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読書日記:待鳥聡史/宇野重規 編『社会のなかのコモンズ 公共性をこえて』

個人のブログは既にあるので運用方針未だに迷ってるんですが、とりあえずだましだましやっていきます。

『社会のなかのコモンズ』は政治学の本。大学を卒業して5年以上経つので、最近の潮流とかちゃんとおさえておかないとと思って色々読んだなかの一つ。

コモンズの援用

「コモンズ」という概念は、日本だと民法を学ぶ中では共有地や入会権として、社会学や公共政策論では公共財の文脈で触れられる。有名なのは後者におけるギャレット・ハーディンの唱えた「共有地の悲劇」の話だろう。彼は「オープンアクセスの場にある有限の資源が誰にも管理せずに利用されると枯渇してしまう可能性がある」と指摘し、大きな論争を巻き起こした(ちなみに、ハーディンは政治学/社会学者でなく生物学者だ)。
彼はその例として村の共有地で放牧される牛が牧草を食べ尽くす事例を挙げた。そのような事態を避ける意味もあって、コモンズは農民などそこに所属するメンバーによって一定の共同管理が伴うものとなる。つまり、「コモンズ」とは「特定集団が共同管理する場」のことであり、「そこを共同管理する特定集団」「場に紐づいた資源管理・配分」の問題がセットになってくっついてくるものである。
これはざっくりとした説明だが、本書の場合その辺りの定義の話はあまりしすぎても意味がない。なぜなら、この本はコモンズ概念を援用することで社会のなかにある諸問題を解決する糸口を探ろうと試みるものだからだ。

全体構成

本書は3部8章構成で、8人の寄稿者がそれぞれ全く異なる切り口で論を寄稿している。

第一部は「歴史のなかのコモンズ」で、宇野重規がイギリスの源流から現代の議論までの歴史的経緯を、刈部直が近代日本にあった紛争の実例の流れを主題にしているという違いはあるが、どちらもコモンズ/共有地に関する議論の土台となる歴史的経緯をコンパクトにまとめている。

第二部の「空間のなかのコモンズ」では、コモンズの概念を現代社会における土地の問題に援用して整理しようとする。これらは全て「土地」に紐づいた社会資本や社会政策の在り方に関する話題だ。
たとえば、江頭進は、小樽市を実例として、地方都市の衰退を食い止める手段としてコモンズとしての商店街の持つ役割を探り、その中で構成人員のSNS関係を可視化して分析する。
砂原庸介は、日本の公共住宅の利用者が限られてしまうことやいまの公共住宅はコモンズとみなした場合に機能不全に陥っていることを指摘し、その原因が70年代の政策にあったこと・そして代替案としてあり得たかもしれない住宅政策の可能性は何だったかを検討する。
田所昌幸はカナダの保留地を論じている。カナダの保留地はカナダ先住民の人々が権利を持つが、そこに住む先住民の所得水準・失業率・教育水準・生活水準・平均寿命・自殺率はカナダ全体の平均に比べて著しく悪い。彼らに対する社会政策は確実に必要なのだが、そもそもとして保留地にまつわる政策は先住民に対して「白人社会への同化」と「白人社会からの保護」の両方を同時に行うという矛盾を抱えているため、制作決定そのものに多くの苦難が成立していることを指摘する。

そして最後の「制度のなかのコモンズ」は、「土地」という概念を超えた概念の援用で、更なる広範な思索を試みている。
主編者の一人である待鳥聡史は政党をコモンズとして捉え直すことを検討している。これまで日本の政党は経済的利益の配分機能が主に論じられ、重視されてきたが、現代ではその限界に直面している。そのため、氏は触れられてこなかった情報集約やリクルートメント機能に再度着目して、アメリカのような有権者の社会参加を促す場としての、「コモンズとしての政党」の可能性を提示する。
鈴木一人は「領域から切り離されたコモンズ」=脱領域的コモンズとして宇宙空間とサイバースペースを挙げ、それらが直面する問題と可能性を丁寧に整理する。それらは国家主権による管理が難しいため、参加者間(それは国家に限らない)のガバナンス形成が重視される。
谷口功一は、デンマークで「ムスリムが食べられない豚肉のミートボールを給食で義務化する」というミートボール戦争を元に、欧州=キリスト教が政教分離を経つつ構築してきた立憲主義が、教義の中に「世俗国家」どころか「政教分離」の概念も希薄なイスラム文化との多文化主義共存に置いて大きな苦難に直面している現実を、コンパクトに整理する。

補完概念としてのコモンズ

注意したいのは、「制度としてのコモンズ」の段階では原義としての「コモンズ」から既に飛び越えているということだ。コモンズは本来「具体的な土地/管理対象」に紐付いた概念なので、それを伴わない場合は概念の模索を多分に含んでいる。本書の中にはコモンズを持ち出さなくともガバナンスの文脈で整理できる議論もある。
それでもそれらに違和感を全然覚えなかったのは、寄稿した研究者たちの慎重さと誠実さの現れでもある。「コモンズ」という概念を思索に用いつつも、それが決して何でも解決してくれる無敵の概念のようには扱わない。その意味で、本書の中で一番印象に残ったのは、コモンズの「資本主義を補完する役割」を強調していたことだ。コモンズによる資源管理は私的所有権と相反するものであり、その側面を強調しすぎると、市場経済や私的所有権の否定に繋がる。だけれど、その側面を重視しすぎると、かつての共産主義や全体主義がたどった失敗を再度繰り返すだけである。あくまで資本主義の抱える矛盾を自生的秩序で「補完」するものとして、本書の試みがある点は見誤らないようにしたい。

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