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自然

 此の国から春と秋が消えて無くなり、桜が咲いたかと思えばたちまち夏日になって、秋の日の釣瓶つるべ落としを感じる間も無く木枯らしの冷たい風が吹き始める。だから空調という人工の機械に頼らずとも心地良く過ごすことが出来る季節は短く、あるいは無くなってしまったという話で、専門家ではないから、それが温暖化に原因があるのか、地磁気のせいであるのか、からくりは判らないけれども、四季折々の緩やかな移ろいを感じにくくなったことだけは確かである。だから、春風に誘われて花を愛でるとか、晩秋の渓谷に紅葉を見るとか、そういった此の国ならではの点景、旅人を惹きつけてやまない原風景が、稀少なものとなりつつあるという悲しい現実が音も無く忍び寄りつつあって、きっとそれは人智の及ぶところではなく、電気自動車に乗り換えたり、マイボトルやマイバッグを持ち歩くように心掛けたところで、四季のめりはりが復活するようには思われない。もっとも、花見だとか、紅葉狩りに始終出掛けている訳ではないのだから、そうした気候変動で不自由を感じることの一つには、店先に用意されたテラスが使いづらくなることで、カフェでもビストロでも、灼熱の炎天下に紫外線を浴びながら、ぬるい葡萄酒を呑む気にはならない。

 テラスと言えば恰好良く聞こえるけれども、東洋にも朱傘を広げた縁台なりで、酒やら茶やらを嗜む習慣もあるのだから、これは世の東西を問わずして、自然光や天然風の中で寛ぐというのは、人類共通の悦びであるとも言えて、仮に晴れた日に、もちろん、酷暑でも厳寒でもない一日に、店先のテラスが空いていたならば、迷わず選ぶことにして、前置きが長くなったけれども、その湖を望む洋食屋のテラスは、ただ腰掛けているだけで幸せな気持ちになる得難い場所だった。ここで言う湖というのは箱根の芦ノ湖のことであって、小田原からバスに揺られて一時間ほど山道を登った先に開ける元箱根の集落は、遊覧船の桟橋を中心に、土産物屋とホテルとコンビニが集まったような場所で、その湖畔、抜群の眺望が認められる一等地に、そのイタリア料理の店はある。開店して間もなくだから、他に客も無くて、岸寄りの一番良い席に座を占めて眺める芦ノ湖の景色は、気持ちの良い春風に吹かれて、まだ葡萄酒が注がれる前ではあったけれども、たちまち気持ちを極楽の境地まで運んでくれる。

 その店の一番の売りは、淡い色をした桜鱒を載せた焼き立てのピッツァであって、聞けば、芦ノ湖で獲れたワカサギを餌にして育った鱒を使っているという。独りで食べるにはオーバーサイズと思われたそのピッツァも、薦められた葡萄酒の端麗な味わいによく合うもので、湖畔のパノラマを眺めながら、自然と食欲も搔き立てられて、たちまち平らげてしまったことには我ながら驚いた。平日の午前中だったこともあって、誰もいない静かなテラスは、プライベートスペースのようにも感じられて、カベルネ種だと言う葡萄酒も進み、ぽかぽかと宙に浮いたような気持ちになって来る。食後は、水牛の乳から作られたというモッツァレラをつまみながら、また半刻を宙に浮いたまま過ごして、その頃には昼時を迎えたものだから、ペット連れの客も増え始め、ちょうど桟橋に遊覧船が着岸する様子が見えてあたかし、そのまま船に乗って「竜宮殿」へと向かうことにした。

 いくら桜鱒と葡萄酒で気持ち良くなっているからと言って、流石に竜宮城を探すほど酔っている訳ではなくて、芦ノ湖のほとりに建つ実在の御殿が竜宮殿で、元々は戦前、浜名湖近くに造られたホテルを、わざわざ箱根の山奥まで移築したもので、帝冠様式の荘厳な佇まいが、古き良き時代を感じさせてくれる。落成は昭和十三年というから、西暦に直せば一九三八年まで遡る話で、世界が最も美しかった三十年代の建築に見られる帝冠様式というのは、洋風の屋敷に破風と瓦屋根を載せた和洋折衷の工法のことで、上野の国立博物館や名古屋の愛知県庁に類例を見ることは出来て、かつて大東亜共栄圏の範疇にあったアジアの諸都市にも同様の建築が現存している。竜宮殿の雄姿は、築九十年を閲しているとは思えないほど、良く手入れが為されて、今も現役のホテルとして営まれている館内には、芦ノ湖を望む露天風呂が設けられて、宿泊客と言わず、有り難いことに誰でも利用することが出来る。

 晴天下、春の日の午後、視界を遮るものの無い温泉の湯から眺める山々と湖の景観は、絵画を愛でているような錯覚に囚われて、山の端から現れた海賊船が、ゆっくりと右から左へと横切って行き、真っ直ぐに伸びたその航跡が、一条の白い帯となって水面というキャンバスに線を引く。かつて、浜名湖ホテルと呼ばれていた頃の竜宮殿は、皇族を始めとする貴顕が好んで訪れる優良リゾートとして名を馳せて、送迎には時代がかった馬車が使われていたという。当時の面影は、今もロビーの吹き抜けであるとか、館内の各所に見ることが出来て、奈良ホテルや富士屋ホテルにも通ずる宮大工の手になる美しい意匠が、クラシックホテルとしての伝統と矜持を体現していて、実は八角形が特徴的な入浴場も、開業当初はバーとして使われていたという古い写真が残されている。

 休日、独り静かに過ごしたい時、料理屋の個室のように、四方を壁に仕切られた部屋ではなくて、むしろ青空の下、山でも海でも湖でも、絶景を眺望するテラスなり風呂なりを訪れてみることもまた、発想の転換、選択肢の一つになるもので、それと言うのも、実は開かれた空間にこそ、本来いるはずの誰かがいない、不特定多数の為に造られた施設を独りで使う、言わば無人の自然、静謐せいひつの中に開放された環境の方が、孤独であることを増幅して体感させ、密室以上の愉悦と至福をもたらしてくれるのだということを、箱根の湯に浸かりながら改めて認識したという次第である。世界が狂騒した伝染病が終息して(本当に終息したのだろうか)、どこもかしこもインバウンドのヒトだかりで混沌し、静寂を見つけることがますます難しくなった世の中ではあるけれども、幸運にして誰もいないテラスや露天風呂、すなわち自然の中の無人の世界を探し当てることが出来たなら、春と秋を喪失した此の国の稀少な過ごしやすい一日を使って、独りになる為に外に出る、そういう逆しまの発想もまた、個を生かす、正気を保つ為の自衛の手立ての一つであって、かつてアメリカの詩人エマーソンが遺した「自然」の一節が記憶の中から姿を現わし、めくるめく想いは飛翔する。

In the wilderness, I find something more dear and connate than in streets of villages.
無人の地なればこそ、ヒトの群がりし往来の只中よりも、かけがえの無い生得の価値を感じ取る。(拙訳)

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