は、「ヒメ」と呼んでいたし、ヒメの願っていることがたとえ、高貴の姫君がやってはいけないことだとしても、許していた。見守っていた。「ええ、良いですよ」と言って。

けれど、残酷に都市化されたヒメは、裳着の儀と髪結いを終えて、名付けの儀式を終えてしまう。

「顔を見せろよ、減るもんじゃあるまいし…もしかしてバケモンだったりしてな! 名付けに一体いくら払ったんだよ?」という謂れのない言葉を浴びせられてしまうヒメ。貝合わせの貝をも割り捨て、ただひたすらに、一心に、あの場所へと走っていく。

けれど故郷は冬を迎え、捨丸ら一家は、別の山へと向かっていた。

「もう山は死んでしまったんじゃないかしら」
「木々はもう春の支度をしている、春の巡りを待っているんだ」
「春が来るの? この山にも?」

季節は巡って春が来る。そう信じて、育ててくれた翁の、父様の、幸せを願って、ととさまの幸せが自分の幸せだと割り切って、手習いに励んでいく。
この姿が現代の我々にも重なって見えて、非常につらい。

なんのために勉強をしているのか…?
小さい頃、百点をとったら喜んでくれた両親、あの笑顔のため?
「自分がやりたいことをやれば良いんだよ、そのための勉強だよ」
何をやれば親は喜んでくれるのか…?
やりたいこと?誰のため?
どんどん勉強は難しくなるし、ウルトラマン!お医者さん!サッカー選手!パティシェ!などと容易に言えないことなどわかっているし…

何時も身体を冷やし続けて 無言の季節に立ち竦む
浴びせる罵倒に耳を澄まし 数字ばかりの世に埋まる

——  椎名林檎 月に負け犬

飛交う人の批評に自己実現を図り戸惑うこれの根源に尋ねる行為を忘れ
此の日々が訪れた窓の外には誤魔化しの無い夏 描かれている

——  椎名林檎 同じ夜

かぐや姫は、あの破壊行動(貝を割り、戸を押し破り故郷へ向かう)によって、翁の思う「幸せ」への道のりを、一旦破壊することでなんとか乗り越えている。
なんとか、無理やり、割り切って、押し込めて、割り切っている。

けれど、今の僕らには、割り切ることもできない。
何も壊せないし、奪えないし、声を上げることもできない。
そうすればすぐに「落ちこぼれ」とか「落第者」とか「問題児」と言われるから。
親の望む「幸せ」へのルートから外れるから。
この社会での「普通」から外れるから。
均一化。無個性化。虚しい。
虚しさを感じながらも、どうしようもない。

ヒメは、作中で、贈り物の鳥を、鳥かごから逃がす。
ヒメ自身を、そこに投影しているかのように思える。
僕は、その虚ろな目を、空を自由に飛び回る鳥への憧れを、強く思い出す。

小さい頃繰り返し読んだドラえもん。
あのドラえもんがなぜあんなにも日本国民に愛されるのか?
というテーマで、単行本のあとがきに誰かが書いていたのを思い出す。

僕らはみんなのび太だ。


うまく出来っこないし、ジャイアンがいるし、手を伸ばそうと思っても届きやしないしずかちゃんがいる。
そのしずかちゃんには、僕なんかよりもずっとずっと優秀な出木杉がいる。

せめてもの救いが、ドラえもんではないか。
あんなことできたら良いな、あったら良いな、を叶えてくれる。

けれど、現実に生きる僕らは、その本を閉じた瞬間に、悲しまなければならない。
そして、憧れなければいけない。
のび太に自分を投影して、ドラえもんにすがって、生きていかなければいけない。
僕らは、あの本の中で、僕ら自身ののび太を自由に遊ばせている…

そしてヒメは、とうとう、あの五つの問題のシーンに直面してしまう。
石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」、大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」…

いずれもいずれも、到底得られることはないような物。
それを聞いたときに遠回しな否定の意思だと理解して、5人の貴公子が諦めれば良いのに、諦めない。
嘘で固め、作り話満載、金にものを言わせ、如何にかこうにか「かぐや姫」という名誉を手に入れようとする。

そして帝。
アゴがアゴが、と言われていますが…
問題はそこではなく。

あの帝が「私がこうすることで喜ばない女はいなかった」なんていうセリフを吐くせいで、かぐや姫は月に救いを求めてしまう。
憧れ続けたはずの、地球へ、ようやく降り立ったはずなのに。
現世のまやかしや嘘や一般論に侵されてしまう。

体と心とが、離れてしまった。居直れ我が生命よ。
現と夢の往来。行き交う途中で、居堪れない過去ども此処に消えろ。
(木枯の喧噪に二人紛れ込んでいたらば、如何して互いを見出せようか。)
とても叶わない。見分けがつかない。若かりし日、統べてを握った利き手も
草臥れて居る。
噫…充たされないで、識らないで、追い掛ける影の美しさよ。皆まで言うな。
憧れ続けていた筈の、孤独と自由が首を絞める。
なんてこの世は果てしないのだろう。
言葉と感覚が、結ばれぬまま。居直れ我が生命よ。
現と夢の反芻。繰り返す体で、知る由もない未来ごと此処に失せろ。
(新緑の平穏にただ浮き足立っていたらば、あらたな己に出会せようか。)
最早何ぶん諸々を聞き飽きて居る。
噫…囚われないで、云わないで、為遂げる光のしなやかさよ。至らなかった。
忌み嫌い続けていた筈の、無欲と空虚が胸を占める。
なんてこの身は頼りないのだろう。
あまりに何も無い。

——  東京事変 生きる

ある意味、この一連の流れは、「自殺」のようにも思えてしまう。
生きることを断つことは、確かに罪かもしれない。
けれど、同時に、犯した罪の罰を被るのは、他ならぬ自分でもあるのではないか?

死ななければならない、ということ。
もっともっと希望を抱いていたかったということ。
あなたの期待に添えたならば。自尊心を満たせていたならば。

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう
「今ある命を精一杯生きなさい」なんて
綺麗事だな。
精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ
鳥になって 雲を掴んで
風になって 遥か遠くへ
希望を抱いて飛んだ

——  あいみょん 生きていたんだよな

日本の自殺数は世界的に見ても異常な数値である。
異常だし、自殺者の九割は精神疾患を抱えていた、という。

かぐや姫は、月に助けを乞うて、もう後戻りできない道を選んだことによって、逆説的に、どれほど「生きること」を強く望んでいたのかを知ることになる。
皮肉なまでに。残酷に。

こうして見てみると、翁がかぐや姫の本意に気付かなかったことが悪いように思われるが、翁は至って善意である。
良かれと思って。かぐや姫は幸せに違いない、と本気で、思っている。
かぐや姫が悲しめば一緒に悲しんで、喜べば喜んで、一緒に、生きていた。

一概に翁のことを我々が批判することもできないように思う。
この淡い死へのプロセス、薄い、けれど確かな幸福と不幸のねじれに、言いようのない悲しさを感じる。

死んじゃいけないよ。良いことがあるよ。

安易に言ってはいないだろうか?
性転換手術は誰が悪と決めた?
アラーは偉大だ。なぜアラーに背くものを破壊してはならない?
1人の女性を犯すことで3人の兵士が健全になるんだ。何がいけない?

言いようのない、静かな、悲しさを感じる。

そして、地球上での、実質的なかぐや姫の死が近づく中で、嫗の采配によってヒメは一時的に故郷へと帰る。
そこでは捨丸がいて、自然があって、森があって、川があって、命があった。
あの時、辻で盗みを働いていた捨丸とヒメとの身分的懸隔も、自然の前では無いに等しい。

純粋な生きる喜び。

「生きている手応えさえあれば、きっと幸せになれた」

なれた。過去形。

「もう遅いの」

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
春 夏 秋 冬 連れてこい
春 夏 秋 冬 連れてこい
まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる
せんぐり いのちが よみがえる

まわれ めぐれ めぐれよ 遥かなときよ
めぐって 心を 呼びかえせ
めぐって 心を 呼びかえせ
鳥 虫 けもの 草 木 花
人の情けを はぐくみて
まつとしきかば 今かへりこむ

そうして満月の夜、迎えが来る。
もっと生きていたかったのに、お父さん、お母さん、こんな私を許して欲しい。
こんな決断をしてしまって、本当は、もっと違ったのに、こんなはずじゃなかったのに。


いのちの記憶
作詞・作曲・唄:二階堂和美
あなたに触れた よろこびが
深く 深く
このからだの 端々に
しみ込んでゆく
ずっと 遠く
なにも わからなくなっても
たとえ このいのちが
終わる時が来ても
いまのすべては
過去のすべて
必ず また会える
懐かしい場所で
あなたがくれた ぬくもりが
深く 深く
今 遥かな時を越え
充ち渡ってく
じっと 心に
灯す情熱の炎も
そっと 傷をさする
悲しみの淵にも
いまのすべては
未来の希望
必ず 憶えてる
懐かしい場所で
いまのすべては
過去のすべて
必ず また会える
懐かしい場所で
いまのすべては
未来の希望
必ず 憶えてる
いのちの記憶で


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?