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食べられるものと食べられないもの ー3歳児の偏食を深層意味論で分析してみる


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3歳半の長男が偏食である。

基本的に「白いもの」しか食べないのである。即ち、白米、パン(の白いところ)、うどん、そうめん、といった類である。

たとえば「うどん」。

麺に出汁の鰹節の小さな破片が張り付いていると、もうこれだけでもうNGである。席を立って逃げてしまう。

小さな破片というと、こども園の給食に鶏肉のソテーに胡麻がかかったものが出た時も「たべない」。困った先生が一緒になって胡麻を一粒一粒除去してくれて、ようやく一口二口齧ったらしい。ありがたい「見守り」である。

周りの大人は口々に、「なんでも食べないと大きくなれないよ」とか「鰹節は食べられる」とか「胡麻はいい香り」などと言葉や理屈で説得をしようと試みるが、本人は断じて聞く耳を持たない。

それどころか「パパが食べればいい」などと言い始める始末である。

ところで、子どもの食が細いのは心配という自然な感情とは別に、この偏食はひとりの人間にとっての「意味」の問題を考える上で、またとない証言資料である

以下、3歳児の偏食を「食べられるもの」と「食べられないもの」を区別・分節する意味の問題として読み解いてみよう。

何から?どこから?「偏って」いるのか?

まず偏食という言葉から考え直してみよう

わたしたち親は、白いものしか食べない3歳半の長男の食が「偏っている」と思っている。

しかし、当の3歳児本人は、「偏」った「食」べ方をしているとは思っていないらしい

ここが重要である。

これは他者論とかコミュニケーション論とか人類学を齧ったことがある人間からすれば、何も驚くことではない。「偏っている」「偏っていない」というのはなにか「あるべき」食についての理念に基づいて、そこからズレているかどうかを評価しているということである。そしてこの評価を下しているのは私達「親」であって、本人ではない

私達親が行う「偏っている/いない」の区別のやり方は、3歳半の長男には共有されていない。

3歳の長男は、うどんの汁に卵や牛丼の具や生姜まで放り込んで食べる親を冷ややかに眺めている。その眼は「よくそんなごちゃごちゃのもの食べられるなあ…」と言っているようだ。彼にとっては、私たち親の方こそ「よほど偏食(あるいは悪食、六道輪廻でいえば餓鬼道のあれ)」に見えているのかもしれない

3歳半の彼は、彼独自のあるべき食についての理念に基づき、食べられる、食べられない、を「分節」しているのである

人間は世界を、その物質的な塊を直接感じて生きているのではなく、言葉、イメージ、観念、表象といったものの網の目のを通して、意味づけをして生きている。

まだ大人のようには喋ったり書いたりしない3歳半の人間が、その頭の中にもっているであろう分節の体系。彼の偏食イヤイヤ発言は、その分節体系を象徴する表象の組み合わせ体系へとアクセスする途を開くたいへん貴重な資料である。

食べられる/食べられないは「意味」の問題

かのクロード・レヴィ=ストロースに『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』という一冊がある。ちなみに、料理本ではない。 

『神話論理』がどういう本であるかについては下記のnoteに書いているのでご参考にどうぞ。

わたしたちは日々、いろいろなものを食べている。

何気なく何でも食べているようで、常に「これはたべられるよね」と「これはたべられないよね」を区別しながら、日々生きている。

ところで、何が食べられて、何が食べられないのか、その区別の仕方は文化によって異なる。ある文化では美食とされるもの、別の文化では吐き気を催させるほど食べたくないものだったりする。例えば…

 「犬の肉」は食べ物ではない?/食べ物である?
 「クジラ」や「イルカ」は食べ物ではない?/食べ物である?
 「豚」は食べ物ではない?/食べ物である?
 「昆虫」は食べ物ではない?/食べ物である?

そして極めつけは、カニバリズム(食人)である。

「人間」は食べ物か?/食べ物でないか?

食人への禁忌は人類に普遍的であり、人類学の核になるテーマである。

残念なことに、豚も犬も●●も●●も地球上に生息する動物のタンパク質のかたまりである以上、誰も見ていないところで巧妙に調理されて、あたりさわりのない「名前」を偽装されてしまえば「ソレと知らずに」食べてしまいかねないのが人間の悲しく残念なところである

濃いめに煮込んだ豚のすき焼きを、牛のすき焼きだと思って食べていた、というリーズナブルな友人の話を聞いたことがあるが、そこからホラー小説まであと一歩である。

人間はアタマで観念を食べる

人間は「観念」を食べている。

昔お世話になった哲学の教授はそのようにおっしゃっていた。

人間にとって食べられる/食べられないは「意味」の問題である。

もちろん、極端に硬いとか、極端に辛いとか、変な味がするとか、感覚器官レベルで「口当たり的&味覚的にNG」だから「食べない」という場合もある。煉瓦や木工ボンドを食べる気になれない、というのはこれである。

しかし、感覚器官レベルでは「OK」のもの、つまり柔らかく、変な匂いもせず、味覚的にはいけるものであっても、「それが何か」を知ってしまうと思わず嘔吐してしまう、という代物もある。

そのとき「食べ物であるか否か」はスムーズに消化できそうかどうかではなく、意味的に区別される。このレベルで「食べられるもの」と「食べられないもの」の区別は、意味を織りなす二項対立群の体系に巻き込まれている

三歳児一人部族

私たちの口の「味覚」という感覚器官は当てにならず、「あれもこれも間違って食べてしまう」リスクを抱えている

人間の口腔は食べられるものと食べられないものを識別する能力という点では、あまり当てにならない。

だから私達は、口ではなく、アタマで食べるアタマで観念を食べる。私達は自分が食べているものの名前やそのカテゴリーを、知りたくなる。

それが隠されていると、なんともおぞましく、おそろしく、不安になる。

3歳半の長男も、すでにアタマで観念を食べている。

彼は彼固有のカテゴリー体系で、食べられるものと食べられないものを区別している。

では、それはどういう区別・分節の体系になっているのか?

大人の言語とまだ十分に同期化されていない3歳半の彼は、おそらく、彼ひとりだけの「部族社会」を生きている。ならば、彼が一体どういう文化の中に生きているのか、その発言をひとつひとつ拾い、大人の言葉の体系に照らし合わせながら、エスノグラフィーを描かざるを得ない。

なにかついている/ついていない=食べられない/食べられる

さて、彼が食べる食べないを判断する直前、よく言うのが「見て!何かついてる!」という言葉である。

この言葉は私と長男という異文化を表層的には共通の言語で媒介する蝶番になりそうだ。

私は比較的なんでも気にせず食べる方だが、もし仮に、衛生状態がブラックな食堂で、誤って床に落としてしまったチャーシューを拾い、そこに「なにかついてる」のを発見したとしたら、食べないだろう。すでにその床に落ちたところを拾い上げられ、なにかが付着したチャーシューは「食べられない」ものである。 

私にとって汚れた床に落とした食品の付着物と同じくらいインパクトのある事象が、長男にとって、この可愛らしい器の中の栄養バランスを考えて調理されたもののどこかに隠れているらしい。

一体、なにがついているというのだろうか?

観察を続けると、長男はどうやら、異なる食感の素材が物理的に接触している状態を「ついている」と呼んで、食べようとしないらしい。

たとえば、うどんの表面の胡麻であるとか、「食感が異なりそうなもの」が一体化している状態を視覚的に見つけては「なにかついてる」という。

また、一見視覚的には均質な感じのものでも、一口噛んでみて、中に異なる食感が混在したものだと分かると、すぐに吐き出してしまう。

「触感が異なる(異なりそうな)ものがついている / ついていない」

この区別が、

食べられる / 食べられない

の区別と重なるらしい。

食べられる/食べられない 意味構造の成り立ち

意味というのは、互いに区別される二つの事柄をペアにしたところに(例えば太陽と月とか、上と下とか、良いと悪いとか)、別の区別される二項のペアを重ね合わせることで生まれる。

二項対立関係にある「項」というのは、G.M.エーデルマンが指摘するように、脳の神経系が獲得したカテゴリー化作用の働き方によって生まれるものだ。

「項」は孤独に孤立してあるものではない。

ひとつの「項」は、必ず他の「項」と組み合わさり、体系をなす。諸「項」の体系を織りなしていくのは、次の二つの処理である。

第一にふたつの項を「異なるものとして区別する」(仮に異化と呼ぶ)。

第二に、その区別された二項を「異なるが同じとして扱う」(仮に同化と呼ぶ)

異化も同化も脳の神経系束の不均一なつながりが織りなす働きで、言語的な無意識を支えるプロセスであると考えられる。

わたしたちが「意味」と呼んでいることは、この異化と同化の二重のプロセスの動きによって形成されている対立関係と対立関係の重ね合わせのことである。

ここで重要なのは個々の項ではなく、項と項の間にどういう区別が行われているか、そして異化と同化を繰り返すことで、多数の項がどういう構造を織りなしているか、である。

3歳半の長男が言う言葉をひとつひとつ丁寧に拾い集めて積み重ねていくと、彼の脳内にある諸項の体系、彼の意味の世界を作り上げている二項対立の体系が、下記のようにぼんやりと浮かび上がってくる。

   食べられる  / 食べられない
 ‖           ‖
 単色     / カラフル
 ‖           ‖
 歯ごたえが均質/ 歯ごたえが不均質
 ‖           ‖
 滑らかな表面 / 凸凹
 ‖           ‖
 感覚印象が単純/ 感覚印象が複雑

 ※ /は異化処理、‖は同化処理  

彼による個々のメニューに対する「食べられる」/「食べられない」の分類は、こういう区別の体系を参照して行われているように思われる。

カレーは食べられるが、麻婆豆腐は食べられない

この体系は、彼が「よく煮込んだカレーは食べられるが、マーボードーフは食べられない」理由を、異文化に属する観察者である私にも納得できる形で説明してくれる。

カレーなんて、ごてごてといろいろ入っていると思われるかもしれないが、煮込んでしまえば色も茶色一色になるし、質感的にも歯ざわり的にも滑らかになる。

一方でマーボードーフは、やわらかい豆腐と、ある程度の歯ごたえを保ったひき肉が混ざり合っている。色は白と茶色の水玉が大量に混ざりあったような状態である。

ちなみに、彼は、カレーとライスをシッカリ分離して盛り付けることを要求する。

好きだったはずのバウムクーヘンが食べられなくなる

同じ理屈で、「バウムクーヘンが食べられない」というのも説明できる。

あの、まるで木(ドイツ語尾でBaum)の年輪のように、濃い色と薄い色が交互に同心円を描くビジュアルがNGだったようだ。

物心ついて初めて見るバウムクーヘンを表現する言葉は「こわい…」の一言であった。 

薄層が同心円状に重なったあの姿たるや、相容れない要素が絶望的に分離不可能性であること意識の深層にまで知らしめる。いや、たしかにコワイわ。

ちなみに実は、1歳くらいのベビー時代には、彼はバウムクーヘンを好んで食べていたまだ良くわからず「甘くて滑らかなパン」くらいの分節で意味づけしていたのではないか。

その彼がバウムクーヘンを食べられなくなったのは、カテゴリー化の能力が育ち、言語が芽生え、意味を産む区別の体系が頭の中に出来上がってしまったあとである

ところがごく最近、たまたま焼き色の薄いバウムクーヘンをよく見ないで食べてしまったことがあった。テレビに見入っている時に手渡されたので、「よく見ないで」食べてしまったようだ

ところが食べてみると、舌触りが均一だということを再発見したらしく、急に「バームクーヘン大好き」と言い始めた。おそらく舌触りの均質さの印象が見た目の色の不均質さの印象に勝ったのだろう。

ちなみにカステラやプリンは、それぞれ「茶色のところ」の手前までは食べる。プリンのキャラメルのところが、スイカの皮のような扱いをされているのである。特に「プッチン」と器にあけたプリンを、彼は食べないキャラメルが山頂に台地を形成しているカタチになり、手のつけようがなくなるらしい。

なんでも食べる子の「食器としての観念体系」

さて、彼がこうした意味のシステムを採用していることを前提として、どうすれば、なんでもパクパク食べてくれる子になるのだろうか、ということを考えてみたくなる。

まず親が言う「おいしいから食べてみな!」はだめである。 

そんなことでは彼の意味のシステムはピクリとも揺らがない。

彼の食べられる/食べられないの意味システムは「おいしい/おいしくない」という言葉の区別には、おそらく接続されていない。

私自身、学生の頃の知人が、いわゆるわんこの「DOG FOODは美味い」と吹聴するのを聞いても「わあ美味そうだなあ、食べてみたいなあ」などとは全く思わなかった経験があるが、それと同じようなものだろう。

また「食べないと大きくなれないよ!」もだめである。

「大きくなれる/なれない」という言葉の区別もまた、彼の食べられる/食べられないの意味システムにはおそらくつながっていない。

任意の食材を、彼に「パクパク食べてもらう」ためには、第一に彼の現行の意味分節体系を最大限尊重するという方向性が求められる。彼が「たべられるもの」の側へと区切り出す可能性を高めるよう、色を単色にし、固さを均質にし、形状を滑らかにするのである。

第二に、彼の意味の体系を少しづつ組み替えるという方法がありえる。

感覚印象が単純だろうが複雑だろうが、均質だろうが不均質だろうが、うまいものはうまいし、まずいものはまずいという具合に、彼がいま使っている「食べられる/食べられない(均質化であるか否か)」で区別され対立させられている二項を、たとえば抽象的な「うまい/まずい」という独立した対立関係のうちの「うまい」の一項へと折りたたんでひとつにしてしまうのである。

そのためには、均質でも不均質でもどちらでも同じように「うまい」、という「同化」処理を発動させる必要がある。そのためには彼の意味の体系を次のようなプロセスで組み替えていく必要があるだろう。

   【第一項】       【第二項】
1) 食べられる       / 食べられない
      ‖            ‖
2) 感覚印象が均質A       ←→   感覚印象が均質B
      ‖            ‖
3) うまい(仮)       / まずい(仮)
     (‖)           ‖
4) 感覚印象が不均質B    ←→ 感覚印象が不均質A
      ‖            ‖
   食べられる2.0     / 食べられない2.0

まず1)は、彼の現行の食べられる/食べられないの区別である。この対立関係が出発点になる。

そこに2)の対立関係を重ねる。2)の【第一項】は「感覚印象が均質」なものであり、これは1)の関係の第一項「食べられる」に重なる。

ここで2)の第二項「感覚印象が均質B」を登場させる。ここには現行「感覚印象が不均質」の項が入るわけだが、ここを別の項に交換する必要がある。ここに新たに入るべき項としては「感覚印象が均質」でありながら「とても食べたいとは思えないもの」が望まれる。例えば、感覚印象が均質で「おいしそう」だけれども食べたらまずかった、というものがあればよい(ちなみに、それが具体的に何であるのか、まだ思いつかない)。

いずれにせよ、彼には、印象が均質だからといって食べられるわけではない。という衝撃を経験してほしいのである。

それによって「食べられる」という意味と結びついた「均質さ」を、「食べられる」と「食べられない」の両方に結びつける。つまり均質さを両義的なものにする。「感覚印象が均質なもの」をひとつでありながらふたつのものにする。印象としては「同じ」だけれども、食べられるか否かで言えば「違う」という、「同じだけれど違う」という不安な経験が、アタマの中の意味を織りなす観念の体系を揺さぶる

次に3)である。ここで仮に「うまい」と「まずい」と呼ぶ対立関係を登場させる。「感覚印象が均質=食べられる」という彼の現行の意味体系を尊重し、それを「うまい(仮)」と繰り返し呼ぶ。それと同時に「感覚印象が均質なのに」食べられない、食べたくないものを「まずい(仮)」と呼ぶ。それを繰り返す

そして4)である。「感覚印象が不均質」で、実際に食べられないもの、食べなくてよいものも「まずい(仮)」と呼ぶことを繰り返す。例えば「落として砂がついた餅」のようなものだろうか。それと同時に、感覚印象が不均質でも食べられるものを「うまい(仮)」と呼ぶことを繰り返す。先程のバウムクーヘンあたりがよいだろう。ここで、感覚印象が不均質なものにもうまいものもまずいものもある、となる。

こうして感覚印象の均質さ/不均質さは、うまい/まずい の区別とは重ならないことを知るのである。そこから出発して、彼独自の「食べられる」「食べられない」の区別を、「うまい(仮)」「まずい(仮)」の区別という、全く新しい別の区別に90度傾けてつなぎ直してゆく。 

ちなみに、わかったようなことを書いているが、実際まだ何も手を打つことはできていない。なにより、感覚印象が均質Bと感覚印象が不均質Bは、親がお仕着せで与えられるものではなく、彼自身が発見しなければ意味がない。

おわりに

彼は最近m&m'sチョコレートをおもちゃにしている。もともと食べていたものを「食べる用ではないもの」に見立てている。あのつるんとした均質な表面で、しかも甘くて美味しい食べ物を、「食べちゃダメ」と言って遊んでいるのである。均質で食べられるものを、食べられないものの側に置いてみる。

食べられるのに食べられない、その両義性に戯れるあたりが、まさに意味を織りなす二項関係の躍動を感じるのである。 

 彼の意味の体系は、両義的媒介項によって、ガラリと組み換えを生じる可能性へと、開かれている。

もちろん、彼の区別のシステムは、今の所、観念といってもより感覚に近い、色、表面の質感、歯ざわりに舌触り、といったところで均質であるか否かの区別を生産している。 

この感覚レベルで実行される区別を、言語的な区別を使ってひっくりかえすには、もうしばらく時間がかかるだろう。仮に「うまい」「まずい」と書いたが、これが他の言葉になるかもしれない。それも彼が自分で気づくことである。

感覚を、言語で圧倒しなければならない。

もっともっとたくさんの、言葉と言葉の対立関係を覚え、そして重ね合わせていくという下準備が進んだところで、いつか、彼の食べられる/食べられないの区別に、質感の均質さ/不均質さとは異なる、別のうまい(仮)、まずい(仮)のような区別が接続されることになるだろう。

ちなみに、感覚を言語で圧倒することが、おそらく「大人になる」ということなのかもしれない。そしてそれが彼にとって幸福なことなのか不幸なことなのか、それはまた別問題であるし、そのことの意味を問わずに居られなくなる日もまた来るかもしれない。

いずれにしてもその時にもまた意味は変容へと開かれているという、ただその一点は忘れてはならない。

おわり

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