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【短編小説】『ぱゆパむ』NUE




 なんだ、ありゃ。
 大熊課長の黒いリュックに何やらファンシーなキーホルダーがぶら下がっている。
 どぎついピンク色で、綿菓子みたいなふわふわした不定形……何かのキャラクターか?
 そんなものが素っ気ないツラした黒いナイロン生地をバックに揺れている。
 どんなに控えめに言っても似合わない。
 大熊課長という男はどこまでも典型的な中年サラリーマンだ。歳は五十。
 毎日夜十時まで働き、休日はゴルフに出かけるのが生きがい。家庭はさぞかし極寒の様相を呈しているであろう。ただし、パワハラ上等で何人も人を辞めさせてきたその報いだとしか俺は思わない。最近は随分と丸くなったようだが、昔のことがそれでチャラになるわけではないのだ。
 まぁ、現在の部下である俺には何の関係もないのだが。
 俺はメールをチェックする素振りをしつつ、横目にあのピンクのもじゃもじゃを眺めていた。
 大熊課長のようなさもしき中年に、あんなものを鞄にぶら下げる趣味なんてあるはずがない。
 じゃあ誰の趣味だ?
 行きつけのキャバ嬢?
 それともスナックのママ?
 いや、たとえそうだとしても、わざわざ出勤用の鞄に着けてくるか、普通。
 あれを見て、他の皆はどう思ってんだろう。
 と、ちょうどそのとき。
「おはようございまーす!」
 若手女子社員の井山さんが現れた。
 彼女はとにかく誰にでも大声で挨拶することを信条としているらしく、今朝も相変わらず声がバカでかい。
 そしてだからといって彼女が誰よりもよく働くとか、気が利くとか、そういうことは全くない。
「課長! おはようござぃま~す!」
「ああ、おはよう」
 いつものように課長は気怠い返事をし、対する井山さんはそんなことは気にもかけずに、いつものようにスマホをいじりだした。
 ――……あれ?
 誰に注意されようが歩きスマホも、生意気なイントネーションの喋り方も止めないゴーイングマイウェイの井山さんがなぜか課長のキーホルダーに対して何も反応しなかった。
 これは解せない。
 もしかして視界に入らなかったのだろうか。
 いや、絶対に気付かなかったはずはない。
 先ほどから、あのキーホルダーについている触角が、ピカピカと明滅している。
 まるでパチ屋の看板のようだ。
 井山さんなら目ざとく気が付いてくれると期待したけど、当てが外れた。
 と、同時に始業ベル。
 俺は諦めて案件のフォルダーを開き、見積もりのチェックを始めることにした。


  * *


「あぁ、それぱゆパむだよ」
 帰宅がてら、今朝の出来事を妻に話すと彼女はすぐにそう答えた。
「ぱゆぱっ」
 ……噛んだ。
「なんだよそれ」
「うそ、知らないの?」
 妻は目をまんまると見開いて俺を見つめた。
「知らないよ。その、ぱゆナントかって有名ななんかなの?」
 俺は簡潔な説明が好きだが、妻にそんな直球な答えを求めてはいけない。
「いや有名ってか、色んなとこで見かけるじゃん。SNSとか広告でも見かけるし、朝のニュース番組のコーナーでアニメもやってるし」
 パートの妻は朝がゆっくりだから世間に聡い。彼女が有名だというのなら本当にそうなのだろう。
「へえ、あんなのが今の流行なんだ。課長も意外なとこあるもんだな」
「え? それってどういう意味?」
 妻の目が明らかに不愉快そうな形に歪んだ。
「え、どういう意味って……むしろ、どういう意味だよ」
「はあ? こっちが聞いてんじゃん」
「いや、だから……あんな女子高生が着けてそうな人形をよりにもよって大熊課長みたいな中年のおじさんが鞄に着けてるってちょっとっていうか、かなり変じゃん?」
「はあ……あのね、浩司さぁ……」
 妻の呆れた声が手狭な2DKの部屋に響いた。
 なぜだか俺は地雷を踏んでしまったらしい。
「なんだよ?」
「なんだよじゃないよ。他人が何を好もうがそれはその人の勝手でしょ?」
「そ、それは、まぁ……ただ、さぁ……程度ってもんがあるじゃん」
「別にいいでしょそんなの。課長さんだってそうやって生活を豊かにしようとしてんのよ」
 妻の断定口調には釈然としなかったが、確かに年齢や性別を理由に偏見を持つのは差別に他ならない。
「でも、意外は意外だろ」
 俺の独り言は聞こえなかったようで、妻は欠伸をしながら炊飯器の蓋を開けた。
 白い湯気がふわりと居間に漂った。
 今日の夕飯は鮭の塩焼きに妻が出汁を取った味噌汁、土産物の千枚漬け、昨日の煮物の残り。
 これに豆腐でもあれば完璧。
 やっぱり日本人の俺の口にはオーソドックスな和食が合う。
「あ、そうだ」
 俺が味噌汁を飲み干したとき、妻が突然思い出して冷蔵庫を開けた。
「ぱゆパむで思い出した。これ、食べようよ」
 そう言って妻が取り出したのは、プリンだった。
 そのプラスチックの蓋には、あのピンク色の綿菓子のようなキャラクター――ぱゆパむ――がでかでかと印刷されていた。


  * *


 癪だが、確かに妻の言う通りだった。
 コンビニの一番くじ、道路の看板、ネットの広告、トレンドランキング、エトセトラetc……。
 普段縁のないスーパーなどに行けば、さらに出くわすのかもしれない。
 実際、こうして道を歩いているだけでも、ぱゆパむを身に付けている人に多く出くわす。
 なんで今まで気が付かなかったのか。
 利用者数の多い駅から毎日通勤しているし、そこそこネットだって見ている。なのにどうして俺は世の中にあのピンクの綿飴が氾濫していることを知らずにいたのだろうか。
 ああ、今朝はメールを読む気も失せる。
 案件に関する連絡が夜中のうちに何通も届いているはずなのだが、全く目を通す気になれない。
 ……一体いつからこうだった。
 学生の頃はこうではなかったはずだ。
 こう見えても俺はかなりディープな方のアニオタで、古典から最新までを網羅するほどのサブカルツウだったはずなのに。
 だけど、最近は好きだったゲームもやらないし、アニメもたまにしか観なくなった。
 それに、旧友とも疎遠になっている……。
 ああ、そうだ。
 今日あたり、近場で働いている友達に声を掛けてみるか。
 俺はようやく抜け穴を見つけたような心地でラインを開いた。
 心当たりのある旧友のアイコンをタップすると、もういつのやりとりか分からない過去の会話が目に入る。
 画面をさらに過去に向かってスクロールすると、次々にアニメキャラのスタンプが踊る。
 お互いアニオタだったから、思い思いの好きな推しキャラやネタキャラのスタンプを投げ合っていたのが随分と懐かしく思える。
 俺は始業のベルさえ耳に入らず夢中になって友人を次々に呑みに誘い始めた。
 だが四人目の旧友のアイコンを見た瞬間、俺の指はぴたりと止まった。
 そこには、あのピンクのキャラクターがいた。
 心臓が大きく跳ねた。
 俺は慌ててケータイを鞄に放り込んだ。
 そのとき、大熊課長がわざとらしく咳ばらいをした。
「沼田。仕事始まってるぞ」
「すみま……」
 平謝りした瞬間、課長のネクタイが目に入り、言葉が途切れた。
 そこにはまたあのピンクの――
 咄嗟に、膝が伸びた。
「そ、外回り行ってきます!」
「なに? そんなスケジュール昨日言っていなかっただろう」
「すみません言い忘れていました」
「おまえ、そういうことは――」
「とりあえず午後には戻りますんで」
「とりあえずって……おい! 沼田!」
 課長の声が背中の方でこだましていたが、それを無視して、足早にオフィスを飛び出した。
 慌てて走ったので、一階のラウンジに着いたときには息も絶え絶えになっていた。
 ――なんだってんだ、一体……。
 無意識に胸を押さえた。
 手が小刻みに震えている。
 心臓の鼓動ではない。スマートウォッチが通知を報せた振動だ。
 ラインに一件受信があったようだ。
 ケータイで開くと、呑みに誘った旧友の一人からだった。
 〈いきなりじゃん、久しぶり!〉
 〈今夜なら空いてるぞ~〉
 ほっと息をついた。
 だが、次の瞬間、心臓が凍り付いた。
 〈仕事上がったら教えてくれ!〉
 そのメッセージの下には、ぱゆパむのスタンプが踊っていた。


  * *


 ビールを一気に飲み干すと、前田は酒気の混じった息を大いに吐いた。
「いやーなんだなんだ、急に呼び出して。もしかして結婚か?」
 四年ぶりに会う前田は記憶に残る面影よりも二回り程分厚くなっていた。
「もうしてるよ」
「はあ!? マジかよ、水臭いねえなんで俺のこと呼ばなかったんだよ」
「式はやってないよ。親族だけでお祝いして終わり」
「へえ、なんで?」
「コロナ」
 正確に言うと、コロナ前から式は挙げないつもりだったけどな。
 俺は挙げても良かったけど、妻は友達が少ないと言うもんだから。
「ああ、そういうことね」
 前田は何やら納得した風の表情を造った。
 あ、思い出した。
 そういえば、こいつはこういうずけずけした性格だったな。
「で。お前こそどうなんだよ。何だか前よりも貫禄がついてるようだけど?」
「だろ! 奥さんが美味いもん作ってくれるからな!」
「なんだよ、お前こそ人のこと言えないじゃんか」
 前田でも結婚するんだな。
「お互い様だろ。俺も式挙げてないし」
「へえ。前田もコロナ?」
「そうじゃなくて、式なんて挙げたいと思ってなかったんだよ。最初から」
「え、なんで?」
「だって、式なんか挙げたところで金が掛かるだけでメリットそれほどないだろ。それよか、その金で旅行でもした方がよっぽど有意義じゃん」
 メリット?
「でもさ、一生に一度の思い出が作れるしさ……」
 前田はたこわさを頬張ってチューハイに手を伸ばした。
「一生に一度の思い出なら旅行でも十分だろ。別にわざわざ作る必要なんてないじゃん。っていうか、思い出作りなんてものに大金掛けるなんて馬鹿みたいだ」
「馬鹿、みたい……?」
「そんで、子どもは?」
「え? ……ああ、まだだよ」
「へえ、っていうことは作るつもりなんだ」
「まあ。っていうか、結婚したら子どもはセットみたいなもんだろ」
「はあ? 別に結婚したからって子育ては義務じゃないだろ」
「え?」
「え、じゃねえよ」
「あ、あぁ……まあ、確かにそうだな」
「奥さんは産みたいって?」
「もう少し経ってから決めたいって」
「そうかぁ。まあ、大きなお世話かもだけどさ、よくよく話し合った方がいいぞ」
「お前に言われんでも分かってるよ。ってか、なんで説教されてんだ、おれ」
「わりいわりい。なんか最近世話焼くのが癖になってきてさ」
「三十路過ぎたらもう中年ヅラかよ」
「三十にもなったら十分オッサンだっつの」
 前田はあん肝を頬張りながら日本酒に手を伸ばした。
「沼田は呑まなくていいのか? 誘っておいて全然杯が進んでねえじゃん」
 俺はぬるくなった一杯目の生ビールを慌てて喉に流し込んだ。
「……お前と違って話しながらじゃものが食えないんだよ」
「よく言うよ、飲みサーに居たくせに」
「そりゃ一年ときの話だわ」
「そうだっけか?」
「やっぱお前歳とったんじゃねえか」
「……そうかもなぁ。なんか最近昔のことがどんどん曖昧になっていくんだよ」
「ふうん」
「例えばさ、学生んときよく一緒に深夜アニメ観てただろ」
「ああ、そういやそうだな」
「じゃあ、一緒に何観てたか思い出せるか?」
「当然。マクロスだろ、まどマギだろ、フェイトだろ」
「もっとその他にも観てただろう」
「んー……ノイタミナとか?」
「ノイタミナの何だよ」
「確か、あの頃はハチクロとかやってたような」
「ほんとか? それ、確かに俺と観たのか?」
「…………あれ。言われてみれば、誰と観たのか正確に思い出せないな」
「ちなみに、俺はお前とマクロスを観た覚えはない」
「え!?」
「だって、あのアニメやってたとき俺たちまだ高校生だぞ。大学で出会ったのに一緒にリアタイできるはずねえだろ」
 ……確かにそうだ。
「だけど、なんかお前と観たような覚えがあるんだよなぁ」
「記憶なんてどんどん曖昧になっていくもんだ。たまに夢と混同してるときもあってさ……お前も気を付けろよ」
 前田は残りのたこわさをパクリと口に頬張った。
「とろこでさ、お前ぱゆパむのスタンプ使ってるじゃん」
「おお。それがどうかしたか?」
「いや、あのキャラクターってどんくらい人気なのかなぁって思ってさ」
「どんくらいも何もめちゃくちゃ人気だぜ。昔からさ」
「え、昔からぁ?」
「流行りだしたのが五年くらい前で、生まれたのはもっとずっと前だよ」
「嘘だろ。あれ、そんな前からあんのかよ」
「なんだよ、なんか突っかかる言い方だな」
「いや、それがさぁ……」
 俺は会社の上司がぱゆパむにはまっている件を前田に話した。
「信じらんねえよ、あんな後期中年の代表格みたいなオッサンがピンクのキーホルダーぶら下げてんだぞ」
 前田が眉間に皺を寄せた。
「沼田さぁ……」
 咄嗟に、嫌な予感がした。
「なんだよ?」
「なんだよ、じゃねえよ。他人が何を好もうがそれはその人の勝手だろう?」
 前田は妻と全く同じことを言った。
「いや、でも、普通にキモイだろ。五十のオッサンがリュックにキーホルダー着けて毎日出勤してくんだぞ!」
「それがなんだよ」
「それがなんだじゃねえよ、キモイだろって言ってんの」
「キモイって、また懐かしい言い回しだな」
「はあ?」
「いや、そりゃ昔はさ。そういうの俺も気持ち悪いなぁって思ってたよ。だけど、それくらい趣味の範囲っていうかさ」
「いや、全然許容できねえよ。なんであんな得体の知れないキャラクターにはまるのか理解できない」
「そう思うのは人の勝手だけどさ。俺だってぱゆパむ好きだし、なんか俺はお前んとこの上司に肩入れしちまうんだよな」
「お前やっぱ歳くったな。昔は俺と意見がよく合ってたのによ」
「お前が変わらなさすぎるんだよ」
「たった十年そこそこで人が変わるかよ」
「……まぁ、そうかもな」
「あっさり掌返すんだな」
「返してねえよ」
 前田はスーツの内ポケットからスマホを取り出した。
 そのスマホからストラップがぶら下がっている。
 俺は思わず目を見張った。
「俺、十年前からずっとぱゆパむのグッズ集めてるぜ」
 ぷらぷらと揺れているピンクの綿飴が、少しだけ黒ずんだ色をしていた。


  * *


 ぱゆん♪ ぱゆぱゆ、けむくじゃら♪
 パむん♪ パむパむ、ピンクじゃら♪
 ぱゆぱゆパむパむ♪
 パむぱゆぱゆパむ♪
 ぱぱぱぱむむむむ♪
 ぱゆん♪
 パむーん♪
 ピンクのつのーは夢のパむん♪
 ピンクの瞳は甘いぱゆん♪
 ぱゆん♪ ぱゆぱゆ、けむくじゃら♪
 パむん♪ パむパむ、ピンクじゃら♪
 今日もぱゆパむー!♪
 ぱゆパむー!♪

 気付けば、毎日どこかしらからぱゆパむのイメージソングが聞こえてくるようになった。
 そろそろ耳の中にピンク色のカビが生えそうだ。
「ねえ、浩司くん見てよ、かわいくない?」
 妻はぱゆパむグッズに夢中になっている。
 今はぱゆパむの絵柄が眩しい幼児向けの靴下を指さして大はしゃぎだ。
 最近ではネットで知り合った得体の知れん連中とのオフ会に出かけることもしばしばである。
 ちなみにぱゆパむの熱狂的なファンをぱゆまーとかいうらしい。
「気が早いよ。まだ生まれてもいないのに」
 妻は俺の子を身ごもった。
 意外なほど乗り気でなかった妻を説得して、ようやく授かった俺の子宝だ。
 そんな息子に、こんなけったいな靴下を履かせなければならないのか。
「ぱゆん♪ パむーん♪」
 妻は上機嫌に鼻歌を歌っている。店の中だというのに、まるで周りの目を気にする様子はない。
 こんなにはしゃぐくらいなら、なんで最初から子どもをつくることにもっと積極的になってくれなかったんだよ。
「どうしたの、浩司くん。ぼーっとしちゃって」
 俺は内心の不機嫌さを表情に出さないように努めて、振り返った。
「なんでもないよ」
 もう我慢の限界だ。
 俺はネット掲示板でぱゆパむのアンチスレを探した。
 だが、そんなものはひとつも存在しないことがすぐに分かった。
「なんでだよっ」
 そして探せば探すほどに、無数の板とぱゆパむスレが見つかった。
 驚いたことに、最初の書き込みは今から二十年前にも遡ることができた。
「……どんだけ昔からいるんだよ」
 仕方なしに、俺はぱゆパむのアンチスレを独自に立てることにした。最早それしかない。

〈ぱゆパむとかいうピンクのカビが蔓延っている件〉

 ネットの匿名掲示板というのは、人々の本音の集積地帯、いや処理場だ。
 俺のように日頃世間でもてはやされる事物を看過出来ない輩がごろごろと集まってくるはずだ。
 だが、そんな期待に反してスレは一切伸びなかった。
 唯一ついたレスは、

〈1乙〉

 それだけだった。
「なんでだ!」
 だが、翌日になり、少しずつレスが伸び始めた。

〈このスレ自体がセウト〉
〈ぱゆパむを汚す不届きな1〉
〈ああ、ついに気が付いてしまったか〉
〈風呂掃除しろ定期〉
〈アンチスレ民以外は即退場〉

 ようやくきたか。

〈主だけど、おまえらこいつのこと好き?〉

〈カビはきらい〉
〈マジレスするとカビキラーは漂白剤〉
〈風呂場のピンクのやつはオキシで消えるよ〉

〈俺はなんでこんなのが流行ってるのか意味が分かんない〉

〈1ガチだった〉
〈ぱゆパむがカビだったら1はなに?〉

〈最近何処でも見かけるんだけどちょっと異常じゃない?〉

〈異常と思う1が異常な可能性は?〉

〈俺は異常じゃない〉

〈普通の人が疑問にも思わないことを疑問に思う1は天才?〉

〈俺は天才でもない〉

〈マジレスするとかわいいんだからいいじゃない〉

〈感性は人それぞれ。だけど俺はオジサンが着けてるとこ見てるとキツイ〉

〈そうだね感性は人それぞれだね。オジサンがぱゆまーなのも感性だからね〉

〈皆はあれ見てて平気なの?〉

〈1はレイシスト?〉

〈ちがうよ。だけど、昔はもっと違ったじゃん。あんなものはもっと一部のマニアにしか受けなかったのに〉

〈もうこれスレチじゃない?〉
〈メンタルヘルス板じゃねえぞここは〉

〈俺は病気じゃない。まともだ〉

〈そんなことでスレ立てるか普通〉
〈まだこんなやついんのかよ〉
〈スレ主何歳なの?〉

〈三十二歳だよ〉

〈はい嘘松〉
〈老害の嘘って分かりやすいよね〉
〈逆張りする奴って必ずいるけどさすがにぱゆパむアンチはわろえない〉

〈みんなの言ってることが分からないよ〉

〈なんでぱゆパむが嫌いなの?〉

〈ぱゆパむが嫌いなんじゃなくて、ああいうものが世間にこんなに受け入れられているのが不思議。ってか違和感〉

〈ああ。1って昔いたアニオタとかキモイって言ってた層の人?〉

〈むしろ俺はアニオタだったよ〉

〈ハア?〉
〈だったら、わかるでしょ〉

〈え?〉

〈時代が変わったんだよ〉


  * *


「ねえ、浩司くん。育休ちゃんととれそう?」
 妻は大きくなったお腹を丁寧に摩りながら、ピンク色のひざ掛けに手を伸ばした。
「うん。今の案件が終わればあとは引き継ぐ予定だから大丈夫だと思うよ」
 妻は満足気に頷いた。
 俺はショッキングピンクのボアジャケットに包まれた妻の姿を呆然と眺めた。
 外は寒気に包まれている。
 電車の音が鈍色の空にこだまする。
 中干にしている桃色の下着がエアコンの風に揺れ、まるで千切れ飛んだピンクの綿飴が持ち主を探して右往左往しているみたいだ。
 いたたまれなくて、俺はテレビをつけた。
 休日のお昼のニュースが今日の天気を予報する。
 東京は、晴れのちくもり。
 リアルタイムの空はすでに灰色。
 テレビではピンク色に染まる渋谷のセンター街が映っている。
 スクランブル交差点は、ぱゆパむのコラボ商品を着た人々で溢れていた。
「いいなぁ」
 妻が呟く。
「私もユニクロのやつ欲しかったなぁ」
 ユニクロのぱゆパむコラボフリースジャケットは、発売開始早々に即完売した。現在はメルカリなどのフリマアプリのストアで定価の倍の値札がついている。
 クリスマスが近い。
 俺は妻のお腹を見ながら、横目でヤフオクを眺める。
「あ、そうだ。補助金の申請ってやり方分かった?」
「もう調べといたよ。生まれてから手続きすればいいらしいから、まだ焦らなくても大丈夫だよ」
「よかった。ほんといいタイミングだったよね」
 俺は頷く。
 出産に関わる費用が全額免除になる制度が緊急制定されたのが二か月前のこと。
 ずっとシルバー民主主義だと揶揄されてきたこの国の政治が少しずつ変わり始めている。
 近頃は会社の雰囲気も変わった。
 皆、いつも穏やかな表情をしている。
 とくに大熊課長が最近気持ち悪いくらいに優しい。
 昔はハラスメントで何人も部下をやめさせていた人物とはとても思えない。
 いつも不機嫌だった表情が緩み、眉間の皺が明らかに減った。
 ただ、その代わり仕事のミスが増えた。
 見積も甘くなり、コストが増加傾向にある。
 だけど誰もそれを問題視しない。
 俺は相変わらず徹底的に相見積もりを取り続けているが、周りは果たしてやっているのだろうか。
 釈然としないが、なぜか会社の売上も増加している。
 そういえば、最近取引先からの問い合わせが減っている気がする。
 クレームらしいクレームもない。
 大丈夫なのだろうか。
 今まで厳しいチェック体勢で維持していた安全や高品質は担保されるのだろうか。
 妻は穏やかな表情でお腹を摩っている。
 俺は、まだ少し落ち着かない。
 そうだ。今日は買い物をしなきゃいけなかった。
「ちょっとスーパー行ってくるよ」
「え?」
「ほら。冷蔵庫空っぽだろ」
「そうだった。ありがと」
「一時間くらいで帰ると思う。なんかあったらすぐ連絡して」
 妻はピンクの毛に包まれたスマホを掲げて見せた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 五年乗っている黒いクラウンのエンジンを掛けると、妙に懐かしい音が返ってくる。
 道を走らせれば、ポップなカラーリングの電気自動車が音も立てずに幾台も通り過ぎていく。俺はなんだか気恥ずかしい気持ちになる。
 昔ユニクロで買った茶色のフリースも、黒いカーゴパンツも、なんだか野暮ったく思えてくるし、ナイキのエアフォースなんて、もう時代遅れと感じてしまう。
 歩道を歩く人々は皆パステルカラーの衣服に身を包んでいる。
 水色、黄緑、桃色、黄色。
 まるで戦隊ヒーローみたいな色の取り合わせだ。靴なんて、みんなアニメから飛び出してきたようなハイテクスニーカーばかり見かける。
 それに比べると、俺はまるでやられ役の雑魚怪人のようだ。
 それでも、まだ俺の心の中には違和感がある。
 昔はこうじゃなかった。
 カラフルな色よりも、人々はもっと無難なモノトーンを好んでいたし、社会は優しさや柔和さよりも厳格さや正確性を尊んでいた。
 一体、いつからこうなったのだろう。
 カーステレオからぱゆぱむのテーマソングが聞こえてくる。
 あれほど聞き苦しかったその電波ソングに俺はすっかり慣れてしまって、最早何も感じない。
 俺の中から確実に、この違和感が薄れつつあるのだ。
 大熊課長はどうして変わったのだろうか。
 未だに戸惑っているのは自分だけなのだろうか。

〈時代が変わったんだよ〉

 確かに、世の中は変わり続けている。
 俺が高校生のときには、エヴァだのガンダムだの、ましてや女児向けのアニメの話題だのなんてのはご法度で、教室は芸能人とドラマとバラエティと狭い世間のゴシップに溢れていた。
 あのひりひりした感覚が、今ではもう思い出せない。
 パチ屋に行けば、エヴァのグッズを身に纏う高齢男性に出会う。あの世代は、たしかかつてオタクを見下していたのではなかったか。
 俺があれほど当時身に付けたかったグッズを、彼らは今、何の気負いもてらいも、恐れもなく自らの一部としている。
 彼らはすっかり変化したのだ。時代に、順応し、つらっと現代人になってしまった。
 信号が赤に変わる。
 ぱゆパむのラッピングバスが目の前に迫ってくる。
 視界がピンクに侵された。
 視線を逸らすと、ユニクロの看板が目に入り、俺は思わず凝視した。
 ちょうど出口から俺と同世代くらいの男が出てきたのだ。
 その手に持っている紙袋から、ピンクのもじゃもじゃがはみ出ている。
 妻の顔が脳裏に過った。
 前のバスが少し前に出た。
 俺はほんの少し指に力を込めて、ウィンカーを左に倒し、ハンドルをきった。


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