2023年10月の聖書タイム「恵は増えに増える」


by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」

ーーーヨハネによる福音書6:9

みなさん、日本で一ヶ月ほどの休暇を過ごしてきた私ですが、英国に戻って何が一番恋しいかというと、季節感のある美しい新鮮な魚が店頭に並ぶ有様です。秋はなんといっても秋刀魚。日本のニュースでは「今年は海流の温度の変化から、秋刀魚が不漁で、形も小さく、その割には値段が高い」というような話題が連日のように流れていました。年に一回、佐藤春夫の詩の一節を思い出すのもこの頃です。
「さんま、さんま、さんま苦いかしょっぱいか、そが上に熱き涙を滴らせて さんまをくうはいづこの里のならひぞや。」

福音書には何回も魚の話が出てきますが、ガリラヤ湖なので残念ながら、当然、秋刀魚ではありません。けれども魚が絡む話は、たいてい奇跡の話です。例えばルカによる福音書5:1ー11に記述されているように、ペテロが初めてキリストに出会った時は一晩中、徹夜で漁をしてもうまく行かなかった朝のことでした。キリストは漁師ペテロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言いました。ペテロはベテラン漁師の自分にアドバイスするキリストに「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、礼儀として、もう一度、網を下ろしたのでした。するとどうでしょう「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」とあります。キリストはそこで、すかさず「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言い、恐れ入ったペテロは弟子になりました。

福音書の中には様々な奇跡が記されていますが、4つの福音書に一貫して記載される有名な「魚」の奇跡は、ご存知ですよね。それは、少年が持っていた弁当、5つのパンと2匹の魚が、キリストの祈りによって、男だけでも五千人分用に増え彼らが満腹してもなお、12の籠にいっぱいになるほど余ったというものです。マタイによる福音書14:13ー21には、五千人を食べさせた話に加え、15章32ー39にも、七つのパンと少しばかりの小さい魚をもって、男だけで四千人に食べさせたという記述も載っています。そして、マルコによる福音書にも四千人の記述があります。

ところで、この「パンと魚の奇跡」に、つまづく読者は多いです。「まるで手品みたいじゃないの?」、「ふふん、2匹の魚が五千匹以上にね?」、「4人の福音史家が、全員示し合わせて書いたから全福音書に登場するのでしょうね」等々。あなたは、どう思われますか?無理矢理、次のように解釈する人もいます。「小さな子供がお弁当を出したので、大人たちも自分たちが持っているものを出し合い、分かち合ったので、皆が満腹したという意味よ」ーーー確かに美談です。

 信じるか、信じないかは、その場に居合わせなかったので、確かに誰もなんとも言えないかもしれません。けれども、この話を読んで「手品みたい」だけで終わるには、もったいない。パンや魚が増えたという点を云々するよりも、大切なポイントがあります。まずは、その場面を想像してください。

第1点は「キリストは私たちの日々の必要性をご存知だ」ということ。これは「主の祈り」の中にも「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とある通りです。この場面では夕暮れになってもなお、キリストの話を聞きたいと願う群衆が、そろそろ疲れて空腹だろうと弟子たちとキリストが話し合うところから始まります。ここに、人の形をとったが故に、人の弱さを知り尽くす神の子の気配りが感じられます。

 第2点はキリストは問題解決方法を既にご存知だという点です。ヨハネによる福音書6:5でキリストは弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えば良いだろうか」とわざと質問しましたが、「こう言ったのはフィリポを試すためで、ご自分では何をしようとしているかご存知だったのである」:6とあります。キリストは旧約聖書に既に記されていた列王記下4:42から終わりの箇所をフィリポに思い出してもらいたかったのかもしれません。その下りは次の通りです。それは飢饉の最中の出来事でした。

 「一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」召使がそれを配ったところ、主の言葉の通り彼らは食べきれずに残した。」キリストは答えは常に父なる神が持っていることをご存知でした。ですから、彼にとって「奇跡」はないのです。なぜなら神は全能だからです。

そして最後のポイント。このパンと魚の増え方は、天のお父様が私たちにくださる豊かな「恵」のイメージを彷彿とさせる箇所。キリストの行動をもう少し注意深くみてみましょう。荒野にはコンビニもパン屋もありません。お金があったとしても、男だけでも五千人、加えて女たちも、子供たちもいたわけですから、持っている資金を食費にあてて解決することは土台無理でした。キリストには、弟子を呼んで群衆の懐からなけなしの金銭をはき出させ、誰かが代表して隣町まで走ってパンを買いに行かせようという、言ってみれ人間なら誰でも考える結論は持ち合わせていません。むしろキリストは少年の小さな弁当、不足で少ないものに着目されました。そして、そのほんの少しのものにも感謝し、祈りを持って、お父様に祝福をこうたのでした。神様はささやかなものに感謝する人間のこころを喜ばれます。

ヨハネによる福音書6:11によると、さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々にわけ与えられた。また魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」とあります。

 私たちは、日本のデパ地下に行って、財布の紐をゆるめ、買えるものを買って食卓を彩ります。デパ地下に行かないで家に閉じこもって、一つの梅干しをみながら祈れば、それが五千個になると言っているのではありません。私たちは、日々の糧だけでなく、自分に与えられた細やかな喜び、幸せを感謝することを忘れていませんか。あの日、群衆は、もちろんパンと魚を食べただけではありません。キリストの話を聞いたからこそ、魂だけでなく肉体面でも十分満たされたのです。聖書には次のようにあります。

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に撒けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」ーーーマタイによる福音書13:31ー32

今朝、犬の散歩の途中、コモンで、無数のクリを拾いました。天を仰ぐほどに大きく育った栗の木からは、パチンと弾けるような音と共に栗が、ぼとぼとと地面に落ちてきました。小さな栗の実を一つ一つ拾っていったら、袋がいっぱいになり重くなりました。そこへ老人が一人。彼は私の栗を羨ましそうに見つめていましたが、腰を曲げて栗を拾うことができません。そこで私は老人のポケットがいっぱいになるよう、拾った栗を鷲掴みにして彼と分かち合いました。その帰り道、私はまたたくさんの栗を拾い、袋は元のように重くなったのです。

確かに神様の恵は「小さなものを分かち合う」ことで、さらに大きくなるようです。「2匹の魚、5つのパンを感謝し、人々と分かち合った」ーーーそこに神様の恵の方程式があります。

 その神ご自身もまた、一つしか持たないものを私たちと分かち合ってくださいました。それは、独り息子キリストの命です。 

この無償の愛を、そこまでして私たちに分けてくださる神にとって、人間は一体何者なのでしょうか?この暗澹たる驚きの声は古人によって詩篇8:5に既に記されています。

「そのあなたが御心に留めてくださるとは

人間とは何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。」