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繋がり、重なることへの渇望/宇佐見りん『推し、燃ゆ』を読む

第164回芥川賞を受賞した本作。まさにトレンドの真っ只中の作品を直ぐに手に取ってみた。21歳の作者の目を通して描かれる、高校生の日常。年代的にも環境的にも、今の自分から最も遠い視点という前提で読み進む。会話のテンポやコミュニケーションの在り方、使用される言葉もどこか私の”日常"とは異なる筈の主人公の語る言葉、その肌感覚は、「わかものたち」の物語ではなくて、その倍の歳月を経て親ですらある”私”の世界をいとも簡単に”10代だけに見える世界”に引きずり戻した。

世間や社会というものと自身とのひずみ、家族間での“わかってもらえない"齟齬など、こうして並べてしまえばどこまでも陳腐な「あのころ」というものを、感傷に浸らせる暇も与えずまたそれ自体を拒む、あからさまで嘘のない叫びのようなモノローグの連続。

それは、繋がり、重なり合うことへの渇望――ルーズリーフを何枚も何枚も、時に思いと言葉が追いつかずその上から塗り重ねていくように言葉が紡がれる度、【推し】についても主人公についても輪郭が描けるほどこちらの情報量が重ねられるのに反比例して、何かが削られ、そぎ落とされ、”骨だけになる”

彼女自身が表現したこの言葉のように、家族や級友、先生との会話、SNSでの繋がり、推しのくれる幸福や安堵感、不安定な肉体と精神、はちきれるほどにいつも「何か」で埋め尽くされる彼女の日常が、現象としての「推しの炎上事件」をきっかけに加速度を増して膨らみ、ついには風船のようにぱちん、と弾けて何も残らない。

瑞々しく自身の「今ここ」を想起させるような文体は直感的で揺らぐようでいて、物語を通しての背骨――構成は息をのむほどにすらすらと、(これすら言葉にすると陳腐だが)破滅美、のようなラストへと収束していく。後半繰り返し想起される”死”のイメージや予感、それに伴う現実としての祖母の死、居場所であるはずの家族の煩わしさ。耳を塞ぎたい目を背けたいはずのそれらを彼女がむしろ”観察"するように冷静に叙述するのは、【推し】のために存在する”自身”への、絶対的な揺るぎなさがあるから。

自虐的なモノローグが多々あるにも関わらず、単なる感傷や自己憐憫として絶対に捉えさせないこの描き方、この物語は、”生きづらさを抱えた10代の女の子と、推し活のリアル”という、同時代的なテーマから想起される、しつこいが”陳腐”な構造を逆手にとって、「人生」について何がしかの経験を積み、彼女たちに伝えるべき何かを持っている――あるいは持っていると誤解している――年代の(私も含む)者たちに、「ただ在ること、ただ生きること」の痛々しさが実際にあるというリアルを、熱を持った手のひらでこちらの肌に擦込むように伝え、自分たちの「今ここ」が何処なのか――と自問させる力がある。

「わかもののリアル」が”陳腐でない"と証明してしまったら、陳腐とは無縁の筈だった数々の作品や数多の「成功者」たる人々の人生そのものはどう裏返ってしまうのだろう――そんな皮肉さえ、私は行間から受け取った気がする。

21歳の新星。芥川賞受賞、類いまれなる才能をもって作者が”いま”だからこそ描ける=描いた物語が、あらゆる年代の人々、宇宙に散らばる無数の生に、幾光年も離れた先から突然耳元で囁きかける。創作というものが著者自身でなく、「誰か」のもの、その人の物語になった時、”ほんもの”であるのなら、てらいのない「ほんもの」がここに在ると、タブレット端末の最終ページを閉じて私は思った。

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