陶淵明について
初めに
こんにちは。田渕 創ノ介です。Note投稿 第6作目は陶淵明についてです。
尚、本文では文字数の関係上、常体(~だ、~である、など)を用いている事をご了承ください。
上記の写真は穂高岳様(gakusan様)の写真をお借りしました。
プレリュード
陶淵明(英:Tao Yuanming)は漢王朝の時代と唐王朝の時代に挟まれた六朝という時代を代表する詩人である。長江の中流域にある廬山という山のふもとで障害を送った陶淵明は、一時期、勤めに出て長江沿いに移動したことがあるが、一生の大部分は廬山のふもとの農村で過ごした。そのため、彼は田園詩人、自然詩人、隠逸詩人とも呼ばれる。
実際の所、陶淵明の作品の舞台になっているのは農村が多く、書かれるのも田園の風景である。しかし、そうした田園風景を詩に詠いながら、若かりし頃は世界を雄飛しようと思っていた時もあり、年を取ってからも田園生活をおくる中で様々な疑問を感じていた。けっして平穏な生活に終始していた訳ではないのである。血気にはやる若き日の淵明もいる。俗世に別れを告げたはずなのに未練タラタラな淵明もいる。俗世のしがらみを断ち切ったはずなのに、日々悩み続けている淵明もいる。彼の作品の中には、我々と同じような、いわば等身大の陶淵明がそこにいるのである。
今回ははそんな彼の本当の姿を追いかけつつ、前の投稿の『建安文学』や『詩経・楚辞』同様に、気になった作品を取り上げていく。
第Ⅰ部 陶淵明とは?
陶淵明というと、まず「帰りなん、いざ、飲酒、廬山、桃源郷、隠遁」といったフレーズが想起されるであろう。いずれも淵明と深い関係のある言葉である。
淵明は「帰りなん、いざ。田園まさにあれんとす」と言って、勤めを辞めて故郷に帰っていった。淵明の詩にはいたる所に酒が登場する。なかでも「菊をとる東蘺のもと、悠然として南山を見る」の句で知られる「飲酒」詩は、題名からしてそのものズバリである。この南山は、九江という町の南にある山で、廬山のことである。ある漁師が道に迷って桃の咲き誇る林に出くわし、そこから不思議な世界に入り込む話の「桃花源記」にもとづいて、理想郷のことを今現在でも「桃源郷」と呼んでいる。こうした作品を書いた陶淵明は、俗世から身を引いて暮らしていたので、一種の隠遁生活を送っていたのである。
我々が陶淵明から思い浮かべる事柄は、いずれも事実に基づいており、彼が残した作品は比較的分かりやすい馴染みのあるものが多いといえる。その点において、陶淵明は中華詩人の中で、最も身近に感じられるフレンドリー詩人の一人である。
第Ⅱ部 詩人としての評価
陶淵明は中国でも日本でも、唐代以前の詩人の中で、特に名の知られた詩人であり、その作品は今現在でも読まれている。しかし、彼が生きていた時から、そうであったという訳では無い。その価値が真に認められるのは、死後数百年を経た唐代半ば以後であるし、評価が本格的に高まるのは、さらに時代を経た宋王朝以降といって良いであろう。では、優れた作品を世に多く残した陶淵明は、生きていた当時、なぜそれほど有名では無かったのだろうか。なぜそれらの作品が高く評価されなかったなだろうか。
淵明は生前から、確かに名を知られていた。しかし、それはあくまでも詩人としてではなく。隠者としてなのである。つまり、書いた作品によって出た話の中にある作者の生き方、モットーによって認められていたのである。
彼の書いた作品がその当時あまり高い評価を受けなかったのには、一言で言えば、時代の最先端を行き過ぎていたからである。これは内容・表現の双方に言えることである。
内容に即して考えると、淵明はあまりにも身近な題材を作品に、とりわけ詩に取り入れた。自身の子供の事を詠じたり、自身の家が火事にあった事を詠ったり、また、農耕生活の事を何度も述べている。いわば、現在で言う「エッセイ」に近いかもしれない。こうした題材は我々から見れば、別段不思議なものではない。日常的な個別の話題を取り上げながら、そこから導き出される普遍性を感じるのは、文学作品にとってごく普通のことである。しかし、淵明が生きていた頃はそうではなかった。詩というものは、心の中の想いや考え、あるいは外界の景色に発せられた感情を詠むものであって、私的な日常生活や身近な農村を詠う者ではない、と考えられていたのである。つまり、この頃は高尚な考えや感情を格式高い文体で纏めた、現在で言う「意識高い系」の作品が好まれていた時代であった。
そうした考え方や捉え方が変わってくるのは、唐代の半ば以降のことで、積極的に日常生活を詩に詠うようになるのは、宋代以降のことである。その意味でも陶淵明は、当時の意識高い系の「反対」を行く作風の先駆的な存在だった。
また、表現の面から考えると、淵明の時代は対句表現を多く用い、ダイナミックで美しい語が頻用されていた。それに対して、淵明の作品は、平素な日常的な語を使い、俗語といってもいいような口語的な表現も厭わずに使用した。もちろん淵明の作品にも対句は少なくない。それと比べると、淵明の詩の対句は、まだ少ないほうである。それと比べると、淵明の詩の対句は、まだ少ない方であった。そうした語の多く使うのは、楽譜と呼ばれる民間の歌謡においてであった。詩には平素な表現が多く口語的表現もよく見られるのは、後の唐代半ばの白居易において顕著である。宋代に突入すると、その傾向は顕著になる。この点においても、淵明は時代の先を行っていたのである。
このように陶淵明の詩は、当時の時代に即して考えると、やや異質な存在であった。淵明よりも20歳ほど年少で、ほぼ同時代の人物であった詩人に、謝霊運と顔延之がいる。顔延之は淵明と交友関係があり、淵明の死後、その死を悼む追悼文を書いている。この二人は当時を代表する2大詩人で、極めて高い評価を得ていていたが、現在でその名を知っている人はほとんどいないであろう。詩というものに対する考え方が、当時とは大きく変わってしまい、詩人の評価も逆転したのである。
第Ⅲ部 陶淵明の家系
陶淵明はどのような時代に生き、どのような生涯を送ったのだろうか。
まず、そもそも彼個人に関する事柄は、よく分からない部分が多い。まず大前提で最低限の情報である彼の名前と字がはっきりしないのである。中国では名の他に字をつけて、普通は名を呼ぶことを避けて、相手の字を呼ぶのだが、淵明は一説によると、名は潜、字は淵明であったという。また別の説では、名が淵明、字は元亮だったという。名前からして明確でないのは、まるで彼の「五柳先生伝」冒頭の「先生はどこの人であるか分からない。また、その姓や字もはっきりしない」みたいであろう。
次に生まれた年が明確でない。顔延之が書いた淵明への追悼文に、元嘉4年に亡くなったとある。このことから、元嘉4年、つまり西暦427年が没年であることは間違いない。しかし、生年については諸説がある。353年生まれや、372年生まれ、376年生まれとも言われている。通常は、『宋書』隠逸伝の中の陶淵明伝に、63歳で死んだ、と記されていることから逆算して、365年(当時の王朝であった東晋の興寧3年)に生まれたとされている。
家系についてもはっきりしない所がある。確かなのは、曾祖父の陶侃(259~334)からである。陶侃は長沙(長沙は、現在の中国中南部に位置する湖南省の省都)群公の爵位を得て、死後は大司馬の位を贈られた。大司馬とは、軍事・運輸を司る高位官職であり、今現在で言う所の国防長官である。この曾祖父は淵明にとって、大きな誇りであるとともに、人生の目標であった。
祖父は陶茂で、武昌大守(武昌は湖北省武漢市であり、太守とは地方長官の事である。)になった事が知られるだけで、詳しいことは分からない。特に匿名性が顕著なのが父親であり、名すら分からない。ただ、心静かで世欲に拘らない人柄であったことが、淵明のことばで述べられている。淵明は7,8歳の頃に父親を亡くしたと書いているので、父の印象はことのほか薄かったと思われる。
また、外祖父の孟嘉とのつながりも深い。淵明の母が孟嘉の第四女という関係であるが、その孟嘉の妻は、淵明の曾祖父の陶侃の10女でもある。そうした血縁関係があるだけでなく、淵明はこの外祖父を敬愛し、かつ親近感を抱いていたといわれている。孟嘉は官界にいながらも、風流の士として名声を得ていた。
第Ⅳ部 陶淵明の生涯(3期に分けて)
陶淵明の障害はふつう3期に分けて考えられている。第1期は、365年に生まれてから、28歳になる392年までである。次の第2期は、翌393年から41歳になる405年まで、最後の第3期は、406年から六十三歳で亡くなる427年までである。第1期は、最初の仕官をするまでに郷里にいた時期、第2期は、初めて出仕してから仕官と辞任を繰り返して、最後の彭沢県知事(彭沢は江西省九江市の県である)を辞職するまでの時期、そして第3期は、故郷に戻ってから2度と仕官しなかった期間、と考える。
第1期については、淵明自身が後に若い頃を振り返って書き記した、詩や文章からうかがうことが出来る。そこから導き出される淵明の生活は、次のような点にまとめられる。
生活が貧しく、飢えや寒さの心配から逃れられなかった。
学問(儒家の古典)の勉学に専念していた。
いずれは「四海の果てに飛翔しよう」との志を抱いていた。つまり、国内で成り上がってやろうという志を抱いていた。
時代は東晋の後半に突入し、北方の前秦が南下して襄陽(湖北省に位置する都市)まで接近した。前秦はさらにその東で東晋軍と戦うが、数の上では優勢を誇る前秦軍が破れ、敗退を余儀なくされた。いわゆる383年の淝水の戦いである。しかし、その後も前秦に代わった燕が南方を脅かし、国内でも旱害や洪水が頻繁に襲って、淵明がいた潯陽(現在の江西省の揚子江南岸九江市付近に置かれた郡と県の名称)の辺りも大きな被害を受けた。
第2期は、初めての就職に始まる。年老いた母と幼い子供を抱え、貧困ゆえにやむを得ず、江州の祭酒(今で言う教育長)に就く。しかし、それに耐えられず、自ら辞任する。その後、州の知事が文章担当として招聘するが、淵明は応じなかった。
数年後、鎮軍将軍の参謀となって長江流域を行き来する。ほどなくして母を亡くし、足かけ3年喪に服し、喪が明けてから建威将軍の参謀となる。その辞任後、最後の役職である彭沢の県令となって、数か月後に辞職するようというように、慌ただしく就任と辞任を繰り返した。
この第2期は朝廷の権力が実質的に軍閥に移り、さらに軍閥同士の抗争が続いていて、淵明もそうした動きに翻弄されていたと思われる所がある。例えば、長江中流域の荊州の実験を握っていた桓温の死後、息子の桓玄は江州刺史に任じられるが、淵明は37歳の頃、その桓玄に仕えていたと言われている。まもなく桓玄は帝位につくが、劉裕(後の劉宋の武帝)に都を追い出されて、荊州に逃げ、やがて殺される。陶淵明自身、こうした政争に部分的に巻き込まれていたことであるといえるが、何よりも淵明のいた潯陽は、都建康と荊州のほど中間にあたり、戦禍を免れることはできなかった。淵明の作品に、このような戦争やその被害について、明確にそれと分かる形では書かれていないが、彼が憂いを感じ、役人の世界から完全に身を引きたいと願う背景になったことは否定できない。
第3期の陶淵明は、基本的に第1期と同様に、故郷に居を定めて農耕生活に従事する。この頃の潯陽に関わる大事件としては、盧循による潯陽の占領があげられる。409年、淵明が45歳の時、劉裕は山東に向けて軍を出し、南燕を討伐する。その間隙をぬって、南方の蛮禺(現在の広東省)にいた盧循が船団を引き連れて川沿いに北上し、ここを占領した。そのご、盧循は劉裕に敗れて南方に去るが、戦場となった潯陽の被害は甚だしいものであった。このことも淵明は具体的には記していない。
その後、劉裕は硬軟取り混ぜた様々な手段によって東晋王朝を滅ぼし、420年、淵明が56歳の年に、東晋の禅譲を受ける形で、劉裕は帝位につく。劉宋王朝(唐代後の宋王朝と区別して「劉宋」と呼ぶ)の始まりである。劉宋王朝建国後も、文帝の死後に皇帝が慌ただしく交替し、3代目の文帝の即位後4年目に淵明はこの世を去る。
淵明の作品から、このような政治の変動や争乱そのものを知ることは容易ではない。また、作品を読む上で必ずしも知る必要はないかもしれない。たとえバックボーンやバックストーリーを知らなかったとしても、作品が色あせることは、まず無いからだ。しかし、少しでも知っていれば、淵明がしばしば言及する人生の悩みや選択の迷い、そうしたものがより実感できるだろう。文学作品は、あくまでも作品そのものを対象として焦点を当てて読んでいくものである。それと共に、作品を様々なアングルから読むために、その助けの一つとして作者の生き方と時代的な背景についての知識を利用にすることも、大いにあって良いのではないか。
第Ⅴ部 『帰園田居』
ここからは陶淵明の代表作の一つである『帰園田居(田園の居に帰りて)』について、レポート筆者の感想を述べながら取り上げていく。この作品は淵明が最後の役職であった彭沢県知事を405年に辞して故郷に帰ってきた翌年の406年に作られたと言われている。陶淵明が42歳の頃である。なお、次の本文・書き下し文・訳文はこちらのサイト(https://bonjin-ultra.com/enden.html)から引用したものである。
絵に描いたようなザ・スローライフがそこには残されている。陶淵明も当時の中華圏において比較的ポピュラーな「出世して一族の名に恥じないお役人になるぞ!」という儒教に基づいた考え方を持っていた。しかし、前述したように彼は経済的・人間関係的などの様々な理由があって役職を辞職し、遂には帰郷した。そして彼は悠々とスローライフを楽しんだ。という訳でもなく、案外、役職勤めへの未練も残っていた。
2020年からの新型コロナウイルスによるパンデミック中に、アニメ『ゆるキャン△』によってブームになった(?)「ソロキャンプ」が現代社会の混沌かつ先行き不透明な時代や職場などでの陰鬱した人間関係や、人々の喜怒哀楽が往々にして跋扈するSNSなどに嫌気がさして、1人でのんびりキャンプを誰もいない絶景の場所で楽しむ人々の姿が増えたことに、先述した陶淵明の動きに近いものを感じた。
フィナーレ まとめ・感想
今回は陶淵明について取り上げた。彼は当時の文学の傾向とはまた違った、素朴で牧歌的な詩を詠う文学を切り開いたパイオニア的存在である。しかし、パイオニア的存在といっても彼自身は高尚な目的で新たな詩を生み出したという訳では無く、役所勤めに嫌気がさしたから帰郷したい、いたってありふれた感情から生み出したのである。
個人的な意見を述べると、どうしても文学者として名を残している人達は前述した「意識高い系」ばかりのイメージが先行しやすい。儒教や道教などの宗教観念や、当時の政治的争乱が絡んでくると、難解な思想や壮健な表現ばっかりになってしまいやすい。しかしそんな中でも陶淵明のように自然や自身の家族などのありふれたイメージを素朴な文体で映し出した人物も実はいることに感銘を覚えた。
また、彼の逸話に無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話がある。いわゆるエア・ギターである。『菜根譚』にも記述が見られ、その意味を要約すると、「存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできない!」と記しており、要は「形や形式に囚われすぎるな!」ということであろう。どうしても人間、世間体を気にして何事においても形や形式をこだわってしまいやすい。しかし、それらに囚われすぎて中身が伴っていなければ、本末転倒である。そんな考え方にも個人的にシンパシーを感じた。
参考・引用文献
釜谷武志『陶淵明』ビギナーズ・クラシックス 中国の古典(2004年:角川ソフィア文庫)
加藤文彬『陶淵明受容研究』筑波大学博士(文学)学位請求論文(2015年:つくばリポジトリ)
画像リンク
『ゆるキャン△聖地巡礼』Photo by gakusan様
「陶淵明」Facebookよりhttps://m.facebook.com/5willowtao/photos/d41d8cd9/1690179867884060/
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