見出し画像

「労働を喜ぶ」人でありたい。

新しい年度を迎え、これから新生活をスタートする方も多いことでしょう。

今回のテーマは、主題の通り、「労働」。
なお、当記事も4,000文字と、いつものように長めになっておりますのでご了承ください。


産業革命は「労働の喜び」を奪った

先日、千葉県立美術館で開催されていた《ウィリアム・モリス》の『アーツ・アンド・クラフツとデザイン』展を観覧してきました。

デザイナーである《ウィリアム・モリス》が提唱した『アーツ・アンド・クラフツ運動』は、産業革命の結果、大量生産の品が溢れ、安価だが粗悪なものが世の中に多く出回ったことに対する、カウンターカルチャー的なデザイン運動で、いわゆる中世の手仕事的な職人の技を再評価するものでもありました。

翻って、今日の日本の労働者の状況はどうでしょうか。

SNS上では、月曜日になると、多くの日本人は「憂鬱」というつぶやきであふれ、そういった投稿に多くの賛意が寄せられる有様です。

Ⓒ芳文社

はっきりいって、「労働者の喜び」とは程遠い状況と言えるのではないでしょうか。

映画『モダン・タイムス』で《チャップリン》が鋭く風刺したように、資本主義によって現代は、労働者の個人の尊厳は失われ、機械の歯車の一部のように成り下がっているのが実情ではないでしょうか。

私自身もそういった現代の「会社組織」の在り方に疑問を覚え、個人事業主として生計を立てておりますが、資産は少なくとも、「労働に対する喜び」を持ちつつ毎日を過ごせていることには有難さも感じています。

労働者の地位が著しく低い日本。

本来、"労使"とは対等の関係であるべきだと思います。

ところが、日本では「お金を払っている側」、つまり「経営者」の方が偉い、という傾向が支持されがちです。

「雇用」を生み出しているのだから偉い、という主張ですが、労働者だって「労働力」を生み出しているわけで。
そもそも、労働者がいなければ会社の経営は成り立ちません。

労働者の権利がいつまでも低い日本は、海外に比べて賃金も上がらず、まともに有給休暇や育休も取れません。
労働組合も機能せず、会社との交渉にすらたどり着けない。

「デモ」や「ストライキ」は、本来労働者に与えられた当然の権利なはずなのですが、それを行使しようとすると、なぜか「わがまま」と取られる。
これも日本の良くない風潮だと思います。

いずれにしても、「お金を払っている方が偉い」という意識が改まらない限り、日本の労働環境は決して良くならない、と私は断言しておきます。

また、日本は海外に比べて「失業率が低い」とよく言われるのですが、これは実は「条件の不利な職場でも仕方なく働いている」という人が多いこととも言えます。

新卒一括採用や終身雇用(近年は減りつつありますが)といった日本独自ルールの存在も、「はじめの定着率」だけは良いことで、表面的には失業率が低く算定される「からくり」があります。

また日本社会は同調圧力が強く、「他人の目を気にする」性質があるので、「働いていない」という負い目を感じやすく、少々ブラックな現場でも就職してしまう状況が多分に見受けられます。

海外では、自分の条件に合った職場をじっくりと見極める傾向が強いので、それが労使関係の均衡に繋がっているともいえます。

近年はネット上やテレビ番組などで「日本のここがすごい!」のような礼賛番組を見受けますが、一方で日本は先進国中でも自殺者や精神疾患を患う方の比率が非常に高い。

個人の問題に帰結されてしまいがちですが、何十年もこうした傾向が続いており、これは社会構造の問題です。
労働者の地位向上を目指していかないと、こうした傾向は無くならないのではないかと思ってしまいます。

飲食店に入ると「タダでお水が出てくる」サービスは優れているのか?

日本では「お金を払っている側」という意味では、労働者よりも消費者の方が偉いという傾向が強いです。

「お客様は神様」というフレーズが示すように、日本では海外に比べると消費者に対するサービスが過剰なように思えます。

しかし本来、「サービス」には対価が伴います。
ところが、日本では「サービス残業」という言葉もあるように、サービスを無料で享受できる場面が多い。

例えば飲食店に入ると、椅子に座ったら無料でお水が出てくる。
これを「有難い」と思っている日本人は多いのかもしれませんが、私はちょっと余計なサービスだと思ってしまいます。

「消費者」の立場からすれば良いのかもしれませんが、「労働者」の立場に立っていただきたい。
自分が、様々なサービスを「対価」なしに提供している。
結果的に、日本は海外に比べて賃金が上がらない本質的な理由にもなっていると思います。
(海外では、サービスを提供すればチップをもらうのが通例です)

「労働の喜び」は、「対価」が伴ってはじめて得られるものだと、私は思います。
(対価が無ければ、それはただのボランティアです)

日本ではレジ袋有料化の際は消費者の不満が高まりましたが、本来、レジ袋は「店舗がお金を払って仕入れているもの」です。
それを「店側が無料でサービスするのが当たり前」というのは、あまりにも消費者側に寄りすぎではないでしょうか。

SNS上での口コミなどを含め、消費者側による企業への無茶な要求が日本では海外に比べると通りやすい背景には、やはり「お金を払っている側が偉い」という心理が多分にあるように思います。

「お金」ではない、「自分だけの軸」を持つ

これからの時代、「お金」中心ではない「軸」を持つことが日本社会には必要だと思いますし、表面的ではない「ものごとの本質的な価値」を見極める力がますます重要になっていくと思っています。

「売れている作品」とか「みんなが称賛する商品」といったものに一喜一憂しがちな今の世の中で、私は一貫して「自分が良いと思ったもの」にこだわって生きてきました。

冒頭で紹介した『アーツ・アンド・クラフツ運動』にも影響を受けた、日本の民藝運動の創始者、《柳宗悦》。

彼は、それまで日本国内では見向きもされなかった朝鮮陶磁器の美しさに魅了され、無名の職人が作った民衆の日常的な作品を収集し、独自の審美眼を磨きつつ、そうした工芸品の再評価を行いました。

アニメやゲームなどのサブカルチャー作品においても、「誰が監督を務めた」とか「どこのブランドが制作した」ということが重視されがちな風潮がありますが、《柳宗悦》のように、もっと「作品そのもの」をしっかりと見つめていきたいし、実際に触れてみることで自分なりの魅力を見出していきたいと思っています。

「娯楽が発達している」ことの裏返し

日本は、海外に比べると、「エンタメ」が異様に発達しているとも言えます。
アニメやゲーム・漫画といったサブカル作品のみならず、幅広いジャンルのエンタメが日本に存在するわけで。
例えば「外食」もその一つで、日本では飲食店の数が多く、競争も激しいため、比較的手ごろな値段で、外食をすることができます。

(※「外食」をエンタメということに違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、日本の食料廃棄率の高さを見ると、残念ながらそうした傾向が見えてきてしまいます)

しかし、海外では「家族や親しい人たちと家で会食する」という機会が多い。
外食は「特別な時」にするので、そこまで需要は多くない。

外食に限らず、日本では様々な「娯楽」が存在し、多くの人々がそういったものに熱中しています。
しかし、それは裏を返せば、日常が充実していないことの証左でもあります。

海外では、労働時間が日本よりも短く、仕事もそこまで辛いものではないので、「ストレス発散の手段」としての娯楽は、日本よりも少ないともいえると思うのです。

私は、基本的にお酒を飲まない人間なのですが、日本では「お酒」が「飲んで辛いことを忘れる」という、労働の辛さを紛らわせるための手段になっていることをずっと疑問に思っていました。

それでは、「お酒」が可哀想です。
「お酒」は美味しいから飲むべきであって、「辛いから」飲むというのは、お酒にとっても、造り酒屋にとっても失礼なように思います。

日本では、「臭い物に蓋をする」という諺があるように、辛いことや都合の悪いことにしっかりと向き合わず、先送りしてしまう体質があります。
しかし、本来は「労働する喜び」を充実させることが、日本社会のやるべきことだと思うのです。

"対症療法"である「エンタメ」ばかりが発達し、根本的な治療が必要な労働問題にずっと目を向けずにここまで来た。
私は、そのような日本社会にずっと疑問を持ってきたので、「会社員」ではなく、個人事業主として、「労働に喜び」を見出すためにずっと人生を模索してきました。

北欧諸国では、日本ほどモノや娯楽に溢れてはいませんが、「家族と過ごす時間」や「自然と向き合う時間」が長く、幸福度も高い。

近年の日本社会を見ていると、「コスパ」ばかりを追求し、精神的にも余裕がない人が多く、日常でも閉塞感を感じている人が多いような気がします。

「労働」を"生きるための手段"とだけ考えるのではなく、「人生の喜び」として働く人が、ひとりでも多くあってほしいと願いつつ。

今日も私は感謝しつつ労働に勤しんでおります。

さいごに:「お金のために我々があるのではない」

冒頭で紹介した《ウィリアム・モリス》や《チャップリン》は、社会主義者とみなされ、アメリカでは冷遇されたこともありましたが、彼らは「私たちが本当の意味で豊かになるには、何が必要か」ということを日々考えていました。

「資本主義」か「社会主義」か、という、二者択一の単純な議論に収束しがちな現代ですが。

《イエス・キリスト》は、かたくなに旧来の律法に固執する学者に対して『安息日のために私たちがあるのではない』と説きましたが。
彼の言葉に少しヒントを得て、私はこう宣言したいと思うのです。

「"お金のために"我々があるのではない、我々が豊かになるためにお金があるべきである

ヒューマニズムを問い続け、《ヒトラー》の『我が闘争』に対する返答として『戦う操縦士』を執筆した《アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ》はこう記しました。

「かんじんなことは、目に見えない」

『星の王子さま』

ものごとの本質は、「お金」のような表面的なものではなく、心で良く見なくてはいけない。

「お金を払っている方が偉い」という風潮は、結局のところ、「本当に大切なもの」が目に見えない人たちが作り出した価値観なのではないかと、私は思うのです。

「労働を喜ぶ」という生き方というのは、私たちの意識ひとつで実現できることだと私は本気で信じています。

「生きる意味」や「生きる喜び」を見出しづらい現代で、我々が目指すべきは、やはり「労働」というものの価値を、ほんとうの意味で再興させることにあるのではないか、と思ったりしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?