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舐められたくない・馬鹿にされたくない!!

「舐められたくない、馬鹿にされたくない」

この思いが強く、本当に強くなりすぎて、

自分自身が不自然になっていると感じることがある。

自分の感情をコントロールすることが難しくなっている。

学生時代までは舐められる事はむしろ、 
愛されていることだと認識していたし、
そんな自分を周りはかわいがってくれていたように思う。 

また、学生時代に重要視されるのは、
・テスト結果
・部活動
・授業への貢献度   等だろう。

勉強はどちらかと言えばできる方だったし、 
下手なりにも運動部にも所属していた。 
ピアノもかじっていたので、 
舐められても、 
それに太刀打ちできる武器があった。 

だから私は、『自ら』舐められにいっていた。 
それが自分の性分だった。



しかし、社会人になった今、私は思う。

社会ではコミュニケーション能力が最も大事であること。
私のコミュニケーションの型が、「舐められに行く」、「下手にでる」コミュニケーションであること。
こうしたコミュニケーションを繰り返していくうちに、なんとまぁ見事に舐められてしまう(気がする)のだ。

かといって、 
誰かをいじったり、高圧的な態度をとるのも、「違うなあ」と感じるものがある。

けれど、

「いじられまい、舐められまい、舐められてはいけない」
そう思えば思うほど、からだは委縮し、遊びが無くなる。

ガチガチのつまらない人間になるような、 
そんな感覚

そして、他者の言葉一つ一つに対して、 
自分自身への棘だと認識してしまうのである。  



女芸人にでもなろうかな。いや、でもそんなに、女芸人も甘い世界ではない。

女芸人は「女性」というアイデンティティを削ぎ落とし、「笑われ」にいっている人が多い。

むしろ笑いに関して言うと、
「女性性」は邪魔だとさえ感じる。

私は社会に出て思った。

「自分の女性性は大事にしたい」と。

体は男であれど自分の性質を受け入れ、 
社会の中で折り合いをつけながら、 
自然体の自分を表現していきたい。 

言っておくが、 
私は女芸人は決して不幸ではないと思っている。

しかし、一般社会で暮らしている女性が、 
女芸人ばりの行為をすることで享受できるものには 
何があるのだろうか。

ピエロとなり、周りに「笑われる」ことで周りを「笑わせる」おかま。

生きる生業としてそれを行っているなら話は別だが、 
私は現時点では、 
そうした商売の世界に足を踏み入れてはいない。



他人から嫌われることは少ない。 
しかし、自分の心を疎かにし、自分のことを嫌いになってしまっている私がいる。


さて、客観的に自分を見つめることができただろうか。  

しかし書くという行為は、やはり良い。

心が浄化されていく。

感情を思うままに記すことで、 
自分の本質や原点を再確認することができる。
書くことは自分にとって、そんな営みであると感じる。 

よし、今日もちょっと🤏頑張ろう。




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