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ヌードデッサンあれこれ(1)

何年か前だったか、母校の大学で、フェミニズムの観点から、ヌードデッサンの課題がなくなったという話が流れてきて、その時は何じゃそれと思った。
人体の構造や佇まいを理解するのに、ヌードデッサンというのは大変重要な課題だし、美術の専門教育の場がそれを手放してしまうのは、どうしようもない愚行に思えたのだ。
しかし、そもそもフェミニズムのという件が正確かどうかわからないし、女性ヌードがなくなったのか、男女ともになくなったのか、あるいはこの話じたいが本当のことなのか、よくわからない。(現役の学生に聞いたら、ちょっとニュアンスが違うようにも感じた)

少し考えてみれば、確かに日本でヌードという時には圧倒的に女性ヌードだし、ヌードである必然がないのにヌードをモチーフにする場面も目につく。
特に彫刻分野において、人体といえば女性ヌードみたいな安易な決めつけが、作家の中にさえ蔓延していたのは、間違いない。
そういう意識の改革という意味で、例えば男性モデルと女性モデルの頻度を合わせる、といったことなら、大いに妥当性はあるのではないかと考え直した。

しかし日本ではなぜそのような、裸体彫刻の大量発生が起こったのか?
わたしは浅学故、よくわからないが、事実として街中のパブリックアートにこんなに女性のヌード像が多い国も他にないらしい。

あるいはこんな話がある。来日した海外の美術家が都美館の日展の彫刻部門の展示を目にして、非常に興奮しながら、「この素晴らしいインスタレーションをコーディネートしたのは誰だ」と聞いたというのだ。
日展の展示を見たことがあれば、さもありなんと思うのだが、彼はあの無個性なヌード像の群れを、到底大人数による公募の作品だとは思えず、意図して作ったインスタレーションだと考えたのだ。

話がそれた。
肉体の美、というものは確かに存在していて、女性であれ、男性であれそれは変わらない。
ヌードであれば性的な魅力を感じるものもあろうし、機能、構造としての肉体に興味を向けるものもあろう。モチーフとしての裸体に、たいへん創作意欲を喚起する側面があるのは事実だ。

ただ、それが当たり前になってしまって、偏った形で世の中に溢れていることに、当の作家が鈍感になってしまってはよくない。

今更だけど、人間というのは、常に気を付けてアップデートしていかないとならないな。

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