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自由と責任

「共依存」、「選択肢」、「自由」、「責任」
これらの言葉や、自分の行動について考えている。

難しく考えているわけではなくて、少しずつ少しずつ、
違う角度から見てみたり、試してみたりしているような感覚で。

私たちはみんな、無意識に選択肢を狭めてしまっているんだと思う。

あの場面で、お母さんがこうやったら悲しんだから。
あの場面で、お母さんがこうやったら喜んだから。
あの場面で、こうしたけどお母さんに無視されたから。

幼いころの母親の影響力は絶大で、自分の行動を決めるには十分だった。
幼い人間一人では、この社会で何の力も持てないことがほとんどだから。

従わないと死んでしまうかもしれないし、どんな目に合うか分からない。
心細くて、心もとなくて、まだ何も知らず不安でいっぱいの中で、
母親が「正しくない」なんて思ったら、この先何を基準に
選択していけばいいのか皆目見当がつかないことだって、あった。

だから、母親、親を基準に選択肢を持ち、自分の行動を決定してきたのだ。

それは、「こうしないと怒られる、痛めつけられる」というような
明らかな「暴力」や「虐待」なこともあるだろうし、
反対に、「喜ばせたいから、役に立ちたいから、悲しませたくないから」
なんて、一見「美談」のような、「美しい親子の絆」のような、
「親孝行」のような外見を取りつつも、実は子供の自由を奪っている、
という、まさしく「真綿で首を絞める」ような「見えない虐待」もある。

この「選択」を続けることが自分にとって苦しいのであれば、
やめられるように動いていく必要がある。

「死にかけ」の中で選択してきたから、
その恐怖が心の奥に染みついていると、とても怖い。
恐怖は心の奥深くに沈めて、隠されて、ないものにされているから
そもそも意識に上がってくることも少ないけれど、「残っている」。

この「恐怖」「悲しみ」「後悔」と、
友達になっていく必要があるんだと思う。

そうして、わたしたちは、親に規定されずに「選択肢」を持っていい。
だけど実際に「選択」したときには、それに対しての「責任」が生まれる。

周囲の人、自分が関わる人、大切な人が「傷つく」かもしれない。
「悲しむ」かもしれない。「苦しむ」かもしれない。

「傷つく」も「悲しむ」も「苦しむ」も、
それらも「相手の自由」なのだけど、関わる以上、
自分と相手の関係がある以上、
「そんなの知ったこっちゃないよ」「私のせいじゃないよ」と、
相手の気持ちを否定して、逃げることはできないと思う。

そういうことも「引き受ける」こと。
「相手にとっても」善い選択肢であること。

この「善い」も、一般的な善悪じゃないことが、また難しいが、、、

そういうことを、もっともっと、
突き詰めて感じて考え抜く必要があるんだと思う。

今は、こういうことを考えている。
私の日々の「選択」が、わたしをつくるから。

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