カメラを持って北九州の歴史を巡ってみた - 門司区大里、空海ゆかりの満隆寺と戸上神社
北九州に移り住んでから知った、北九州市の広さ。
1963年(昭和38年)2月10日に門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市の五市が合併5つの市が合併したそうです。
今回訪れた場所は、一番東の門司区です。
門司港レトロ、関門海峡で有名な町です。
「北九州の史跡探訪」を読んで戸上神社へ
都市高速の大里ICを降りて、右折したらすぐ左手に「戸上神社」の駐車場があり、そこに停めました。
駐車場を進むと右手に都市高速。
高架下をくぐってみると、坂下の門司駅から、山側に続く道に大きな鳥居がありました。
ちょっと不思議な位置です。
都市高速と近すぎるような。
高架下をくぐると、鳥居が見えてきます。
戸上神社の鳥居です。
階段を登っていくと、本殿が見えてきました。
建物のサイズや、他の神社と比べても大きな狛犬です。
本殿の後ろには、戸ノ上山が見えます。
手前の階段の右側には、お寺のような場所が続いていました。
水色の旗の間を通っていけば
仁王像が向かい合っていました。
左の仁王像です。
写真の左下は、戸上神社のホームページによると大日如来像。
右側の仁王像です。
仁王像の間の階段を降ると、お堂が二つありました。
大師堂と地蔵堂です。
園内には梅の花。
境内社のほか、池もありました。
「北九州の史跡探訪」に伝えられていたのは
戸ノ上神社と満隆寺
祭神 天之御中主神、伊邪那岐神、伊邪那美神、他一七柱の神々。
戸ノ上神社は戸ノ上山(海抜五二一メートル)の頂きに上宮、麓に本宮があり、同一祭神を奉祀している。
大同元年(八〇六)空海が唐よりの帰途、当地に下船し山頂に草坊を結んだ。そこに唐より持ち帰った観音像を安置し、真言密法を修められた。これが満隆寺のおこりである。
北九州の史跡探訪 24ページ
門司区 30番 戸ノ上神社と満隆寺
祭神は二十柱。
祭神の数が多いほど力がある神社、と以前ネットで見たことがあります。
弘法大師空海が唐から帰ってきて、草坊を結んだともあります。
宗像市の鎮国寺は、空海が唐から帰ってきて建てた、「真言宗最古のお寺」と言われていますが、満隆寺のことは初耳でした。
「唐より持ち帰った観音像を安置」とありますが、現存するのでしょうか。
戸上神社のホームページには、詳しい記述はありませんでした。
ネットにも情報が見当たりません。
それより約八〇年後の寛平元年(八九九)馬寄村の漁夫の網にあがった御神像を、枝折戸に奉載して、山上に祀ったのが戸ノ上社となり、山名を戸ノ上と称した。
北九州の史跡探訪 24ページ
門司区 30番 戸ノ上神社と満隆寺
満隆寺の後、戸ノ上神社が創始されたみたいですね。
馬寄は「マイソウ」と、珍しい読みです。
馬寄の地名は神功皇后伝説に起源しているとも言われている、古くからの地名のようです。
大里柳小学校のホームページによると、「戸ノ上山」の前は「一夜山」と呼んだとありますが、記録は残っていないともあります。
寛平元年(889年)のある夜、柳ヶ浦の漁師の網に一体の玉の像がかかりました。 漁師は、それを根二の浜の松の木の大枝に置いて帰りました。 それから、数日たって、馬寄村の老人の夢に出て、早く迎えに来るように言いました。それで、その玉を迎えて家に持って帰りました。 しばらく家の中でおまつりしていましたが、また神が、夢に出てきて「今から、わたしに鶏の声の届かぬ高き所にまつれ。」と言われました。 それで、老人は弟と一緒に戸板にのせて、鶏の鳴き声の届かない高い山に持っていき、まつりました。 戸板の上に乗せたので、戸ノ上山と呼ばれるようになりました。その前は、戸ノ上山のことを一夜山といいますが記録は残っていません。
大里柳小学校ホームページより引用
http://www.kita9.ed.jp/dairiyanagi-e/tiiki/tiiki01.htm
中世戦乱の頃、大友宗麟の部将が門司城を攻めるため、当地に乱入しその陛下により山上・山下の堂宇、僧坊は悉く焼失した。その後、慶長年間(一五九六〜一六一五)僧、快周が再建中興し、修験道に属して、満隆寺は常学院となった。明治六年神仏分離令により、神籍に統一され、神仏混合時代も終わった。
混合時代の遺跡や遺物として、山頂の護摩焚跡、山伏の行場であった現在の滝の観音寺、また境内にある大師堂や石仏の大日如来像、そのほか小笠原真公奉納の一二神将などがある。
北九州の史跡探訪 24ページ
門司区 30番 戸ノ上神社と満隆寺
北部九州には、キリシタン大名として有名な大友氏が焼き討ちしたとお寺や神社があります。
満隆寺は狙われたのではなく、この書き方だと、とばっちりを受けた、と取れますね。
この社はまた久留米藩とも縁が深い。
正徳元年(一七一一)六月、有馬則雄候の代に、当船屋敷衆等が願主となって奉納した石の鳥居一基がある。また、明和八年(一七一一)九月、船屋敷詰めの人々、二〇余命の浄財で石燈篭一対を献じている。嘉永六年(一八五三)には藩士緒方繁右衛門が、絵馬一面を奉納した。これも現存している。
これらはみな、藩船の会場安全と藩屋敷の和平除災を祈願するために奉納したものである。
北九州の史跡探訪 24ページ
門司区 30番 戸ノ上神社と満隆寺
久留米藩の、有馬則雄候が奉納した鳥居がこちらです。
久留米藩の有馬則雄候の情報
旗本:有馬他吉郎家
五代 有馬 則雄(のりお)【1712~1779】
石野範種の三男、母は鍋島正恭の娘。
1739年に28歳で相続しました。火事場見廻り、御使番、新番頭、仙洞附をつとめました。享年68。妻は旗本 水野忠富の娘(則武の姪)。
「探検!日本の歴史」から引用
https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/kurume-arima
久留米藩の有馬家は、久留米の水天宮を庇護していました。
全国の水天宮の総本山として、有名です。
以下に記しますが、生き残った平氏が、源氏に追い詰められ入水した安徳天皇を祀った社です。
「水天宮 由来」から抜粋
安徳天皇の母である高倉平中宮に使えていた女官、按察使局(あぜちのつぼね)伊勢は寿永4年(1185)、3月24日壇ノ浦の戦いの後、千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れて来て、建久初年(1190)初めて水天宮を祀った。
「鎮座」から抜粋
筑後川流域は戦場になることが多かったため、兵禍を避け幾度も社殿を遷し慶長年間に久留米市新町1丁目に遷り、慶安3年(1650)久留米藩2代藩主有馬忠頼公より現在の社地、社殿の寄進をうけ、この地に遷し奉られる。
http://suitengu.net/%E5%BE%A1%E7%A5%AD%E7%A5%9E%E3%83%BB%E7%94%B1%E6%9D%A5/
全国総本宮 水天宮ホームページより引用
石燈篭はホームページには記載されていませんでした。
少しの違和感
公式ホームページによると、「1100年余りの歴史を持つという戸ノ上神社」を訪れて、実は少し予想外だったことがあります。
神社全体が、歴史に比べ、ずっと新しい気がしました。
本宮は、平成13年7月火災により、焼失しましたが平成15年8月24日に本宮が竣工されました。
http://www.ktqc01.net/moji/hosf/chiiki.html
平成の火災がどの程度だったのかは分かりません。
昭和28年6月、西日本に居座った梅雨前線による長雨、集中豪雨により、各地で土砂災害や河川氾濫などが発生、現在の北九州市地域では死者・行方不明者合わせて183名(旧門司市は143名)、全半壊流失家屋3,812戸(同2,539戸)となる大災害となりました。旧門司市では25日からの4日間で降雨量が646.1ミリとなり、たちまち各河川は氾濫、家屋は崩壊流失するなど甚大な被害をもたらしました。特に28日には、市街地背後に連なる風師、戸ノ上山系の山々が相次いで崩壊、山津波となって一瞬にして市街地は土砂で覆われました。
この「昭和28年北九州大水害」は過去のこと。いいえ今後も備えておかなければならない起こりうる災害です。自分や家族の命を守るため、いま一度、あなたの地域で想定される災害、予定避難場所、避難行動について確認しましょう。
https://mykoho.jp/article/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B8%82/%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B8%82%E6%94%BF%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A-%E9%96%80%E5%8F%B8%E5%8C%BA%E7%89%88-%E3%81%BB%E3%81%A3%E3%81%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%EF%BC%81%E3%82%82%E3%81%98-%E4%BB%A4-30/%E6%98%AD%E5%92%8C28%E5%B9%B4%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E6%B0%B4%E5%AE%B3/
マイ広報誌 「昭和28年北九州大水害」
昭和28年の大水害の影響は、無かったのか。
情報が見当たりません。
おわりに
この日はあまり時間がなく、詳細に見て回ることができませんでした。
「天之御中主神、伊邪那岐神、伊邪那美神、他一七柱の神々」の他の祭神について、由緒書には書かれていると思うのですが。(公式ホームページに詳しく記載がなかった)
ネットの情報では、「奥津日子神、奥津比売神、須佐之男神、大山祇神、大穴牟遅神、少名比古那神、豊日別命、宇迦之御魂神、保食神、高淤加美神、高淤加美命、闇淤加美命、罔象女神、建御名方神、猿田彦神、安徳天皇、平宗盛」が祀られていると記載がありました。
安徳天皇と平宗盛が祀られているのが目を引きます。
この戸上神社がある場所は「門司区大里(だいり)」。
かつては「内裏」でした。
平安時代、安徳天皇を伴った平家が「柳の御所」を造営したことから、内裏と呼ばれるようになりました。
門司は、平氏が過ごしたあとがたくさん残る町でもあります。
本「北九州歴史探訪」には、門司での平氏ゆかりの場所について様々な情報が載せられていました。
おそらくこの先その場所にも訪れることになると思います。
神社の由緒書きの他にも、見落としがあるかもしれません。
また、立ち寄れて新しいことが分かれば追記して行きます。
今回の撮影はSONYのコンデジ、RX100M7でした。
SONYのカメラで撮ると青味が強くなるようなので、次はCanon EOS kiss x7で撮ってみたいですね。
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