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隠れ家

 仮に誰とも接する事なく暮らしが成り立つのであれば、大なり小なり、社会の軋轢と摩擦が芽生える余地は無くなり、それこそ、世界人類の平和が訪れるのではないだろうか、と真剣に考えていて、事ほど左様に、ストレスというものは、ヒト、対人に起因するもので、未開社会がどうであるのか、原始時代がどうであったのか知らないけれど、少なくとも現代の文明国家においては、独りになりたい時に、独りになれる場所を持っている、知っているというのは、安寧に生き抜く上での知恵であり、財産でもあって、もちろん、自室に籠るとか、朝早く職場に着くとか、相応に独りになれる環境を整えることは出来るものだけれど、それはあくまで日常の延長に過ぎなくて、心の何処かにはまだ独りになりたいと渇望するに至った要因、つまらない仕事であったり、煩わしい人間関係であったり、そういったヒト社会特有の必要悪が頭をもたげて、心身共に穏やかに過ごすことはままならない。だから、完全に日常から隔絶された、それは物理的にも、心理的にも、独りになれる楽園のような場所が、ややこしい現代を生きるヒトには必要であるはずで、その場所を見つけるという手間、努力は、決して無駄なことではなく、ここに、その成果として見つけることが出来た、お誂え向きの隠れ家がある。

 都内の、山手線の円内とだけ言っておく地下鉄の駅から、繁華街とは反対方向に歩いて十分ほどの場所、起伏の多い都内にあって、緩やかな下り坂を下った先の住宅地の中ほどに、その隠れ家はあって、周囲の住宅に溶け込むように建つ一軒の割烹料理屋であるその建築は、短いエントランスに足を踏み入れて、ようやく小さな板に奥ゆかしく記された屋号によって、そこが店であることを告白している。予約しておいた時間に石段を打つ足音がした為か、こちらが戸に手を掛けることもなく、女将が厚い木の扉を開けて、にこやかに迎えてくれた。個室だけで造られたその料理屋の二階へと招じられて、四方を温かな色合いの木目で包んだ、掘りごたつのある一室が、今日の部屋で、床の間の枯淡な器に活けられた花と、僅かに開いた窓から覗く枝垂桜の老木が、心を和ませ、余計なモノが一切置かれていない、静謐な空間が隠れ家らしさを満たしている。ここは、独り客でも個室を使わせてくれる稀有な店で、東京の文字通り真ん中に立地しながら、懐にも優しく、またもてなしとて、女将と板前さんが、客人の嗜好に合わせて、その日の旬を見繕い、心を尽くして迎えてくれる。

 休みを取って、平日の昼に訪れた為であろうか、他に訪れる者の無い静けさが心地良く、一室のみならず、店一つを貸切にしているようなもので、時折、女将が運んで来る手の込んだ料理に舌鼓を打ちながら過ごす穏やかな時間に、煩わしい日常から蘇生する悦びを感じ、酒も、遠方の地酒が色々と用意されて、その日は、新潟の「鶴齢」から始め、こちらの好みを聞いた女将の勧めで、秋田の「ゆきの美人」へと続き、椀で供された「飛竜頭ひりょうず」との相性も良く、次第に心もほぐれてゆく。二階の窓から往来が視界に入らず、ただ枝垂桜と青空が見えるばかりで、またヒトも車もほとんど通ることの無い住宅地にあるという理由で、音も無く、ヒトは、動きと音を認識することが出来なければ、時間もまた認識することが出来ないという事実に、その個室で過ごす午餐は気付かせてくれて、あたかも外界から閉ざされたその部屋が、時間を失い、奇妙に浮遊した錯覚に囚われる。次の料理(それは近海の鮪と烏賊のお造りであった)を運んで来た女将の開ける戸の音で、時間が確かに存在し、午餐の進行と並行して過ぎてゆくことを改めて知る。

 幽庵焼きという料理は、元々酒や醤油で造られた幽庵に柚子を加えたものを使うのであって、だから「柚庵」という文字を使うこともあり、仄かに香る柑橘の風味がほど良いアクセントとなって、その日の仕入れであった少し早い鰆を引き立てている。昨今は幽庵と言っても、店によっては肝心の柚子を使わず、ただのとろみ餡が魚に掛けられている味気ない造りもあると聞いて、もちろん、この店の幽庵はしっかりと柚子の香りのするもので、そのことを女将へ伝えたら、板前が悦びますと言って、女将もまた顔をほころばせていた。それでも、きっと板前さんは、特別なことをしている訳ではなくて、基本に忠実、当たり前の仕事を当たり前に、丁寧な手仕事を弛まず続けているまでで、ただ、こちらとしても、その当たり前さ、丁寧な仕事振りに、信頼を寄せ、舌を愉しませることが出来るという訳である。味が美しいと書いて、美味しいと読ませる用字には、かねてより好感を持っていて、美味しさとは芸術であり、美味しさを創造する料理人もまた芸術家ということになる。芸術の太宗は普遍にこそあって、いつ訪れようと、変わらぬ丁寧な仕事振りでもてなしてくれるこの店には、しっかりアートの精髄が宿っている。

 冬の寒日を慮って、甘味は温かい「ぜんざい」が供され、一しきりの午餐が終わりを告げて、満たされた想いで余韻に浸る。窓辺の古木に小鳥が止まって、その動きに時の流れていることを知り、それでも、女将から声を掛けることはなく、こちらから辞するまで、ゆったりとした世界のまま、隠れ家のまま過ごすことを許してくれる。その店の所在を詳らかにすることはしない。隠れ家というものは、個々人が想い想いに見つけるもので、誰かに教えられて、連れられて行くような場所ではなく、時間を掛け、足を使って、馴染みとなり、寛ぎの聖域に育ててゆくものである。相場とて、通って懐が痛まない、身の丈に合った店でなければ、付き合いを続けることは出来ないだろう。遠方に過ぎるのもまた、ふと気が向いて行ける場所ではないから、その山手線の円内という立地は、大きな魅力である。それら、数多の要件を満たした店を、幸いにして見つけることが出来たなら、それは間違いなく生涯を通じて大切にしたい財産となるだろう。人里離れた僻地でなく、都会の真ん中で隠れられるから、隠れ家は隠れ家になる。

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