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「書くこと」は、意見をこの世界のどこかに置く行為だ。

媒体によって、書くことが変わる。

むしろ、その方がいいと思うのだ。

いつでもどこでもパソコンやスマホがあれば投稿ができる。原稿を書ける。

いい時代に生まれたと感動すらする。

ちなみに、個人的なことになって恐縮だが、
私の「書くこと」の原点はTwitterにある。

大学生の頃、実名のアカウントで知り合いとコミュニケーションを取ることに飽き足らず、
誰も自分の知らない場所に逃げ込みたかったのだ。

そこで、今の自分からみた世の中の視点、理不尽、思うことなどを毎日発信していた。

発信内容は、大分尖っていたように思う。

今思い返すと、恥ずかしくて顔から火が吹き出しそうになるが、つぶやき続けた日々があったからこそ、今のクリエイター・えのもとがいると思っている。

そう、最初は個人的な駄文をこの世界の誰かに伝えたくて発信しまくった。

でも、今は。

一人の「創作者」として、
記事を書いている。
エッセイを書いている。

エッセイを書き続けると不思議なもので、
「身近にあるもの、出来事を観察する」ようになる。

普段なら見過ごしていたことでも、
なぜ?どんな効果が?本心は何だろう?
と考える癖がついたのだ。

人によっては、大人しくしてなさい!と子供をなだめるように叱るだろう。大人になれ、と。

しかし、現代社会においての大人は
特に日本においては、反抗もしない、
従順なサラリーマンに見えてならない。

こう思うのも、まだ観察不足なのか?と思うのだが、うっすらと感じている人もいるかと思う。

意見を持つけれど、外に発信しない、
発言しない。

その「意見」は自分の内側に存在しているだけだ。
それは、自分の肉体が朽ちた時に消えてしまう。

だが、ネット上で書き込む、
本を書く、ブログを書く、
SNSでつぶやく。
または紙の本を出版する。メモを残す。

これらはすべて、
自分の肉体の中にあったものが外に出ていって、誰かに発見され、読まれる可能性を作りだす行為だ。

知らなければ、その意見は誰も知らない。

しかし、一旦見つけられて、読まれたら、
その意見は顔も知らない誰かに伝わるのだ。

ひとりの意見なんて、本当は誰かにとって価値はないのかもしれない。

その「意見」がなくたって、誰かの生活は成り立つ。

それでも、この世のどこかに
メッセージを置きたくて、私はエッセイを書く。
日記を書く。

発信した「意見」が誰かに届いて、
発見があったなら、心が救われたなら。
感謝されたなら。

創作者としてこれ以上の喜びはないと感じる。

「書くこと」は、意見をこの世界のどこかに置く行為だ。

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