生きがいと死にがいと朝井リョウ

ぼくは生きがいを求めていた。

でもそれは死にがいを求めているということだった。

初めて死ぬということを意識したのは、5歳くらいでひいおじいちゃんが無くなった時だった。なぜか泣いた。思い出もどれくらいあっただろう。多分みんなが泣くから泣いた。そして死を始めて間近で見た。

その次に強く感じたのは多分、東日本大震災。一万数千人という人が無くなって、それでも大きく変わらない自分の日常に気が付く。

それまでの間にもちろんありを踏んじゃったり、買っていたカブトムシが死んじゃったりして悲しかったが、その意味みたいなことは考えなかった。

その次は中学の先生が亡くなった時。在学中にベテランの先生が亡くなって、影響力のある人だったそうでそれはそれは大規模なお葬式だった。たくさんの教え子に見送られる最期という形もあることを知り、どう生きるか考えさせられた。

父方の曾祖母が数年前に亡くなり、それでも私の生活には大した変化を及ぼさなかった。それから最近母方の曽祖父が亡くなり、もう何年もあっていなかった人だったので泣くのも違う気がして泣けず、また火葬や埋葬以外は自分たちで読経をしたりした親戚の様子をみて、死に際して祈りをささげる本来の葬儀の形?のようなものを目にした。祈りとしての葬儀の美しさを感じた。大切なことは盛大にお金をかけることよりも、送る人が納得のいく形で送ることであると学んだ。おくった先についてはわからない。

20年弱生きて、死を感じたのはざっとこれくらい。あまり表立って言えないが、当事者としてよりも一歩引いたところから死について考えさせられることが多かったように思う。

同時にやはり終わりがあるものだと強く感じさせられるのはそうで、その中でどう生きるかがすごく大切だと感じさせられた。でもそれは死にがいや命にコスパのようなものを求めるということにだんだんとつながっていっていたと気づかされた。

先に断ると、何が良いかはあなた次第であるということ。どちらかを進めることではない。また毛頭死を促すつもりなどない。

どういうことかと言えば、今まではやっぱり本の著者欄のようにいろんな経歴がある人がかっこいい人に見えたし、漫画で描かれるような偉人たちのように非日常的な出来事の中で力を発揮する人物になりたかった。そうすることで濃密な人生を送って納得して生きれたら(/死ねたら)いいなと思っていた。

でも朝井リョウの小説を読んで気付かされた。それって死にがいを求めて生きていることでもあるということに。生きる意味を求めすぎることは、一方で死に急ぐ側面があるように確かに思う。常に何かをしなきゃ、誰かのためにいきなきゃとせかされる日々の中で、素朴に自分が楽しいことをしたり、一見意味がないようなことに時間を割く意味を見失う。それは非常に短絡的で、偏っているということを忘れる。先日、友人と日本民芸館に行って焼き物を見た。そこで話したのは、古代の焼き物の柄の抽象度の高さだった。現代に近づけば近づくほど何かが何となくでもわかる具体的な柄や絵が記される一方、古代は一見何かわからない。それでもどちらも価値あるものとして展示されるのは、わからないことに価値を無しとしないということでもあると思う。何千年も前にそれをわざわざ記す意味なんて当時はなかったかもしれない。それはもちろん呪術などに使ったかもしれないが、そうではない単なる装飾としてだって存在してよかろう。結果としてその時代に身近な植物がわかったりするのだからどうなるかはわからない。

息の長いことだと思う。果てしない事でもあると思う。もちろんしっかりと意味を求めて、初めから目的を持って取り組むことは大切なのはそうだ。でも同時に何の意味があるかわからないことにだってそれと同じくらいの価値があろう。多分何にもならないかもしれない。でも今なら、それでいいんじゃないかと思える。そしてこれからもそうありたい。


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