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旅から帰還したネコと小学生の私

子どもの頃、実家でトラという呼び名のオス猫を飼っていました。名前の通りのトラ猫の彼は、本名がはっきり決まっていない子で、私も含めて家族はトラ次郎だとか、いやトラ吉だよとか好きなように言っていましたが、今考えても、なぜ1つの名前に絞っていなかったのか不思議です。
そんなトラが、2才くらいになって旅に出たことがありました。
母から度々、「オス猫はね~旅に出るから」と聞いてはいましたが、半信半疑でした。
しかし、急にその日がやってきます。
ある日、トラは外に遊びに出掛けたまま、次の日の朝になっても帰ってくる気配がありません。
もちろん、自宅の周りを探してみましたが、見つけることはできませんでした。
トラが出掛けたまま、1日、2日と過ぎて「トラ、いた?」「いない」という会話から、1週間が経ったころ「やっぱり旅に出たんだね」という話が家族の間で出始めました。
「いつ帰ってくるんだろう?」
「そのうち帰ってくると思うけど、いつになるかは分からない」
トラに会えるのは、半年後?1年後?もっと長く旅に出たのだろうか。
そんなことを考えながらも、普段通りの生活を送って待つしかありませんでした。

トラが旅に出て3週間ほど経ったころです。
当時、家から小学校まで距離があったため、私はバス通学をしていましたが、その日は帰りのバスがくるまでだいぶ時間があったので、同級生の女の子と校舎の前でおしゃべりをしていました。
ふと6、7メートルほど離れた学校の敷地内の花壇兼菜園のような畑の前を見ると、猫が1匹、座っているのを目にしたのです。
「トラ!」
いつの間にか、その猫の方に走り出していました。
遠目からでもトラ柄であることが分かったからです。
こんなに走ってトラは驚いて逃げないかな?バスじゃ連れて帰れないから、お母さんに車で迎えに来てもらおうか。公衆電話でお母さんに電話したら、来てくれるかな?
私が小学生のころは、昭和から平成に代わるくらいの時代でしたから、携帯電話の類いは一般的ではありませんでした。
電話してる間にトラどこかに行っちゃわないかな?トラを抱っこしながらお母さんに電話できるかな?と、走っている短い間に実に色んなことを考えていたのを覚えています。

こんな遠くまで…私の匂いを辿って来たのかな?などとも思いました。当時の自宅から小学校までは5、6キロほどの距離があります。
息を切らしてトラの3メートルほどまで近付いた時に、私はあることに気がつきました。
「トラじゃない…」
その猫は、我が家のトラではありませんでした。
トラよりも丸みを帯びた顔と身体で、落ち着いた様子のその猫は、首輪などはしていませんでしたが、たぶん学校の近所の飼い猫だったのでしょう。
その時、何となくトラはもう戻ってこないのではないかと思いました。
トラは小学校よりもっと遠い場所に、移動してしまったのかもしれない。顔が可愛いから、別の家で拾われて飼われたのかもしれない。そうしたら、もう探すのも無理。帰ってこない。
それまでは、旅が終われば帰ってくると思っていましたが、諦めの気持ちが芽生えてきたのです。
「どうしたの?」
私が急に駆け出したので、同級生も少し遅れて後を追いかけてきました。
「うちの猫かと思ったんだけど、違った」
ガッカリしたのと悲しい気持ちが大きかったのですが、猫違いをして急に走り出した恥ずかしさもあり、少し笑いながら、猫が居なくなった話をしました。
「そうだったんだ」
彼女はそれ以上、この話には触れませんでした。

学校から帰宅してからも、トラがよその家で可愛がられて暮らしているところが頭に浮かびました。それならそれで、良いのかもしれない。仕方ないかもしれないと思うようにしました。
でも、やっぱり帰ってきて欲しい。
トラが死んだのではないか、という考えには至りませんでした。
泣くほどではないけど、何かすっきりしない気持ち。ご飯も美味しく食べられるし、夜も眠れるけど、何だか100%で味わえないし、目覚めても夢が後を引いているような感じ。
そんな日々を送って、さらに3週間ほどたったころでしょうか。
ある日、トラが帰ってきました。

何の前触れもありませんでしたが、日曜日に「トラ、帰ってきたよ!」という言葉で、玄関の方を見ると、引戸を猫の通れるくらいに、少し開けてあった隙間からトラは入ってきたようでした。
「えっ?」
確かにトラです。
疲れたような険しいような顔で、身体は少し痩せて毛並みもうっすら汚れたような、艶がないような、そんな姿になっています。
理由はわかりませんが、彼の旅は終了したようで、水をカブカブ飲んだあと、ご飯を食べ、念入りに毛繕いをして眠りました。
一体、何処に行ってたの?
帰ってきたのは嬉しかったのですが、トラの性格が変わったように見えて、手放しで喜ぶことができませんでした。

次の日、トラが「にゃーん」と可愛い声で鳴き、すっかり旅に出る前に戻っています。
家猫の性なのかもしれません。何事も無かったかのように、母に甘えています。
トラの様子に拍子抜けしたのと、ほっとしたのとで少し釈然としないまま、私は朝食を食べました。
トラを撫でてあげると、気持ち良さそうに目を細めます。
「おかえり」
登校するバスの中で少しづつ、日常が戻っていくのを感じました。




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