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【短編小説】合歓の葉 葉桜ことり

合歓の葉  
               葉桜ことり


 精神科医はそれを幻聴と名付けたが、夢や幻ではなく紛れもない真実である。
 証明できないものは、どんなに大切なことであろうと、明日には消されてゆく。

 葉山凛子
 43歳。
 

 ここ数年、目覚めると夢か現実か曖昧な時がある。
 元々の妄想癖も手伝い、特に低気圧の朝は自分がどこの誰で、どんな暮らしをしていたのかも判断がつかない。
 単身なのかパートナーがいるのか、はたまた、子持ちなのかの確認は、流しの食器や洗濯物を見て判断する。

 大抵、冴えない方が現実だ。
この嘘偽りない現実の傷の痛みを耐え凌ぐのは辛く、また、生傷を舐めてくれる奇特な者もおらず、妄想に妄想を上塗りしながら、鏡に映る自分をじっと見つめる。

 雨がやんでしまえば捨てられ、たいした思い入れもない、そこらに放置されたビニール傘のような女になってしまったと落胆する。

 陳列された使い捨て商品は悲しみを帯びている。
 捨てられるために生まれたのだから、捨てる側も罪悪感を持たずにすむ。
 だから、私を捨てた者たちもきっと罪悪感がないのだろう。
 
 望まずにして秋。

 乾いた外気からは歴史的な紫外線が溢れ出し、無防備で繊細な肌を容赦なく焦がしていた。
 
 その壊滅的な空には黒光りしたカラスが羽を広げ優雅に舞っている。
 その声色は哀れみに満ち、まるで
 自分が嫌われている事を悟っているかのよう。
 カラスの羽が妖艶な紫色ならば人間の見る目は違ったかもしれない。
 選んで生まれたわけじゃない。
 だから、私はカラスを嫌いになれなかった。

 紫外線が首筋をなぞり、痒みと痺れにうなされ朦朧としたある日、私は奇異な体験をした。
 

 いまにも倒産しそうな工場が私の勤務先だ。
 その日も変わらず、先陣を切って定時前に職場を出る準備をしていた。
 残業という定義は私には存在しない。
 金銭より時間に重きを置いていて、妄想には何よりたっぷり時間が必要なのだ。
 特に疲れた日の妄想は麻薬なみに疲れが抜ける。 

 寝不足の重いまぶたと浮腫んだ足では寄り道する気にもなれず、刹那的な感情でタイムカードを押し、かかとを踏み靴を履いた。

 寄り道しない。でも、今日はまっすぐ帰りたくない。

 帰ったところで、心躍る人が待ってる訳でもない。
 小さい頃に冗談で、
「アンタは川から拾ってきた子だ。」
と笑われた事があった。
 その冗談が真実だと知ったのは高2の夏に妊娠した時だった。
 おなかに手をあてると希望を感じた。
 しかし、相手は妻帯者の教師だった。
 幸と不幸は隣り合わせだったが私は疑う事を知らなかった。 
 でも夏の終わりに相手は死んだ。
 私を置いて。
 
 結局、子どもは生まれなかった。
 何もかも信じられなくなって、死ぬ勇気もなければ生きる希望もないまま、こうして負の感情をもて余し生きている。
 
 何かに愛着を持つと寒気がする。 
 
 衝動的な勢いに任せ、黒雲を追い、人のいない場所を目指し西へ西へと猛進した。

 私に気付いた黒雲は、急に加速し、次第に私に狙いを定め宇宙に近い位置で縦に伸び、得体の知れない音を立て一瞬で鋭利な包丁の刃に変貌し鋭さを保ちながら、頭上にグサリと落ちて来た。

 黒雲の刃は私の脳天を一気に切り裂いた。
 
 そうだ。
 イヤな冗談の後には
「アンタの頭の中を見てみたいものだ。」
と大人たちが冷笑していた。
 その大人たちが私の脳みそ見たさに仕掛けた罠だろうか。

 解体したところでわかるまい。
 今度は私が大人を侮辱した。
 
 そういう不愉快な感情は妄想の特効薬となり、私は大人たちを煮たり焼いたり、時に凍らせ、脳裏の世界では異名を馳せていた。

 頭から吹き出す透明な液体を押さえながら私は身を隠そうと小道の奥にある吹きだまりに気がつけば飛び込んでいた。

 バサッと倒れ込むと木々の鳥たちが一斉に飛び立ち、途轍もない睡魔に襲われた。

 湿気を含んだ香ばしい吹きだまりに顔をうずめ、静かに目を閉じると頭の傷が癒えて乾きはじめた。
 体が地面に溶け込む感覚を覚えると、耳元でひそかに声が聴こえる。
 
 吹きだまりの裏には地下があるのか。

 都会は見えない場所でいつも人間達が細胞分裂のように切れ目なく動いている。
  
 謎の囁やきは次第にボリュームを増す。

 幻聴だと思いたい者はそう思えばいい。
 そう、あの精神科医と同じように。
 

 囁やきは葉の中からから聴こえてくる。
 私の中にある魂が好奇心という名の空気を強欲に吸い込み、睡魔を跳ね除けた。

 妄想とは頭の中で沸き起こるが、このときは、聴覚と視覚と嗅覚がその紛れもない現実をしっかりと捉えていた。

 手を伸ばし、ひんやりとした落ち葉の感触を手の平に包むと、私の体内から長年向き合えなかった劣等感がパリパリと音を鳴らし弾けた。

 あのときのカラスだろうか。
 一羽の黒光りしたカラスが私の目の前に鎮座した。
 そして、ぐにゃりとした赤い葉を差し出した。
 赤い葉は、まるで手足が生えているかのように吹きだまりのてっぺんに座り、しゃがれた声で話し始めた。

 「その昔、わしらは小さな種だった。やがて芽になり、バラバラに別れ、今日が180年を越えての再会となるのだ。
朽ちたものもいる。
わしはあのあと、スロベニアに植樹され、壮大な景色の中で眩しい太陽と優しい月夜に照らされ、150メートルは優に超える大木になって、栄光の木と称賛されたのだ。
称賛の後、くり抜かれたかと思うとカヌーになって、ソカ川の急流を1000回は泳いだのさ。金色のメダルをもらって新聞にも載った。
現役を退いた今もわしの体は栄光のカヌーとし国家に展示されているのだ。」
 
 間髪入れず隣の葉が答えた。

「私は、そのまま日本に残ったわ。
戦争も体験してほとんどの仲間は死んだし、怖い思いしかなかったけれど、戦争が終わって5年目に板状に切られ、春まで倉庫で眠っていたの。
乾燥して体が痒くなったと思ったら、お爺さんがきて、四角い箱に組み立てられて、おでこには雛の焼印がつき、日当たりの良い明るい部屋に通された。
その翌日には、私の体に人間の赤ちゃんが眠るようになったの。
ベビーベッドというらしいわ。
2000人は育てたわよ。」

(私もベビーベッドに眠った事があるのだろうか?川で拾われたからあるわけないか。)

「僕はドイツだ。
ヘルマンハープという楽器になったんだ。頭とつま先まで弦という線が張られ、そこからが凄いんだ。
人間が指ではじくたびに、音が響くのさ。しかも、右手でメロディー、左手の伴奏で曲を奏でると誰もがたちまちうっとりさ。それも、その楽器というのがバリアフリー楽器で僕は音楽家以外の誰よりも愛されてたんだ。
アメージンググレイスや賛美歌も弾いたんだぞ。」
 

「あら、私も楽器よ!
最初はスイスの時計職人の家に行ったわ。
貴族の芸術としてディスクオルゴールを体に納め、城中、響かせるのが得意だったけど、時々、オルゴールの音色で自分が居眠りをしては、よく、婦人に背中をさすられたわ。」

 葉は、もうない自分の体の歴史と自分たちが風に吹かれ、海や川を流れ、動物や人間にもぎ取られそうになりながら、長い時間をかけこの場所に辿り着いた事を意気揚々と語っていた。

 すると黒い葉から低い声が聴こえてきた。
 

「僕が……。僕が。僕が見てきた景色は人間の寂しい表情ばかりだ。」

 葉に沈黙が流れた。

「僕は……。北国に植樹されたんだ。
雪が積もる場所で、そこは見晴らしが良くて星がきれいで、朝陽を誰よりも早く見ることが出来たんだ。
でも、人間達は僕の前でよく泣いたんだ。
僕の体の下には、どうやら特別な人間が眠っていたみたいで、たびたび僕に抱きついたり、長いキスをする人もいた。
そういう時は風の力を借りて葉を揺らし、返事をしたのさ、元気を出してって。
春には鮮やかな花を咲かせ、秋には涙に寄り添えるような色の葉をつけたんだ。
僕は人間というのは寂しい生き物だと思っていたけど、君たちの見ていた人間は僕が知ってるのとは、まったく違うね。
僕も楽器かなんかに生まれ変わっていたら、君たちのように誇れたのかもしれないな。」

「いや。君は誇れる。充分に誇っていい。人間が抱きついたり、キスをしてくれたんだ。それに花も咲かせたんだ。
その点、この僕は、生まれて来なければよかった……。と、ずっと後悔している。 
 小さい時は僕の両手には鳥やりすたちが遊びにきて、夏になると蝉が耳元でよく騒いだんだ。
でも、手足がたくましく伸びてから、
僕の人生は雲行きが怪しくなった。
 そう、ある日、スーツ姿の男が僕をずっと眺めていたんだ。
 その男は鞄から万年筆とメモ帳を出して何か書き始めて、僕の脇に挟んで、長い紐を取り出したんだ。
 その紐はとても長くて、僕は風の噂で聞いた子どもをのせるブランコになるかもしれない。そう感じて嬉しくて、じっと眺めていたんだ。
 だから、腕に力をいっぱい入れて折れないようにしたのさ。
 子どもをのせるからね。
 紐は僕の腕に4回通され、その次、僕は目を疑ったよ。男はその紐で、自分自身を通したんだ……。
 揺れる足元をなんとか地面につけようと、僕は、自分の腕を折らなくてはと体を強く揺すったけど、たくましくなりすぎた腕は、ビクともせずに男の命を奪ってしまったんだ。
 その後、また、誰かやってきては、僕の腕で命を落とす。それが何年も続いたんだ。
 僕はそういう恐れ多い道具になったんだ。」

 その話のあまりの重さに葉のすべてが今まで吸い込んだ雨の雫を葉脈を通しポタリポタリと垂らした。

「君と俺とは似た者同士かもしれない。
俺は変身したよ。一度だけな。
でも、一度きりなんだ。
俺の体はきれいに焼かれ、無くなることが仕事だったからな。
俺の体は長細い箱になったんだ。スロベニアのカヌーならかっこいいけど、俺には蓋があったんだ。
その箱には、俺のときには若い女の人が入っていたよ。黒髪で色白の美しい人だった。たぶん、その人には小さな子どもがいたのさ。
俺の体にその人が入ると、その子どもと男の人が大粒の涙を流していた。
その後は、白や紫の花が俺の体じゅうを埋め尽くしたんだ。そして、俺は車に乗せられ、揺られながら、学校や海辺や草原や教会を通って高い煙突のある建物の奥に寝かせられたんだ。ガタンと音がして、ブザーが押されたら、あっと言う間に俺の体は消えてなくなった。俺の体をみた人間の顔も君と一緒だ。
寂しくて悲しくて、俺の姿は励ましにもならない存在だったよ。」

 葉っぱ達は既に乾ききった葉脈からわずかな雫をポタリポタリと垂らし、小刻みに揺れた。

「人間って本当に説明のつかない生き物。
残酷なのか慈悲深いのかよくわからない。
私の体も、小さく刻まれて、随分痛い思いしたわ。
 焼かれるのかとじっと耐えていたら、船で北欧に運ばれたの。そうしたら、お年寄りが暮らしている場所についたの。
それから先は、お年寄りと職人が順番で私の体を器用に切って、スプーンやカップ、皿に変わり、北欧食器と名付けられ世界中を旅したわ。
 切られる前の私の体には毎年、黄色い花が咲いたのよ。
なんの予告も無しに切り刻まれてるときは葉を震わせて泣いたわ。
 あの花にさよならを言えてなかったから。
私はあの香りを嗅ぐたびに、あのとき、あの名前も知らないあの花ともっとお喋りを楽しめばよかった、せめて名前を知りたかったと思って今でも忘れられないでいるのよ。」

 葉はそれぞれに自分の人生を語っては雫を垂らしたり、風に乗り少しだけ宙に舞ったりしていた。

 どこにも動かず、一生同じ場所にいた樫の木は木の実を拾いにくる少女に恋をしたが、少女が結婚してからはずっと孤独だった話。
 湖のそばでログハウスになったが、夏以外は誰もいなくて寂しくてたまらなかった話。
 祝い事で練り物をのせたが、用が済むとすぐに捨てられた話。
 色鉛筆になって花や果物を描いた話。
 ただただ切られ、寒さをしのぐ薪になったが、人々が「温かい」といいながら頬を赤くし自分のそばを離れなかったのは熱さや痛み以上に嬉しかった話。

 葉の消えた体の物語は尽きなかった。

 気温が下がり始めると葉の声は次第に遠くなり、私はオレンジ色の光に包まれていた。

 死の前兆か。
 そう、体を無くした吹きだまりの木の葉のように。
 いま、天国へ行くのだ。

 冴えない人生。
 すべてが中途半端で愛される事も愛する事もできなかった。

 私の足は今までどんな意味を持って歩いてきたのだろうか。

 いつ死んでもいい。
 そう思っていた。
 
 葉のさやさやとした音が耳から離れない。

 天国と地獄を彷徨いながら深い眠りにつき、目覚めると私は真っ白なベッドにいた。

 白衣の紳士に葉の話を事細かに繰り返し説明すると、ねぎらいに似た穏やかな言葉を放ったかと思うと、怪奇な者に向ける視線を残して立ち去り、その日のうちに私は二重扉病棟に隔離された。
 
 未練の残るような職場ではなかったが唯一の居場所だった工場も、そのまま退職扱いとなった。

 人間は、自分が経験しない限り、理解不能なのだろう。 
 

 病棟の中庭には荘厳なねむの木がそびえ立ち私を見ていた。
 葉の先端はしなやかで私の痩せた息でも、優しく揺れ、初夏には花火のような紅い花を咲かせ、秋には凛とした実をつけた。
 漢字では、「合歓の木」と記す事を知り、生まれて初めて植物に心を奪われた。
 
 このねむの木にも感情があるのだろうか?
 
 病院の真ん中で蒼白い人々を見ながら、何を想い、生きているのだろうか。
 
 私は朝も昼も夜も、ねむの木のそばを離れたくなかった。
 幹に手をあてると鼓動やぬくもりを感じ、安心とはこういう感情であることを悟った。
 
 また、話し掛けると、ねむの柔らかい葉っぱがしなやかに風に揺らぎながら、お喋りし、ときにはダンスを踊ってくれた。
 ぼんやりしている時も、いらいらしている時も私を叱りつけたりせず、そっと見守ってくれた。
 それが優しさという事も知った。

 私は自然体だったのに、異常とみなされ、入院は延長となっていた。
 

 延長をねむの木に伝えた夜は、窓からスルリと舞い込んで私の頬や髪に葉が絡みついて歓喜した。

 しかし、この病院は建替え計画があり、私は計画報告書をみて落胆した。
 その薄い紙では、ねむの木は伐採され、中庭が消えていた。
 
 病院関係者に直談判したが、まともに向き合ってくれるものは、また一人もいなかった。

 泣きながら真夜中にそっとねむの木を見た。
 葉は閉じ、おやすみなさいと囁いている。

 私は施錠された扉を力一杯開けようと錯乱しながらもがいた。
 部屋にあるすべての硬いものを投げつけ窓ガラスを割ったが、ガラスの奥に鉄格子があって抜け出す事は到底不可能だった。
 

 愛された記憶を持たない私をねむの木はいつも大きな幹で包み込んでくれていたのに。
 

 あれから随分と年月が経った。
 

 退院した私は、今、小さな工務店で清掃をしている。

 ねむの木が伐採される日、工務店を休んで、これが夢か間違いであることを願い、病院へと向かった。
 私の想いは届かなかった。
 毎晩優しく微笑んでいたあのしなやかな幹と葉は、けたたましい轟音と共にいとも簡単に息絶えた。
 悲しみの空にねむの木の柔らかな葉がひらひらと風に舞い、私の足元にひらりと落ちた。

 私は自分の感情が濁流のように勢いよく流れ腹の底から発狂し、足元のコンクリートに拳を何度も繰り返し叩きつけた。
 右手も左手も血だらけになったが痛みは一つもなく、私の心がみりみりと張り裂け呼吸の仕方さえ混乱し生ぬるい汗がいつまでも滴り落ちた。

 
 泣いて泣いて泣いて喚き散らした。

 やはり、私は精神異常者なのだろうか。

 それを証明するかのように、いっそう孤独な毎日がはじまり、当然のように、また秋が巡ってきた。

 今年も木枯らしの中、朽ち果てた葉がパリパリと音を立て粉々になり、運命に逆らう事なく天高く風で舞っている。
 やがて地面に落ちて、踏まれて、また風で流れ、幾つもの吹きだまりが彷徨っている。

 あの時、足元に舞ったねむの葉は今、小瓶の中に眠っている。

 この無言の一葉に憐れみと愛しさを抱きながら私も運命に逆らえないまま、ゆっくりと朽ち果てていくのだろうか。
 

  


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