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センシティヴな他愛なさ。『aftersun/アフターサン』

11歳の女の子ソフィと31歳の若い父親カラムが、トルコで過ごしたバカンスの数日間。もともとソフィは母に引き取られていて、別居状態の父娘が再会したという設定だ。カラムが重大なメンタル上の危機を抱えていることも随所で暗示される。父娘の繊細な関係性を軸に、全編でほの暗く、儚いムードが覆う。

説明は極力排していて、ちょっとした会話や無言のショットによって、とにかくほのめかす。みなまで言わない。それが余韻を生み、想像をかき立てるなら、悪くない演出かもしれない。しかし、ベールに包まれた核心にはいったい何があるのか。残念ながら、それはひどく他愛のないものではないか。

ソフィを通して、少女の性の目覚めが描かれる。同じホテルに宿泊しているちょっと年上の男女たちがプールサイドやバーで戯れる姿に、ソフィが戸惑いつつ憧れを抱いていることはよく分かる。本人は同年代の男の子とファーストキスを済ます。このあたりは、狙い撃ちのようにシーンがパッチワークされるので、思わず苦笑してしまった。他愛ないものが強調されるわけだから。

この父娘を、疑似的な恋人関係に見立てているふしもある。プライベート感を醸すハンディカムの自撮り映像がところどころ差し込まれるが、冗談っぽいやり取りも含め、家庭の温もりとは距離があり、どこかよそよそしさと淫靡さがないまぜになっている。父は娘とのデュエットを拒否し、娘は父のダンスの誘いを断るが、そういうすれ違いもかなりこそばゆい、というか父が幼い。保湿クリームを娘に塗ってあげたり、あるいは互いに泥風呂の泥にまみれたりするシーンも、さらりとしたタッチだが、どうしても性的な隠喩につながってしまう。

ただ、そこでワンクッションとなる要素が、同性愛である。父と同じ年齢になったソフィは、同性のパートナーとの子育てに苦労しており、自撮り映像を見返して思いに耽る。さらに、父もゲイだったのではないかとの深読みを誘うフックがそこかしこに見え隠れする。白い照明が点滅するダンスフロアで、父と、大人になったソフィが対峙するイメージカットも興味深く、さまざまな解釈が可能だ。父がゲイで、娘はレズ(だが少女時代にはまだ自覚がない)なら、上記の疑似的な恋愛関係も、そう単純ではなく、錯綜しているということになる。

本作から浮かび上がるのは、枠組みや価値の揺らぎである。男と女、大人と子ども、明と暗、喜びと悲しみ。そういった対立的な二項を区別する根拠がはく奪された場所で、どんなナイーヴな物語を生み出せるか。そういう試みのようにも映った。その意味で、多くのパラグライダーが空を飛ぶ遠景のショットは象徴的である。ただ、やはり核心に迫るのを避けているのか、ある種、小洒落た記号が浮遊するにとどまっている感は否めない。

本作が初監督作品となるシャーロット・ウェルズは30代半ば。彼女はシャンタル・アケルマンに影響に受けているという。そういえば本作で、ベッドルームで父が一人泣きする場面は、アケルマンの『オルメイヤーの阿房宮』のラストシーンがこだましているようでもある。私はそこに、西洋人独特のエゴイズムとナルシシズムを見て取ってしまうから、あまり心地いいものではなかったのだが。アケルマンも同性愛者だったということはここに付記しておく。

同性愛的な要素が、繊細な表現世界を担保するものとして、ある種特権的な位置づけがなされてしまう風潮には、少しうんざりしている。マイク・ミルズの『人生はビギナーズ』(2010)が、そういうことを考えるきっかけだった。同性愛者を含むマイノリティを理解し、尊重するのは、現実世界の課題だ。個人的な見解だが、映画ではマイノリティの逆襲を見たい。その方が、現実を変える力になり得ると考えるからだ。

(C)Turkish Riviera Run Club Limited, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute & Tango 2022


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