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内省的な声と本が読めてないことを書く読書日記

あけましておめでとうございます。
日頃は本を読み、そこで気がついたことを書くことが多いノートだが、暮れから本が読めない。
買いたいな、という本がぼちぼちあるので、本は買っている。
しかし読めないので、積ん読が増えていく感じである。
実在論、庭師の哲学、アブダクション、ディープルッキング、AIジェネレートの芸術、マンガも買うのだが、どうにもこうにも読み始まらない。

いまpomeraに向かい文章を書く。うん、時間と集中力がとれている。
これができるのは、自分でもちょっとした発見だ。
読書のように集中力が続かなくなり、論旨が散逸し、まとめることを放棄して、早々と書くことをやめてしまうと思っていた。
写真も撮影をし、ちょっとした処理をして、毎日のInstagramにアップするくらいは、なんとなく集中力が続いてる。
そういえば日頃はやらない、年末年始ぽい掃除も集中力を持ってできている。
昨日は、我が家のテーブルは木製なのだが、ポッドキャストを聴きながらブッチャーブロックコンディショナーで拭き上げた。

読書している自分という状態が、目指す理想的な近代的自我である、という話題がある。
芸術活動ができるのだから、近代的自我が逃げていってしまったということではなさそうだ。
集中力はある。本に向かう、興味もある。
ただただ、読み進められない。
これには自分でも違和感を感じる。

ん、頭の中の内省的な“声”が大きいから?
窓やテーブル、棚の拭き掃除みたいなとき、YouTubeやポッドキャストを流しながら作業をする。
頭に声は響くが、作業や聞き流しに邪魔にはならない。
しかし読書しているときに、思いつきの声みたいなものが大きいと、読みにくい。文字どおり、気が散る。
なるほど、この声が問題か。
しかし文章を書くときには、非常に助けにはなる声だ。
いまも内省的な声とともに書いているが、ここまで耳にも聞こえてくるような自分の声は久しぶりだ。

中世まで、この内省的な声を、まったく自分のものとして認識できなかった、と書く本がある。
おしゃべりな脳の研究:内言・聴声・対話的思考』チャールズ・ファニーハフの音読ブラックスワンを、作業をしながら聴いた
現代では自問自答と考える内省的な自分を、中世までは全く別存在ととらえ、神の声や悪魔の声として処理=ジャンヌ・ダルクは統合失調症的自己対話をしていた、というのである。
内省的な声を自分と認識できるようになったのは、文字を使い始めたのがきっかけ=アリストテレスぐらいからという。
という、非常に面白い指摘だった。
確かに狩猟採集民も、動物がしゃべったり、森が考えたりする。
それは比喩や象徴、神話と理解していたが、もしかしたら、内省的な声を他者からの呼びかけと考える文化、かもしれないと思った。

おうおう、文章を書くと内省的な声が落ち着くのがよくわかる。
古代ギリシャ人は偉大だ。(^^)
息を吐くことに集中すると、うまく息が吸えるように、読書など創作的な活動は入出力が大事だと思っていたが、それが滞ると“内省の声が大きくなりすぎる”のだということがよくわかった。
あーなんかサウナ後の整った感じがする。
どっとはらい
2023/01/07 11:22

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