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「ある」と「ない」?否、「ある」と「成る」

「ある」と対立するのは「無い」

ではない。

「ある」と対立するのは「成る」である。

「ある」を「無い」との対立で、「ないではない」ことと捉えてしまうと、ひとでもものでもあらゆるナニモノかが、それ自体として端的にあることになってしまう。「無くないのだから、あるでしょう!」と。

もちろん「ある」を「無い」と区別し対立させるのもまたひとつの記述であって、それは「現実にあるかないか」という問題とは別である。

「現実にあるかないか」という問題は、こちらはこちらで「現実」と「非現実」の対立を固めた上で、あらゆるものを、そのどちらかに振り分けようとしているのであって、これはこれでまた一つの記述である。

「成る」と対立させられる「ある」

この場合、「ある」は相対的に止まっている、止まりかけている、限りなく遅くなっている、ということである。一方の「成る」は相対的に動いており、「速い」ということである。

「ある」があるのは、成るの動きがさも止まっているかのような外観を呈しているからである。

生命の身体は、ただぼんやり立っているだけであっても、呼吸や血流で、微細に見れば見るほど至るところで凄まじい速度で動いている。にもかかわらず、ぼんやり立ち尽くした私がアスファルト舗装に投げかける「影」は、止まっているように見える。

アスファルト舗装された小さな石たちが作り出す微細な影の文様の上に、「わたし」という存在の影が、雑駁に、まっくろなベタ塗りを押し広げている。

「ある」のはこの影なのだ。

その影を作り出している生命体は、動き続けている。タンパク質ひとつひとつを、細胞ひとつひとつを、組織ひとつひとつを、さっきまでと同じようなものとして作り直し続ける作業の流れ。この高速の流れが描き出す「渦」は、渦としての同一性を保ちながら、持続して存在して「ある」ように見える。

流れそのものに即して言えば、「ある」の影ないし渦の生成も、再生産も、そして破壊も、ただ「ひとつ」の過程でしかない。

しかしそのことは「ある」ことの意味を貶めるものではない。

なにより意味は、区別する動きが働くところで、対にする動きが動くところで、いつも無意味から有意味を区切りだすのだから。

参考文献 「意味」について考えるための2冊

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