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キヤノンEOS 80DとInsta360 oneを手に入れる。

藪から棒の枕だが、いま〈四人称〉が気になる。
元はといえば、大山顕『新写真論:スマホと顔』にこのような下りがあったからだった。

前章でぼくは、撮る人と被写体を分離するカメラの性質を、小説における語りの構造にたとえた。一人称小説にしろ、三人称小説にせよ、ある人物の視点から整合的に物語を綴る、という仕立てでは、カメラによって世界を見ることに似ている。物語の構成を「遠近法」と表現することがあるのは示唆的だ。
現在、ぼくらは「見る」という行為を個人のものだと思っているが、ほんらいそれは曖昧なものなのではないか。それを示すために物語における「四人称」という概念を紹介した。四人称とは語り手と話し相手を含む包括的一人称複数である。カメラが登場する以前の人間は、視覚を四人称のものとして扱っていたのではないか。

大山顕『新写真論:スマホと顔』p160

この〈四人称〉が何かと思ったら、外山滋比古『第四人称』という本があり、早速、中野区の図書館で借りる。

 本論における第四人称は、第一人称には意識されなかったが、話しかけられているように感じる存在であって、ことばの芸術のきわめて多くが、この第四人称の視点において成立している。その点で、文化史においても無視できない存在であると考える。
 第一、第二、第三人称はインサイダーを形成し、第四人称はアウトサイダーを代表する。アウトサイダーをインサイダーに結びつけるのは、第四人称である。

外山滋比古『第四人称』 2010

つまり〈四人称〉とは写真家の目線ではないか?
と思い始めたのが、そもそもの始まりだった。
一方でゲーム用語に〈一人称視点〉という言い方がある。
いわゆるPOVの視点、風景写真の視点だ。
一方で、風景や敵キャラと同時にキャラクターの背中が見えるのが〈三人称視点〉というらしい。
いまその〈三人称視点〉写真を撮りたくて、Insta360 oneを借りた。
正式な機種名、もちろん使い方もわからず、いまマニュアルを探し中。

ということで、新宿なう。
行きの東中野で、文藝春秋編『東京いい店うまい店 '79-'80』をゴミ捨て場で拾う。
中野ブロードウェイ「雪椿」や半蔵門「オーバトーイーヴル」などが載っていて、子どもの頃を思い出す。
キヤノンEOS 80Dを持ち出すが、SDカードなしだった。orz

ここ数日〈デジタル一眼レフ〉を使ってる。
ずっとシグマDPシリーズ、そしてオリンパスOM-D EM1 無印/mk2 というコンパクトと〈ミラーレス一眼〉を使っていた。
一眼レフを使うなど、十年以上ぶりかもしれない。
〈デジタル一眼レフ〉はなかなか新鮮である。
そもそも、ボタンを押してミラーアップしないと背面液晶に像が映らない、そこから戸惑いがある。
しかしながら〈デジタル一眼レフ〉は非常に撮りやすい。
ミラーショックが心地よい、というのもあるが、なによりも「ファインダー画像がゆらゆらしない」のが大きい。
実像が見えるということは、こういうことか、と本当に思う。
構えると、すっと撮るものが落ち着く。
その安心感がある。

その一方で、写りが甘い気がする。
“甘い”というのも、いい意味と悪い意味がある。
良い意味としては、雰囲気がいい。
エモいとでも言うのだろうか、ミックス光のなじみがいいのだ。
これはキヤノンのカメラを使う意味を感じる。
キヤノンEOS 80Dとは同時代発売とはいえ、オリンパスOM-D EM1mk2 というフラッグシップ機と比べちゃうのは酷かもしれないが、反対に悪い意味。
ピントが甘い。等倍で鑑賞できない。
これは、そもそもピンを外しているかもしれない。
つまりはカメラの測距点の数の違いが如実に表れてちゃったのか。
開放から使えるm4/3sレンズ、少し絞り込んで使うEF-Sレンズとの設計思想の違いなのかもしれない。
ここは検証中である。

キヤノンEOS 5Dmk2が発売からの十五年余りの2400万画素機の歴史は、高感度性能のみならず、開放からピントの正確さにふっていたのかもしれないと思った。
ということは2400万画素機とはいえ、最新機種を使うと非常に幸せになれる気がしてきた。
とはいえ、キヤノンEOS 80Dと仲良くなりたいと思う。
どっとはらい。

新宿からぱっと書きアップ。
2024/03/27 17:53

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