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本と本に関わる人の想いの全て/密やかで凛とした情熱『ミュゲ書房』(伊藤調)

書架にある本との出会いは、文字通り出会いだと思う。ソフトカバーの手に馴染む柔らかな風合いに、落ち着いた、そしてセンスの溢れる色彩が愛おしいほどに溢れる装丁。手に取った瞬間、幼い頃、エンデの『果てしない物語』を手にした時の高揚感を思い出していた私は、作中、主人公がまさにその作品に言及するのを読んだ途端、心の中で快哉を叫んだ。これは、出会い。北は北海道、A市というとある街に位置する、本と本を愛する人達の凜とした思いがかたちとなったような場所、「ミュゲ書房」の物語との。

作者である伊藤氏は、現在、図書館での職につきながら、文芸投稿サイト「カクヨム」で連載された当作品をデビュー作として上梓された。ご出身が北海道であることは、もちろんこの物語の舞台が北海道であることと無関係であるはずがない。といって郷里への思いや特色をあえて前面に押し出すことなく、クラシックの旋律のように心地よくよどみなく流れる物語の通奏低音のように、作者の郷里への愛が絶妙な匙加減で表現されていることがとても心地よい。

ストーリーの核は、一言で括らせて頂くことが赦されれば、広義での「お仕事小説」の一環だろう。古典からの鉄板である、主人公をはじめ登場人物それぞれの「成長物語」としての側面を嫌みなく織り込みながら、書店、出版界、本作りの現場と本を「売る」現場とが抱える現実的な問題については作者の流石の洞察と経験から、作品世界にピンと張った緊張感とサスペンス的な要素を与えている。私のように、本がとにかく大好きで、末席とはいえ本とその現場の傍らに関わり続けた者にとって、幾重にも心躍る描写や展開が用意されており、まさに贅沢かつ、読み終わるのが切なくなるような大切な気づきに満ちた物語だった。何より嬉しいのは、主人公・宮本が大手出版社の未来を約束されたエリート編集者でありながら、地方の、祖父の、地元の方々の想いのこもった「書店」という「場」を継ぐことを決心し、決して綺麗事ではなく数々の困難に行き当たりながらも、悩み、もがく姿を赤裸々に晒しながらその「場」を守り続け、やがて自らの人生そのものと「ミュゲ書房」を重ねていくかのような展開だ。

わかりやすいドラマのように、大手&エリート編集者=商業絶対主義の「悪」、地方の零細書店=守られるべき「善」と二分化しないことへの作者の細やかで透徹した視点にも一層、尊敬を深くする。本の現場に自身が長く想いを込めて関わってきた著者だからこそ、「悪者」を作るのではなく「本」というカタチ、「書店」あるいは「図書館」という場所を通して、身近な人が、街が、そして最終的には「自分自身」が、より良く、より幸福に、日々を豊かに過ごすことを心から願っていることが行間からも伝わってくる。

本を中心に、本という形に希望を託し、共にあることで「善く」あることへ心を砕く主要な登場人物たち、それに作用され在り方を変えていく魅力的なサブキャラクタをも丁寧に描きながら、読むことできっと、出版や書店流通の現場にさほど興味のなかった読者にも、業界が抱える問題やリアル書店が抱える現状ということについて無理なく理解が深められる内容にもなっている。さりげなく押しつけがましくなく、美しく精錬された文章と魅力的なそれぞれのキャラクタが、この1冊を通して投げかけてくれる気づきや感動の多彩さに、本当に舌を巻く思いだ。

著者の真摯な思いはそうしたやや固いテーマの啓発に留まらず、主人公達のやりとりや新人作家の出版をめぐるスリリングなやりとりを通して、とびきりのエンタテインメントとして成立していることも、なおかつそれすらもさりげなく美しい郷里の風景と人々の温かい交流の描写から逸脱せずに描かれていることが、本当に本当に素晴らしいと思う。本と、本に関わるすべての人にはもちろん、自分の娘を初め、これから「夢」と「現実」の折り合いをつけていく岐路に立たねばならない多くの子供たち、若者たちにもぜひ、手に取って欲しい、心からそう思える作品だ。

作中、新人作家の投稿時代からのファンでありメンターであった読者が、「自分の子供に読ませたい」と伝えてくれたことがきっかけになり、桃がその子への敬意を込めて作品を改稿しつづけ、やがてその子の嬉しいアクションから、デビュー作が「学校図書室」を発端として広く広まっていく――そんな展開は伊藤さんという、図書館という、書店とはまた違った形で読者と本とを結びつける架け橋となってきた存在だからこそ描くことのできた、本当に美しく、感動を呼ぶ意外な展開だった。

コロナ禍も2年目になる。私達をとりまく社会は、まさに枚挙にいとまがないほど、様々な側面が様変わりした。正しいと信じていたことがそうではなくなる場面において、たとえ「欺瞞」であっても「正しい」と信じ続けていられるほうが、「楽」であったのだと、正直そんな風に感じてしまうことも私自身、多々あった。けれどもこの苦境にあり、見えていくる新たな地平、掘り起こされる、本当は大切だったはずのわずかな煌めきは、こうして一度立ち止まらなければ気づけなかった。主人公の編集者・宮本のように。どんな忖度もなしに「大切にしたい」と思えるものに気づくことが出来、それを守り育てる覚悟をどんなに些細に見えることでも育てていくことは、うわべだけの「成功」なんかより、比ぶべくもないほどに尊くそして美しい。

ありのままの自分でありのままの社会と向き合うことは、本当はとても苦しいことだ。けれど、真っ直ぐに見据える強さを日々少しでも得ることができれば、明日、数ヶ月後、そして一年後、今居る場所から見える地平はそれまでとは比べものにならないくらい、希望と未来とを感じさせてくれるものだろう。胸に問いかける、何が大事かを。胸に遺し続ける、「初心」の自分を。忘れてもいいけれど、失くしてはいけない。そんな大切さを、きっとページをめくるたび繰り返し繰り返し、より深く温かく、教えてくれる物語。伊藤さんの物語。『ミュゲ書房』に出会えた密やかで静謐な感動は、今の私にとってとても必要なことだった。忘れない。本当に、ありがとう。


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