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全体性の欠如

今日無印良品に行った。
僕はよく無印にいく。無印の商品は、デザイン・プライス・価値観ともに魅力的であるし、家がおしゃれに見えてくる。何より、無印の店舗に行くと、なぜかウキウキするのである。

今日知ったことなのだが、無印良品は、消費社会へのアンチテーゼとして誕生したらしい。

たしかに、無印の良品は品質がいい。けれども、多くのプラスチック商品が陳列されていることもまた事実なので、少し首をかしげたくなった。

大量消費型社会というと、最近読んだ本で、納得したものがある。

快適を過度に追及する現代

現代の私たちは、快適性を求めすぎているということだ。それは大量消費に代表されるようなモノへの追求から、自分の内面へを幅広くある。

従来のヒトは、不快感への受容度が格段に今よりも高かったし、そういったものを苦痛と感じつつ、自分なりにうまく過ごしていく力があった。

しかし現代は、テクノロジーや資本主義社会により、何事も快適性を追求できるようになってしまった。その追求度合いは加速度的高まっており、もうコントロールは難しい。

これは、私たちの内面にも言えることである。ポジティブシンキングがもてはやされるように、常にポジティブな感情でいようとする。人間は感情をもつ動物なのだから、そんなポジティブで居つづけるようが異様なのだが、現代人はそれを追求する。ネガティブな感情は悪いものと一方的に捉え、どうにかしてこれを抑圧しようとする。

欠けた全体性

しかし、そうするとさらにそのネガティブ感情は強まり、深刻化していく。近年そのような悩みを持つ人が多いのは、ポジティブもネガティブも単なる感情であるという視点を忘れている。全体性の観点が薄れていることである。

快適性を重んじるあまりに、全体的思考ができず、一つの価値観に縛られている。

そういった自身の快適に行動が縛られており、充実した行動に乗り出せない。

これが現代人の抱える課題である。

快適性の過度な追及をやめ、行動により目的本位へと考えを変えていくことが重要なのではなかろうか。

目的を考える

テクノロジーを駆使して、ある程度の快適性を実現したり、効率化をすすめるのも悪くはない。

何が言いたいのかというと、自分がいい感情でいることを目標にするのはいけない、ということだ。

大量消費を入り口としたが、日常を快適にするモノ、テクノロジーは日々生み出され続けている。企業はそれを売るために、多くの広告を出し、購買意欲を高めてくる。まるでそれがなくては、不便で「ネガティブな」感情になるかのような錯覚を覚え、ついつい買ってしまう。

このような生活からおさらばしてみよう。

全体性=ホールネスを復活させ、快適性に縛られない生き方をしていきたい。

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