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弟・正造と眞一:箱根と日光、二つのホテル

1925年7月31日、世界旅行2カ国目の英国・ロンドンに到着した曽祖父・金谷眞一は、早速街を散歩しながら「弟・正造がいたら喜んだろうに」と日記に書きました。滞在中は正造のため、共通の趣味である釣具をはじめ、お土産をせっせと買い込み、ロンドンを出発する頃には荷物の重量は200ポンド(90キロ)超えです。この2人、どんな兄弟だったのでしょうか。

眞一には3歳違いの弟、正造(1882−1944)と、9歳違いの妹たまがいました。眞一13歳、正造10歳で母ハナを亡くして程なく、2人は揃って英語を学ぶため東京築地の立教学校に入学し、親元を離れた寄宿舎での暮らしが始まりました。眞一と正造は学校の配慮で同室となり、この寂しい時を2人で支え合って過ごしたことが強い結びつきを育んだように思われます。1893年(明治26)には父・善一郎は四軒町の金谷カテージインから現在の日光金谷ホテルの場所に移り営業を開始。長期休暇のたびに日光に帰り父を手伝っていた眞一は、競合ホテルが増えて苦労の続く父の様子を見て、その後学業を4年で切り上げて家業を手伝うことを決心しました。

根っからの長男気質、熟慮断行型の眞一に対し、正造は負けん気が強く、スポーツも得意で考えるより行動するタイプだったようです。病気で休学したことをきっかけに米国行きを志願し、父が苦労して工面した現金を胴巻にしのばせて、17歳で単身サンフランシスコに旅立ちました。

右から正造、たま、眞一。正造さん、イケメンです。

当初あてにしていた人物と会えず教会の世話になったのち、カナダ・バンクーバーへ。そこで日本人労働者向けの日雇いの英語教師をしている時、偶然日光金谷ホテルに宿泊したことのあるイギリス人と再会し、イギリスまで連れて行ってもらいます。そしてロンドンで当時の駐英大使がヘボン博士の英語塾出身だったことが縁で、大使館で働くことに。そのかたわら柔道教師と組んで始めた柔術ショーが多忙になり大使館を辞し、柔術学校を始めるのでした。

組み手解説でしょうか。(画像提供:村津真須美様)

そんな正造の様子を、日光の父・善一郎と兄・眞一は全く知りません。ある日二人は日光金谷ホテルの宿泊客が置いていったイギリスの雑誌に正造の姿を認めて仰天します。それはパリで正造がアポロというロシアのボクサーとの試合に勝った、という記事でした。

たった1人、海外で生活の術を立派に開拓した正造は、8年後に帰国しました。そして縁あって1907年(明治40)日本のリゾートホテルの草分け、箱根宮ノ下の富士屋ホテルの創業家に婿入りします。孝子夫人は英仏語に堪能で才色兼備な社交上手。父・山口仙之助氏の右腕、富士屋ホテルの華とも言える存在でした。兄弟は日光と箱根でそれぞれのホテルの経営に邁進していきます。正造の(そしておそらく孝子夫人の)語学力や海外生活経験は、お互いに共通の外国人や貴顕の顧客を抱えるリゾートホテルの経営者として眞一も頼りにしていたことでしょう。1916年から17年(大正5−6)にかけては眞一と正造夫妻で米国視察旅行、さらにその4年後には兄弟でホテル協会の会議出席の機会に中国視察にも出かけました。

眞一専用便箋には、二つのホテルの名前とキャッチフレーズが。

箱根は1923年(大正12)の関東大震災で大きな被害を受けます。あまりの惨状に日光へ帰ろうと話した眞一に正造は、「成功して帰るならともかく、ここで帰るわけにはいかない」と再起を誓いました。眞一はその翌々年の世界旅行中、欧州各地のトーマスクック社の支配人に、箱根宮ノ下への道路は復旧済みだから、日本での旅程にぜひ箱根、富士屋ホテルを加えるようにと売り込んで、正造を応援しています。

2人はもともと似ているところに同じような髭をたくわえていたことから、よく間違えられていて、新聞にも取り上げられるほど。今なら週刊新潮の後ろの方にありそうな記事です。

昭和6年10月2日 東京日日新聞(画像提供:村津真須美様)

アイディアマンの正造は、「万国髭倶楽部」を設立し世界中に会員を募集するなど、富士屋ホテルの「顔」としてのエピソードが多く残っています。ホテルを経営することが必ずしも「社長」であることではなく、「主人」であることだった時代の中でも突出した個性派ホテリエと言えるでしょう。のちに離婚しましたが正造は山口家に残り独身を通します。子供はありませんでした。その後も日本初のホテルスクールを設立し後進の育成に励むとともに、日本文化紹介本“We Japanese”を出版するなど次々と活躍の場を広げます。しかし、1944年(昭和19)に惜しくも急逝。眞一が最後にかけた言葉は、「正造、逝くのか」。眞一の長年の日記を見ると、喧嘩したり、疎遠にされた時期もありましたが、やはり終生最愛の弟でした。

正造の生前の言葉として「お前たちは次から次へとダラダラ子供を作ってパパだのママだの言われて楽しむが、俺は事業を作り、学校を作り、もっと大勢のママともパパともなって楽しむのだ」があります。そんな正造の志をくみ、遺族の申し出により1946年(昭和21)に設立されたのが、現在の立教大学観光学部の前身、「ホテル講座」です。戦後まもなく、まだホテルは進駐軍に接収されていた時代の中、ここで学んだ人々が、その後の日本のホテル業界で数多く活躍しました。

正造は英語ではいつも”H. S. K. Yamaguchi”と署名しました。

正造の名刺。就寝時ヒゲは絹羽二重の袋にしまっていたそう。

Hは英語名のHenry。S. K.は、Shozo Kanayaです。正造は自分のルーツを生涯忘れませんでした。

参考文献:
「富士屋ホテル八十年史」 富士屋ホテル株式会社
「山口正造懐想録」山口堅吉 富士屋ホテル株式会社
「箱根富士屋ホテル物語」山口由美 小学館
「森と湖の館」常盤新平 潮出版社

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