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【時評】「サイバーパンクの夢──『攻殻』『lain』あるいは反転した鏡像としての『市子』の「遍在」について」


「ラム、それは夢だよ。……それは夢だ」

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』

 不在者は、その不在によって〈いま・ここ〉の我々を立ち止まらせる。ふと目を向けた先の、その虚空に不在を見るとき、我々はそこに、なにものかの気配が息づいているのを感じる。そのようにして不在の不在性は立ち現れ、歴然と我々を侵襲する。

 他者を他者として認識し受容する、そのような「健全な認知」のうえでは、不在と、それに付帯する喪失から我々は自由になれない。そしてアニメーションのような記号性の高い表現空間においては、そうした不在は奇妙なねじれを伴って提示されることになる。

「……しかも、亡くなった後もFacebookなどを通じて誕生日のお知らせがくるんです。そのページを見てみると、亡くなったことを知らない人が「おめでとう!」とメッセージを残しているんですね。実際はもうこの世にはいないのに、まだいることにされていることに、ある種の違和感を抱いていたんです」

『市子』パンフレット

 たとえば押井守版『攻殻機動隊』では、電脳の海から生まれ、そこに漂うコードとしての実存であるところの「人形遣い」が、絶えず物語に付きまとう影として提示された。「人形遣い」は遍在する。そうして主人公:草薙素子は最後に、それと同化する道を選択する。肉体を捨て、ネットの海という「均一なマトリクスの裂け目の向こう」へとダイブする道を。そして続く『イノセンス』では、人形遣いがそうであったような意味で遍在する素子の存在が描かれる。

 また、『攻殻』と同年代に展開されカルト的な人気を誇ったアニメ『serial experiments lain』もまた、電脳の存在、思念体である「lain」が合成リボソームによる肉体「玲音」を獲得し、その身体による彷徨を経て、思念体「lain」の秩序へと回帰する様を描き出した。

 そこにおける結末もやはり「肉体の投棄」と「遍在への昇華」だった。その種の展開は80-90年代における和製サイバーパンクにおいては基本的なモードであり、ネットとは現実を超越する世界のレイヤーとして理解されていた節がある(実際、それら作品にはより広範で深淵な価値があるとは思うが)。

 しかし海老原豊が示したように、サイバーパンクは「電気が消えたら終わり」(『3・11の未来』)であるという側面をもつ。無論、SFという、物語記述の一様式にとってはその程度の揺らぎや困難は十分に踏破可能なものでしかないが、〈いま・ここ〉に生きる我々にとってはそうではない。3・11以降、サイバーパンクの見せる肥大した電脳世界に、何の批判も理論武装もなしに耽溺することは著しく困難になってしまったと言わざるをえない。

 電気が消えた後の世界においても、我々はこの身体を──分かちがたくそれであり続ける身体を抱えて生き続けるほかはない。不在者の不在性が遍在へと昇華されゆく世界のただなかで、それでも身体というある種の「根拠」がそのままに、ごろりと、何の留保もなしに転がっているということ。この映画が描き出す風景とは、まさしくそのようなものだったのではないか。

「そういったところから逆転的ではあるんですけど、存在しているのに存在していないことにされている人の話が描けないだろうかと考え始めて」

同上

 作品の舞台は2015年。原作である舞台の設定に合わせた面もあるのだろう。それは〈いま・ここ〉ではない。けれどそれは、ユビキタス化の進行していなかった、昔懐かしいノスタルジーの世界ではない。そこにはiPhoneもあれば、Twitterもある。

 にもかかわらず、この作品の中でそうしたガジェットたち、プラットフォームたちが中心的な役割を果たすことはない。そうした、今日において「人捜し」もののサスペンスが課せられてしまった情報環境という制約を、この作品は華麗に、巧みに回避する(付け加えれば同じ年代を一部で取り扱っていた『キリエのうた』においてはSNS、とりわけTwitterが重要な役割を果たすシークエンスがあった)。

 「市子」を探すこと。それは常に、どこまでも、分かちがたく、電脳の世界ではなく、生臭く色あせたフィジカルな現実の出来事として描き出された。そして不在の市子を探る道程の中では、彼女の存在は常に遍在の秩序の中に置かれる。伝聞が、気配が、そして何より写真の中の「眼」がこちらを見つめてくること。それによって彼女は、現実の過重を伴ったままこの世界に遍在する。かつて人形遣いやlainが、電脳世界においてそうであったように。


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