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雨の効用

 朝、目が覚めてカーテンを開け放った時、仮に厚く垂れこめる曇天から雨粒が落ちて来るような日であったなら、きっと明るい気持ちになれる向きは少なくて、大方は雨具の用意だとか、洗濯物の心配だとか、あるいはその日の予定が思惑通りにならない、つまりは諸々の実際的な障害にばかり意識は囚われて、生産的な活力は減退し、色覚に起因する本能的な不快感がまた鬱なる気持ちを増幅させて、確かに天気予報を見ても、翌日が雨であるような日の気象予報士は、いかにも残念といったような口振りで予報をするのが常であって、理屈はともかく、感覚的にも、雨というものは不人気なものである。

 ただ、稀に、その時、そのヒトの、特別な事情に限って言えば、作物の慈雨になるとか、車を洗わずに済むとか、あるいはまた、気が進まない行事が中止になるとか、ごく個別な、属人的な理由で、雨を歓迎する向きが無いでもなくて、確かに、古代史を紐解くまでも無く、かつては雨乞いという儀式が政治上の重要な役割を占めていた。その世界から見て、日本が多雨であるのか、少雨であるのか、統計を調べた訳ではないけれども、おそらくは農耕民族であるという出自に由来して、昔から日本人は、降雨という現象に高い関心を向けていて、その国の風土や習俗は先ず言葉にこそ表れるものだから、字引を開けば、やはり雨にまつわる見出しや語彙が豊かであることに気付かされる。「長雨」も文語では「霖雨りんう」になり、急に降り出せば「驟雨しゅうう」とも「村雨むらさめ」とも、夕方ならば「白雨はくう」とも言い、あるいは「霧雨」に辺りがけむる情景を、描写的に「煙雨えんう」、また「小糠雨こぬかあめ」と書くこともある。言わば、こうした詩情豊かな表現は探せば幾らもあるもので、ここで敢えて雨の効用に着眼してみるならば、その国の文学に深みと彩りを与えたと言うことも出来るだろう。これも統計を調べた訳ではないけれど、実際、この国の言葉ほど、雨を表わすに多様な表現を有した言語も稀ではないだろうか。

 そんな他愛の無い思索を巡らせつつ、今夜も雨が降っていて、戸外に落ちる滴の音に耳を傾けながら、夕餉ゆうげを終え、なお手酌を重ねて、小田原のおでん屋で覚えた「黒兜」の吟醸に酔わされて、久留米の産というその酒は、焼酎の黒麹で仕込んだ不思議な酒で、肴のさっぱりとした冷奴とも相性が良くて、口に含んで丸く滑らか、甘さを感じてとろりと喉の奥へと消えてゆく良く出来た酒である。豆腐と杯と、そのたゆまざる往復と反復、流れるように干してまた注ぐ所作を繰り返すことが自然に出来る、つまりは飽きの来ない酒で、呑み始めてどれほど時間が経ったのか、動きの無い部屋の中で、ただ酒と差し向かいに呑み続け、その果てしない吟醸の海に身を委ねていると、時間はもとより、部屋の外に世界がまだあるのかどうかも意識の内から消えてゆき、やがて漆黒の宇宙に部屋が浮かんでいるような錯覚に囚われる。ふと、杯を上げる手を止めてみると、改めて雨音に気付く瞬間、聴覚が戻る刹那せつながあって、その均等に天から降りしきる音のリズムに秒針のリズムが重なり、「シトシト」が「チクタク」になり、やがて雨音が続く限り時間がそこにあるのだという認識を新たにする。雨を置いて音のするものは何も無く、手酌を置いて動くものが何も無い空間の中で、水のように純なる液体となった酒という名の流動体は、良い意味で味覚をいたずらに刺激することなく、身体へと従順に同化してこれに溶け込み、意識を邪魔立てする場違いな要素の無い環境が、極楽浄土のようにも感じられる。もっとも、極楽へ行ったことなど無いけれど。

 思考は飛躍して時間を遡り、時計の針を巻き戻して、その小田原を訪ねた日の夜のこと、おでん屋といっても屋台ではなくて、大きな小田原提灯が照らす門扉をくぐる、古民家のような風情の造りが心持ち温かくなる店構えの割烹で、カウンターへと招じられて店主と相対し、その日のお勧めというたねは、当地ならではの新鮮な魚介を使った練り物で、一揃い頼んで出された酒が、正しく「黒兜」の吟醸だった。小田原おでんの味わいは、淡白である。原料の魚から滲み出る出汁だしだけで味を創り、醤油だの何だのといった添加は一切行わずに、ただ自然の恵みだけで組み立てられた味である。とと揚げに白はんぺん、また地鯵じあじで練られた竹輪など、どれも良く出汁の染み込んだ優しい味わい、ほのかに鼻先を抜ける海の香りが酒の麹香こうじかと相まって、何とも肩の力が抜ける滋味。店主の語る街おこしの話なども益々気分を上げてくれる店であって、東京からわざわざ暖簾のれんをくぐりに来る客も珍しくないという。想えば、その小田原の夜も小雨の降る日で、カウンターで聞いた雨音が意識を今宵の晩酌の空間へと不意に引き戻して、やはり同じように規則的なリズムがまた再開する。

 閑話休題。嫌われ者の雨がもたらす効用を強いて挙げるとするならば、実は酒呑みに時間の流れ、その時が経つという自然の法則を教えることにあるのであって、視界に動きの無い一室で、その単調な音の繰り返しが、確実に時間がそこに在る、呑み始めた先ほどが過去で、杯を空けるこれからが未来であることを、粛々と知らせることに、雨の務めはあるのではないだろうか。だから、その雨の日に酒を呑み、雨音に意識が回らなくなったら、それはもう、いよいよ呑み過ぎたということである。黒兜の夜は、ただ滴の音色と共に更けてゆく。

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