創造性は複数の本を並べて読むことに宿る
このところ4冊の本を同時に読んでる。
・一度読み終わった中沢新一先生の『レンマ学』の二周目
・木岡伸夫先生の『<あいだ>を開く』
・ユングの『赤の書』
・ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』
本を読む時は、いつもたいがい何冊かを並行して読む。
その方がおもしろいからである。
「頭が混乱しないのか?」と聞かれることもあるけれど、それこそが狙いである。「混乱」を引き起こすことを望んでそうしているのである。ただその「混乱」は通常の意味での混乱ではない。それは潜在する意味生成空間のリズムに接触することであり、その高次元の秩序に比べたら日常の正常な意識の方こそさっぱりコンフューズなのではないかと思わされるほどである。
単線
文字は生来、「線形」で、生真面目である。
文字の姿をした言葉は一列に構文のルールを守って並んでいる。シンタグマ軸というやつである。
まるで一人の割り込みも許さないぞと、沈黙しながら無数の目を光らせる3時間待ちのラーメン屋の行列のようだ。
もちろん、そうしていてくれないと、文字を通常の意味で読むことはできない。模式的に描くとこういう具合↓である。
書1 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
複線化
それでは本を複数、あちらに行ったりこちらに戻ったりしながら読むとどうなるか。
一冊一冊の中では、文字列はしっかりかっちりルールを守って一列に並んでいる。複数の本を並べるとき、そうした列が複数並ぶ。模式的に描くとこういう具合↓である。
書1 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
書2 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
書3 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
書4 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
書5 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
書6 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
分岐をつくる
複数の本を書1から書2へ、そして3を飛ばして4へ、また1へ、そして6へ、と、列から列へ飛び移る、というたぐいの読み方をする。
本を超え出て言葉と言葉をつなぐ。この時、水も漏らさぬようにきっちり一列に並んだ「線」に、「分岐」が生じる。その分岐は予め書かれてはいない。分岐は私が読むことでつど作られる出来事、「事件」である。
複数のシンタグマ軸をならべることで、そこにパラディグマ軸の影のようなものを呼び込むのである。
これを模式的に二次元に圧縮して描くと↓のようになる。
書1 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕
書2 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕
書3 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕
書4 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕
書5 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕ ↕
書6 ○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○→○
この模式図は不正確である。が、線形テキストではこれ以上書けないのでこうしておく。文字の、本の、線型性の好例である。が、せめてもの償いあるいは言い訳に、縦の矢印を双方向のものとして描いた。さらに個々の矢印がどの○と○をつないでいるのか曖昧になるようずらしてある。
分岐ネットワークあるいは曼荼羅
この↕、即「分岐」は、模式図にある縦に隣り合った言葉同士の間でのみ作られるわけではない。
分岐は空間的に隣接していようがいまいが、いずれの言葉の間にも作られ得るし、ひとつの言葉から複数の無数の分岐を作ることもできる。
この分岐による接続は時間的な順序関係を意味しない。それは空間的な繋がりであり、しかも潜在的な空間ではすべてがすべてとつながり得る関係だ。
分岐の線は、ちょうど曼荼羅のようにネットワークを広げていく。
ユング『赤の書』p.105より
自分自身の身の回りに現象することを言葉で説明したり、理解したり、納得したりしながら、死というすべての意味が解除される瞬間に向けて生きざるを得ないという人間の宿命を背負うにあたり、せめてこの潜在空間の自由さを、シンタグマ軸のルールの隙間にときたま浮かび上がらせたいのである。
そしてそれこそが言葉を創造的な次元に開き、保つのである。
おわり
関連note
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