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昔の飯能駅は構内踏切があったり、貨物列車の引き込み線の踏切が消防署脇にあった

西武池袋線飯能駅の昭和末期の様子を思い出してみた。今の飯能駅はムーミンバレーパーク・メッツァビレッジの開業に伴い2019年にリニューアルされ、フィンランドのデザイナーによる綺麗な作りになっている。
しかし、飯能駅は平成になってからようやく構内踏切が無くなり、南口が新たに出来たのであり、それまでは田舎の古臭い駅のままであった。もちろん駅ビルのPePeなんてない。
しかもまだ西武鉄道の貨物列車が現役だった頃は、構内には貨物ヤードが広がり、飯能駅の西側の先、当時の飯能消防署の脇には道路を渡って機関車が折り返しのために通る引き込み線(機回し線)まであったのだった。

自分が覚えている最古の飯能駅の記憶は昭和末期から平成元年あたりのことである。その当時の飯能駅は構内踏切だった。
今のちょうど吉野家飯能駅前店があるあたりの横に構内踏切があり、そこを通って各プラットフォームに渡った。構造としては単純でプラットフォームの最前部、つまり池袋寄りに階段が設置されていて、そこを降りて構内踏切を渡ったと思う。
当時でも結構電車の本数はあったので、構内踏切でよく待たされた覚えが結構ある。係員さんもいたような気がする。
しかし、なぜか改札口の記憶は一切ない。当時はもちろんまだ自動改札ではなく、ハサミで切符を切る有人改札があったはずなのだが、その光景は覚えていない。まだ南口がない当時の飯能駅の佇まいの記憶が残っていないのは残念である。東飯能駅の旧駅舎の記憶は結構鮮明に覚えているのだが。
なお、この飯能駅の構内踏切は西武鉄道の本線系統としては、最後の方まで生き残っていた部類だと思う。池袋線(飯能〜吾野除く)では武蔵藤沢駅が2000年少し前までずっと構内踏切だった。

Wikipediaによると、飯能駅の構内踏切がなくなり駅舎が現在と同じような構造になり南口が出来たのは、1989年12月のようだ。ただこの時点ではまだ駅ビルである西武飯能PePeはない。1992年5月に改札前の南北自由通路が出来、10月にようやく西武飯能PePeが開業した。この構内踏切が廃止されてから西武飯能PePeが開業するまでの飯能駅も覚えていない。自分の年齢的にあまり行くことがなかった時代でもあるが。
西武鉄道PePeの開業はうっすら覚えている。記念のテレホンカードを貰ったし、ピカピカの駅ビルは子供には大きな商業施設に映った。個人的には飯能らしいサイズ感というか、頑張った結果こんなもんだよね、という駅ビルだとも思うが、やはり背伸びしている感は否めず、今となってはプリンスホテルも撤退してしまったし、入居している(していた)テナント達もパッとしない。西武飯能ボウルも名前は無くなった。唯一、改札口すぐ横のミスドとスタバが、田舎である飯能を救ってくれている有難い存在である。

飯能駅に関するもう一つの重要な思い出が、貨物列車である。西武秩父線の横瀬から三菱マテリアルのセメント輸送を行なっていた。自分がまだ幼い頃は貨物の本数もそこそこあり、E851形という大型の電気機関車がたくさんの黒いセメント貨物列車を引っ張り、豪快に力強く走る姿をよく見かけた。
飯能駅には南側にヤードが広がっており、貨物用の側線が何本があった。輸送中の貨物列車だけでなく、電気機関車単独の姿もよく見たし、E851形よりも小型のE31形が工事用車両列車として停まっているのもありふれた普通の光景だった。

セメント輸送貨物列車は1996年3月で終了したのだが、貨物が現役の頃は冒頭で述べた、飯能駅西側にある引き込み線(機回し線)が活用されていた。
場所としてはこのあたり。現在の埼玉西部消防組合 飯能日高消防署稲荷分署(当時は飯能消防署)の南側、久下稲荷神社との間である。自分は知らなかったのだが、いつの間にかこの稲荷分署も立派な建物に建て替えられており、機回し線は潰されて敷地の一部になってしまっているようだ。Wikipediaに載っている写真が当時の様子を知る、今後貴重な資料となりそうだ。

この引き込み線(機回し線)は、飯能駅に到着した貨物列車の機関車を、先頭から最後部へ付け替える際に使用していた。恐らく、飯能駅構内の有効長が足りなかったのであろう。
貨物列車が到着すると、「ピッ」という短い汽笛の音がし、機関車が外されてこの引き込み線(機回し線)にやってくる。その際は踏切が作動する。車に乗っていて結構待たされたという覚えもある。
その後、運転士が前後の運転台を移動して(たぶんそうだった気がする)、機関車は池袋方面へ動き出す。その際、貨物列車が停まったのとは別の側線に入り、貨物列車の横を通り過ぎて今度は池袋/西武秩父方面の機回し線へ。これは乗務員の詰所の前あたりにあった気がする。
そして、貨物列車の方へ走って戻り連結。これで池袋/西武秩父方面への出発準備が完了する。
飯能駅近くにいると、この機関車の機回しの際に鳴る「ピッ」という汽笛が聞こえ、貨物列車がいま飯能駅にいるのだ、と分かったものだ。

しかし、今考えるとよく西武鉄道は無理やりこの引き込み線(機回し線)の土地を確保したと思う。片方は消防署という公用地であり、もう片方は神社である。元々はどちらかの土地であったのを、西武秩父線開通の際に譲ってもらったのだろうか?当時の西武鉄道のことだから、西武秩父線開通の見返りというか要求として、飯能市から土地を譲渡してもらったのかもしれない。そんな妄想をしたが、実際のところは西武池袋線(当時は武蔵野鉄道)が開通し、飯能駅が開業した大正時代から、この引き込み線はあったらしい。
だがそもそも、あんなところに短い、用途限定的な踏切が出来たのも面白い。道路の構造上、その先に信号付き交差点があるので、踏切があるせいですぐに渋滞して非常にイケていなかったし、そもそも消防や救急という緊急車両の出発場所が踏切の真横ってどうなんだろうとも思うが、それが昭和である。今思うと飯能の消防署もあんな小さな建物でよくやっていた。

引き込み線(機回し線)は、貨物列車廃止後に割とすぐに踏切が廃止され、飯能駅構内側には車止めが出来て分断されたが、引き込み線(機回し線)自体は結構長いこと残っていた。この踏切跡を通るたびに、飯能駅の構内踏切と共に、昔は貨物列車が走っていたことを思い出すのであった。

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