#45 大事なことなのに教わってない、という表現

SNSをつらつら見ていると、ときどき目にする”表現”があります。

「〇〇はわりと大事なことなのにみんなちゃんと知らない。学校では教えてくれないけど大事なこと」

というニュアンスの投稿です。

〇〇に入る部分は投稿者が得意としている分野の内容が入ります。よく目にする代表格はなんといっても「お金」。

ざっくり”お金”とくくるひともいるし、そこから細分化して”投資”や”税金”について、「大事なこと」と書いているひともいます。

これまでの日本の風潮として、お金の話をおおっぴらにするのはハシタナイ、忌み嫌う空気がありましたので、余計にそう感じる(思わせる)部分も多いのではないかと思います。


そのほかの「大事なことなのに学校では教えてくれない」系の表現で目にするのは、「考えること」や「伝わる文章」などです。

このあたりはブロガーの投稿でよく目にします。

そういえば、作家の山田ズーニーさんも著書の中でこう書いていました。

高校までの勉強の大部分は「暗記と応用」だ。決められた一つの正解に近づくために、知識や法則を覚え、応用する。暗記→応用→暗記→応用・・。そうではなく、まったく正解が存在しない問題を、自分で考える方法を習ったことがあるだろうか?
(あなたの話はなぜ「通じない」のか 山田ズーニー著 ちくま文庫より)

SNSの投稿に限らず、ビジネス本や自己啓発系の本でも似たような表現は多くあると思います。
そして「ふむふむ、そうか、たしかにな」と思うことも多いし、実際「学校では教わっていない」というのもそのとおりだと思います。

こうして見ていると
「社会で生きていくのに必要なことだけど学校では教わってないこと」が、たくさんありそう。
思わず、学校っていったい何を教えてるんでしょうね?という気分になってしまいそうです。

でも、こういうふうに受け取ってしまうのは早合点でやや危険ですね。


SNSの投稿にしても、本を書いているひとも、
ほとんどの人は「大事なことだから学校で教えるべき」とは書いていません(たまにそういうひともいるかもしれませんが・・)。

「学校では教わらないけど大事なことだと思う」という意味にとどめているひとがほとんどだと思います。

そりゃそうですよね。
学校は、ひとそれぞれの価値観が異なる事象に対して直接的な正解(と思われること)を教える場とは違う。
例えば、ズーニーさんの書いていた内容を例にとるなら
「”正解のないこと”を考える方法を学校で教えるべき」という主張になると、「おいおい、ちょっと待て」となるのは想像に難くないはず。


ただ、「大事なこと」「学校」「教わっていない」という単語が組み合わさって受ける印象はとても強く感じるので
「学校で教わることって社会で役立たないし、ムダ」という解釈に陥ってしまう可能性は結構あるような気がします。


大事なことだからこそ、「教わっておわり」ではなく、ひとの考えや意見を聞いて自分で考える。

「何が大事」なのか、はみんなそれぞれ違う。
自分にとってはどういうことが大事なのか、なぜ大事なのか、を意識していないと、ひとの意見がそのまま自分の考えになってしまう怖さがあるような表現だなと感じています。


ちなみに、学校の勉強ということに視点を当てると、いまさらのように中学生の理科を復習していて感じるのは、社会に出て必要なことのほとんどの基礎は、義務教育過程の主要5科目(国数社理英)を通じてしっかり学んできていたのかも、と思うこの頃です。

学んできたことの基礎をどう活かすかの機会は、社会に出てたときに何度でも訪れます。
「調べること」は、最近ネットで済ませてしまうことも多いと思いますが、学校のテキストに戻ってみると、学生のときにはわからなかった面白さや発見もあったりしますのでぜひおすすめです。


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