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ペナルティーは誰のためのもの

小学校高学年の頃、掃除の前に机の上に椅子が上げられていない生徒は教室外に机を出されるルールがあった。

うっかりして椅子を上げ忘れた生徒たちは皆、教室の外に出された自分の机に気付いて、焦って担任の教師に頭を下げた。

「椅子を上げ忘れてしまいました。すみませんでした。これからは気をつけるので、教室の中に戻してください」

それが教室の中に戻るための呪文のように繰り返される日々だった。

ある日、私もやらかした。椅子を上げ忘れて教室の外に机を出されたのだ。

やらかしたが、実はこの時、私はとある事情で隣の席の男子を生理的に嫌っていて、とてもとても距離をおきたい気持ちでいっぱいだったので、そこでしばらく考えて、そのまま席についた。そんな事をしたのは後にも先にも私だけだ。

一応窓を開けさえすれば黒板が見えて授業は聞けるし、本当の所、教科書の内容をなぞるだけの授業は聞いても聞かなくても困らない。勉強するなら教科書で十分なのに、何故教師が必要なのか疑問だった。授業が楽しくなるような工夫がある訳でもなければ、教えるのが上手い訳でもない。

と言う訳で、私は教室の外(廊下)での学校生活を始めた。これは担任の教師には想定外だったらしい。

何故戻らないのかと何度もクラスメイトに尋ねられたが、「このままでも困ってないから。ここは元の席より快適だから気にしないで」と答えた。

一人が大好きな私には、誰もいない廊下はストレスフリー。何故、好き好んで集団の中に入って行かなきゃいけないんだ、疲れる。

私が廊下にある机に腰を落ち着けそうになった時、担任の教師の主導で学級会が開かれた。議題は、どうしたら私が教室に戻ってくるのか、だった。

いやいや、そちらが追い出しといて戻ってこいって凄い矛盾してない? 私は大人しく皆のルールに従っていて何も問題無いでしょう。好きでここにいるんだからほっといてよ。

元々この時の担任の教師はどこかおかしかった。

宿題を忘れたらゲンコツ、遅刻したらグリグリ、揉め事を起こせば辞書で殴り、生徒が考えた下品な罰も採用された。自身も体罰を楽しげに行う上、クラスメイト同士がルールで縛り合い、傷つけ合う事を、自浄作用か自主自律の一貫であるかのように笑顔で見守っていた。

生徒達の生活には沢山のペナルティーが課せられた。当時既に都会では体罰が問題視され始めていたが、かろうじて日本と呼べるような端っこの中の隅の田舎では話題にも上らない。体罰容認派どころか推進派のペナルティー大好き暴力教師。

私が田舎は子どもも大人もモラルが崩壊していると思う理由の一つだ。文化の中心地に近ければ教師を監視する目も厳しいだろうが、監視の目がほとんど無い田舎の学校では見逃されてしまうのだ。生徒の親達も、そのほとんどが学校教育に関心が無い。だから良くならない。田舎の教育問題は根深い。

あの人(担任)の狂気を感じ取っていたのは私だけだったのだろうか? 本当に?

私を教室に戻すための学級会では、女子達がいかにも真面目な発言をしていた。

「椅子を上げ忘れたのが悪いのだから、先生に謝って教室に戻ってくるべきだ」

その言葉を受けて貴方はどう思う?と担任の教師に問われ、「何で教室に戻らなければいけないんですか? 教室は嫌です」と返した。

好んで戻るような場所か? そこは。

「窓をずっと開けておくのが嫌だ」と発言した窓際の生徒がいた。

「なら閉めていい」と返した。

「授業が受けられないでしょう?」と担任に言われ、「別に困りません」と返した。どうせ有っても無くても同じ授業だし。と言うと、教師の嗜虐心に火をつけそうだと思って控えた。

「本人がそこが良いと言ってるなら、ほっとけば?」

というまことに興味無さそうな男子の意見に、うんうん、と心の中で頷いた。

しかし担任は首を縦に振らなかった。今考えると多分、如何に暴力教師だろうと憲法が規定する教育を受ける権利(受けさせる義務)に抵触するのはヤバいと思っていたのだろう。しかも教室から追い出した理由は担任のマイルールだ。厳しすぎると校長や教頭辺りから圧力があったのかもしれない。

何が何でも私に謝罪させてさっさと教室に戻ってほしい担任と、何が何でも謝罪などしたくないし教室にも戻りたくない私の静かな意地の張り合いだった。

結局最後には謝罪はしなくて良いから教室に戻りなさいと脅しに近い命令が下りた。すごく嫌ーな顔で机を運んだのを覚えている。

教育の在り方について、生まれて初めて考えたのがこの時期だった。何でもかんでも罰で脅して押さえつけようとする教育は間違っている。理由はよく分からないけど、間違っていることだけは確信できる。

大人になった今なら分かる。ペナルティーで子どもを縛ろうとするのは、それが大人にとって一番楽だからだ。ペナルティーの中でも体罰を使えば、子どもの心には非常に悪影響だが行動は大人にとって好ましい物にすぐに変わる。だから大人が依存しやすい。中毒性があると言ってもいい。目に見えない「悪影響が及ぶ子どもの心」など、自分のために気にしない。子どものためと言う名目の、身勝手な大人が自分のために子供に科すペナルティーだ。

子どもがただちに行動を変えなければ命の危険がある場合を別にして、選ぶべきでない手だ。

ペナルティーは心の教育を放り出した手抜き教育なのよね、と思う一方、自分も子ども相手に結構使ってしまってることに愕然とする。体罰はしないが、お片付けしておやつ食べよう、と言っても動かない子どもを見ては、お片付けしないとおやつ食べられないよー!などと言ってしまう。子供は焦って片付けを始めるのでとても楽だ。これがダメな大人の例だ。

ペナルティー(罰)を使った教育は、子どもが成長するにあたって最重要とも言える大人との信頼関係を台無しにするのが一番の問題だと思う。

中学時代、私は塾の先生を信頼していた。教育に対する姿勢が真摯で熱心な人で、尊敬できた。その先生は暴力を振るったりしない。他人に迷惑をかける子や寝てばかりの子には、たまにだがチョークが的確に飛んで行った。塾の教室の壁は落書きだらけで(多くは塾の先生をからかう言葉)、5分休憩しよう、と先生が言うとワー!!と子ども達のはしゃぐ声が教室にこだました。最初はそのカオスっぷりにビックリしたが、先生自身はとても真面目で、常に生徒一人ひとりに興味関心を持って接していた。教え方も巧い先生ではあったけど、子どものオンオフのスイッチを切り替えさせるのも上手く、思春期特有のストレスにも理解のある先生だった。多分根っからの子供好きだったんだろうと思う。

宿題をして来なかったからと言ってペナルティーもなかった(しかし、この塾の宿題である先生の手作り問題は解くのがとても楽しく、大のサボリン坊で面倒臭がり屋の私でも忘れる事はあまり無かった)。子どもそれぞれの力を信じて励まし続ける先生だった。

この先生の子供の力を諦めない姿勢こそが子どもの成長に必要な大人の姿勢なのだと理解しているつもりだが、実際子どもを育てる立場になるとそう上手くいかない。

何しろ子供は同じ失敗を繰り返す。一度言ったら同じ間違いをするな、同じことを何度も言わせるな、忘れやすいならメモしとけ、と言うのはあくまで大人の世界でのお話だ。子どもには子どもの世界があるし、実は失敗経験が少ない子供は失敗を恐れ失敗に弱い(周囲に迷惑をかける)大人になる。

失敗が多い子ほど、強くて間違いの少ない大人になるのは確かなのに、失敗を叱責して罰を科して、子どもの失敗を減らす方向に向かわせるのは大人側の失敗だ。失敗を通り越してただの子供への迷惑行為だ。

宿題を忘れようが、遅刻しようが、大人の正しい対応は子どもの力を信じて「見守る」事だと思う。それで自然と痛い目に遭うのがその子に必要な勉強だ。ペナルティーで痛い目に遭っても、子どもは理不尽に思うだけで全く反省しない(私がそう)。子どもが自分自身で考えて気付く機会をペナルティーによって奪うべきではない。

学校教育では、義務教育やら責任の関係で生徒を放っておくことは難しいのかもしれない。それで責められるよりは、子供達をペナルティーでがんじがらめに縛った方が、クラスの統率が取れる上、子ども達の内面がどれだけ踏み荒らされ酷い状態になろうが外部からは見えないから、とりあえず担任の教師の体面は保たれる訳だ。

担任の担任による担任のためのペナルティーに支配され抑圧された一年間の後、私たちのクラスは(一学年1クラスのため)進級と共に学級崩壊に近い状態になった。クラス内での暴力沙汰、性的嫌がらせ、いじめなど、各種問題が一気に噴き出し、手の付けられない学年と言われた。

私達が一番荒れたのはあの時期だったと思うし、あの荒れ具合に一役も二役も買っていたのが前年の担任教師だったと思う。

子どもを荒れた子に育てたいのなら、大人に都合の良いペナルティーをどんどん作って子どもを抑圧すれば良い。いつか自然に爆発する。

子どもを穏やかで自分で物事を考える子に育てたいなら、信頼関係を築く努力をすべきだ。そのためには大人がまず、子供一人ひとりの力を強く信じ続けるのだ。何もせずほったらかし(公園で、スマホゲームに夢中で子どもを全然見てないお父さんをよく見かけるけど、これはただのネグレクト)ではなく、信じて見守る。きちんと、こまめに見る。まず大人が子どもを信頼して尊重する。その手本無くして、子どもがどう大人を信頼して尊敬すると言うのだろう。

でも、ロジックとしては単純だけど忙しさに追われる中では難しいんだよね…子どもを信じて尊重する事。私もまだまだ大人として未熟です。

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