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ファスティング

執筆者 無駄一万字家筆まめ


Rage, rage against the dying of the light.

ディラン・トマスの有名な「快い夜に大人しく身を任せるな」という詩の一部だ。
クリストファー・ノーランのインターステラーで引用され知られている。
ボブ・ディランのディランは、ディラン・トマスからとってディランらしい。
この詩は簡単に言うと、死が近づいても死に抗えという事だと私は解釈している。

お恥ずかしながら、諸事情あって、1週間強の期間を家で淹れた麦茶だけで乗り切らねばならない時がごく最近あった。
広大なネットの世界で調べれば、食事無しで1週間強を仕事をしながらでも、乗り切れる方法をご教授頂ける博識な方もいらっしゃるだろうと思い検索してみた。

"絶食、乗り切る方法"

すると、「ファスティング中の空腹の紛らわせ方」みたいなサイトがズラッと出てくる。

「ファスティングダイエット中の空腹って辛いですよね、そんな時の気の紛らわせ方教えちゃいます!!」
「ファスティングダイエット、○○ドリンクで無理せず健康的に痩せちゃいましょう!!」
そんな文句が並ぶ。

「違います、私が知りたいのはそういう事ではありません。そもそもこちらとしましてはダイエットの意思はありませんし、それに、無理なく健康的にと仰いますが、無理して命懸けで嫌々です」と冷静な雰囲気を醸しながらコメントしようと思った。
しかし、断食2日目辺りでの事だったので、正常な判断力を維持できていたお陰でそれは食い止める事ができた。
1週間たった辺りだったら、
「知りたい情報にアクセス出来ない!これはディープステートの陰謀だ!偏った情報で洗脳しようとしている!」となっていたかもしれない。
実際、絶食5日目過ぎた辺りから足に力が入らなくなり、我が愛車(自転車)のグラン・トリノのペダルが一向に回らない。
果てしない倦怠、幻覚剤を投与されたかの様に景色が揺らめく。
頭も回らなくなり、朝方の街のパン屋などの飲食店が出す匂いに殺意が湧く。
おかしな考えしか浮かばない。

昨今、AIの発達、RNAワクチンの開発進化、老化細胞を取り除いて若返りを可能にする薬の開発をしているなんてニュースのタイトルが私のPCの画面に踊る。人間はどんどん不死に向かっているかの様だ。
しかし、人類は忘れている。空腹を感じなくさせたうえで、不具合を起こさない身体になる研究を!
ドラゴンボールのカリン様のセンズの開発研究を!
AIが作曲します、小説書きます、絵を描きます、そんな事どうでもいい!
RNAワクチンは危ないんじゃないか、いや大丈夫だ、そんな事どちらでもいい!
若返り?何を言ってるんだ、歳相応に老けていった方がカッコいいに決まってる!
空腹を、飢餓を、飢えをどうにかしてくれ!
この哀れな生き物に思し召しを・・・

心の中で呟く、Rage, rage against the dying of the light.

本来、この詩は死の淵を彷徨う者に語りかける情景が目に浮かぶ様な素晴らしいもので、ディラン・トマスも、こんなふざけた事(要は腹減ったから何か食わせてくれって話)に引き合いに出され怒っているだろう。
しかし、真面目な話、カルトなどの団体の洗脳初期は食事を与えず、人との関わりを断たせて追い込んでいくらしい。
詳しく調べた訳ではなく、聞き齧っただけなので誤情報なのかもしれないが、正しいとすれば私は上記の期間、これに当てはまっている。

私は、現在お世話になっている会社の事務所への出社時も、仕事終わりの退勤時も会社の人に会わない。ただの一人も。
車の鍵を保管している棚から、自分で勝手に鍵を取り1人で出発する。帰りもそこに鍵を返すだけ。
ガソリンを入れるのも、車にしまってある、会社のカード(提携ガソリン会社発行の法人カード)で自分の好きな時に給油する。
エンジンオイルの交換も、走行距離を見てその法人カードで、自分で予約して提携ガソリンスタンドで交換してもらう。会社の人とは誰にも会わない。
業務委託とか個人事業主としての契約とかなら普通なのかもしれないが、私はそうではない。
面接時、社長から過去にこの"1人で誰にも会わない"というのが苦痛というか淋しいというか、そんな感覚になり耐えられませんと辞めた人がいると聞いた。
人によって合う合わないがある。
私はこの様なスタイルの会社で働いている為、この仕事に望まないファスティングが加わると、人との接触がなく、食事を与えられないというカルトの初期洗脳をセルフで達成するのだ。

セルフ洗脳状態、1人カルト、自分が教祖で信者・・・

幸い、私には1週間に一度だけでも生存報告する機会に恵まれているし、何より今の会社のスタイルが苦にならないどころか、最高だと感じる性格をしているので対峙しなければならないのは空腹だけで済む。それでも1週間の内、6日間は人との関わりが無く、やりたくないファスティングをしていた時期の話なわけだから、半分くらい洗礼の水に浸かってる状態かもしれない。

決して面白がって茶化している訳ではないが、これは世界中の国の、それぞれの社会で隠伏されている事実だと思うと興味深い。圧倒的孤独と空腹を抱えてる人は沢山いるのだ。または1人でいる事に耐えられない、若しくは他の人より耐久性が弱い人が。外見からはわからない。隣の部屋に住んでいる人がそうかもしれない。
抗うんだ。無駄な抵抗だとしても。

現代は、死とか不幸とかネガティブな事柄を生活から見えない様に覆い隠し、
「ポジティブにスマイルして、ハッピーに生きましょう!そうすれば、人生、成功できますよ!お金を唸るほど稼いで、どんどん消費しましょう!あなたが生まれてきた事には意味があるのですよ。」で溢れていると私は感じている。中世のペストの様に、過剰なポジティブが蔓延している。
私の好きな映画に、ジョン・カーペンター監督のゼイリブという映画があるのだが、主人公のナダがサングラスをかけて言う様に「こんな事だろうと思ったよ」という世界になっている。
そういうことだ。
死を意識するからこそ、生きている事に喜びを感じ、ネガティブな思考があるからこそ、ポジティブな思考で行動できる。

そう思っている私の頭の中の自動敵探索システム-AESシステム(Automatically enemy search)は、アンミカを敵と認識している。あとは、昔のベッキーとか、謎のベンチャー企業の社長とか、変な占い師とか、一部のスポーツ選手とか。
皆んなまとめてSearch and destroyだ。
ネガティブが個性だという人の否定、自己改革の強要。
極悪人だ。ビッグブラザーだ。

いけない、書いている内にセルフ洗脳状態で槍玉にあげてしまい、悪い事をした。許して欲しい。何せ、ファスティング明けの優しい食事(具のないスープやお粥)をしているので、まだクリアな思考では無いのだ。そして、これはあくまで、私個人の考えだ。

ちなみにアンミカの旦那さんの兄は、映画監督のベネット・ミラーだという。義理の兄、家族がベネット・ミラー。カポーティやフォックスキャッチャーで孤独を抱えた人を描いていたのにと思ってしまうが、そんな事は余計なお世話なんだろう。

過剰なポジティブはひっくり返ってネガティブだと私は思う。ネガティブどころか人を追い詰める。
やりたくないファスティングをしなければならなかった私は、気付けば、うっすらと遠くで手を振る様子が滑稽に見える死と、目の前で踊り出す空腹に怒っていた。
私には、私が生きてる意味も理由も定かではない。
なぜ抵抗するのかもわからない。そういう性分だとしか言えない。
Rage, rage against the dying of the light.

意味なんて無い、いらない


このやりたくないファスティングは、ツアーをやりたくても出来ない状況の今の自分をも表している。
一方は食べたくても食べられない、その代わり痩せられて健康になる。もう一方は行きたくても行けない、その代わり、ツアーを禁じられてる期間に日銭は稼げる。日銭を稼げる程度だから、大してメリットもない気がする。いずれにしろ、両方共、やりたい事もやれないこんな世の中じゃポイズン状態だ。
生きている意味はあるのかという思いがチラッと過ぎってしまう事もある。
悩ましい。
まぁ、しかしそんな事を思い詰めても仕方がない。仏教では、生まれてきた事、生きる理由に特に意味なんてないとの釈迦の教えがあるらしい。ただの自然現象で、たまたま生まれて、そして生きるだけだと。
意味や理由は生きながら自分で勝手に見つける。

先祖のお墓が仏寺にあるが、自分が仏教徒だという自覚は私には無いに等しい。というか、皆無。しかし、この釈迦の考え方には賛成だ。
生きているだけで、それだけで大したもんだ。

2、3年前の有吉弘行のサンデーナイトドリーマーというラジオで有吉弘行が、私が共感する釈迦と同じこの考え方と同じ様な事を言っていた。
その回は、番組アシスタントをストレッチーズの福島という若手の芸人が務めていた。
彼は慶應義塾大学卒で、やっているアルバイトも医学部志望受験生専門の塾の個人アドバイザー、要は講師みたいな事をやっているらしい。
世間一般で云うところの学力エリートだ。
学生M-1というもので優勝し、芸人の世界に入ったとの事。そして、あのダチョウ倶楽部上島竜兵のラストサン(last son)といわれる。

その時の話の流れの中で、そんな彼に有吉は、
「親ガッカリしただろう、せっかく慶應までいって芸人なったんじゃ。俺んとこなんて、ほぼチンピラみたいなもんだからさ、何とか生きて犯罪さえしなきゃ良いって親だけどな。慶應までいって芸人やってたんじゃ、意味ないもんな。慶應までいって上島さんと飲んでんだもんなぁ。」

「今は、若手のネタとかも結構意味求めたりなぁ、あーだこーだ理屈があったり、ネタに思い入れ強いもんな。俺みたいな芸人は、道に金落ちてねぇかなみたいな芸能人生で、芸人なんてそんなもんだと思ってるからなぁ。お笑い芸人をする事に別に意味を求めてないからね、楽しいからだけでね。意味を求めちゃうと大変だな。まぁ、どっちが幸せかって話だろうけどな。」
大体この様な事を話していた。

もちろん、真面目に話している訳ではなく、ふざけて話しているのだが、聞いていた私は笑いながらもハッとしてしまう自分に気付いた。
ツアーに出たくても出られない事、またその真逆にツアーへ出られたとして、そのツアーの意味、そこに何か理由(経済面以外の)があるのではないか?
などと意味、理由を求める事が、いつのまにか第一になってしまい、楽しいからという自分の中の第一にして唯一であるはずの動機があるだけで、意味も理由も要らないという事を忘れているのではとハッとしたのだ。そして、「有吉さん、もはや釈迦じゃん!」とも思った。
ついつい人は何においても理由、理屈、意味を求める。特に不条理な事には求める。冷めた考え方と言われるかも知れないが、それらに意味なんて無いと私は思ってしまう。神が与えた試練でも何でもなく、ただただ、たまたまそうなっただけだと。
自分のやりたい事なら、理由は楽しいからという自分だけの答えを見出せば、道に落ちている金を探す様な心持ちで構わない。

その後、映画 三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜を観たという話をし始め、
「あの人達もさ、社会とはこうだ!とか人生の意味は!とか大変そうだよな。今、もう70歳過ぎとかで当時の事をインタビューされてる人達が出てくるんだけど、皆んな教授になったり、劇団主宰者だったりするけど、今も辛そうだもん。芸人なら、お笑いとはこうでなきゃいけないとか、人を笑わせるって事はこういう意味が・・・なんて、やっぱり人生に意味とか理屈とか求めると辛そうだよな。」と笑いながら感想を話していた。
有吉弘行は、以前ラジオで1番尊敬する人に上岡龍太郎の名を挙げていた。有吉のこの様な視点に合点がいく気がするのは、私だけでは無いだろう。

空腹脱獄


映画 暴力脱獄 原題Cool hand Lukeをだいぶ歳を取った近年観直して、感じる事が増えた。大学に入りたての頃に地元の駅にあったレンタルビデオ屋で借りて観た時は、何が面白いのか分からなかった。面白いと感じなかったのに、アメリカ文化に憧れているので「こんなの観てる俺ってcool、こういうの興味無いような奴等とは違うんだ俺は」と勘違いをして過ごした結果、大学に友達一人もおらず、誰とも口をきかずに大学生活を終えた。

劇中、ポール・ニューマン演じるルークが仲間とポーカーをした際にブラフで勝ち続け、「時には何でもない手が良い手(クールな手)な事もあるんだ」と仲間に言った事で、以後クールハンドルークというあだ名がつく。
私はこのルークのセリフに感銘を受けた。
何でもない手、それは深い意味や理屈など考えずにやってみる事。
何でもないのに、周りが勝手に何か凄い手を隠してるんじゃないかと勘ぐって自滅してくれる。
生きるのもただ生きてれば、時にそれが良い手になるのではないかと思わせてくれる。
ルークの様になりたいと切に思っている。
その為に私に出来る事として、雷雨の夜中に出勤しなければならない時にはいつも、「雷を俺に落としてみろ!」と心で唱えている。

ポール・ニューマンは実生活でも、素晴らしい人で「国は俺みたいに稼いでる奴等から税金を沢山取るべきだ」なんて事を言ってのける人だ。私にとっては、ロックスターだ。
Cool hand Lukeはファスティングをしなければならなかった私に、「そういうもんだよ人生は。だから抗え」と語りかけてくれた。意味も、理由もいらない、自分が存在してる限り抗い続けろ!と空腹の私の胃を揺さぶり続けた。

そういうものだ

あとは、なんと言ってもカート・ヴォネガットだ。最近だとEverything Everywhere All at Once(私は未見)で取り上げられているらしい。

スローターハウス5で繰り返し使われる言葉。
何かについての死が描かれる場面で出てくる、
"そういうものだ"と訳されるSo It Goes。
もしタトゥーを彫るなら背中に入れたいと今では思うほどだ。

大学の時に、芸術学の講義を選択科目で選んだ事がある。その講義はレニ・リーフェンシュタールやルイス・ブニュエルの映画を観る事が授業内容のほとんどの様な、お高くとまりやがってと言われそうな講義だった。
そんな講義をする教授がある日、「普段は映画を観てもらってますが、今日は映画は観ません。私が影響を受けた作家の話をします。」と言い出した。
映画を観るのが授業なくらいなので、私はその教授が話す様を見るのが初めてだった。
1時間半の講義時間、喋る喋る、水を飲んでは喋る喋る。
その話の内容がカート・ヴォネガットだった。

それが頭に残っていた私は、20代前半の頃初めて読んでみた。
その時は"そういうものだ"というヴォネガットの言葉に、ニヒリズムとか諦念を感じ、自分が若いからこそ感じるそういったモノへの憧れの様な感覚で処理していた。つまり、破壊願望というか、世界は全部嘘だから人間なんか信じるなという様な所謂中二病的な感覚だ。
しかし、年齢を重ね、私程度でも知識や経験を得た近年読み返したら、So It Goesに深いヒューマニズムみたいなモノを感じるようになった。
ヴォネガットは、生きる事に意味なんてないし、神なんていないし、人生はそういうものだという事を受け止め、その先に、それを受け入れているからこその人間性への希望、期待の様なモノをこの言葉に託してる気がした。
そういうものだから、意味も理由も自分で好きに見つかれば良いし、不完全なのが人間だからそれで良いのだと言ってもらえてる気がしてくる。
不完全だからこそ、最後に必要なのは他人に対してのBe kindなんだと。

So It Goesは、今では私に「人間は言わずもがな、物でも自然でも何でも必ず死ぬ。地球どころか宇宙もいつかは死ぬ。そういうものだ。
もし、運命というものがあり決まっているとしたら、唯一の事は死だけ。
終わりは決まっている、そういうものだからこそ、そこに至るまでが大切だよ」と語りかけてくるのだ。

ヴォネガットの生涯についての評伝のタイトルも、"人生なんて、そんなものさ"とイカしたタイトルだ。

激しく怒れ

ここまで引き合いに出してきたディラン・トマスの詩のタイトルは、Do not go gentle into that good night。快い夜に大人しく身を任せるな、なんてタイトルにパンクを感じず、何を感じろというのか。

私のやりたくないファスティング時のテーマである、Rage,rage against the dying of the light。最後に、この一節以外で我々The Depaysementというバンドのスローガンだと、個人的に思っているものを紹介したい。
Though wise men at their end know dark is right,Because their words have forked no lightning they
Do not go gentle into that good night.

私の言葉もまだ、稲妻を発していない。
だから抵抗するのである。




色々書いたけど、ファスティングはやりたい人は勝手にやれば良いけど、やりたくない人には拷問だなというお話でした。

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