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【私たちのまちの自慢人@広島】『風が吹いたら風に臆せず乗ってみる』 安田女子大学現代ビジネス学部現代ビジネス学科 立花知香准教授

街のカルチャーを作り出し、それぞれのライフステージに合わせて選択している全国各地の女性たちに迫る『私たちのまちの自慢人』。

一昨年(2019年)始まったオンラインコミュニティの拠点“東北”中心に、オンラインコミュニティメンバーが迫ってきました。

そして昨年(2019年)9月から間口を広げ、広島でもオンラインコミュニティの活動が始まりました!
メンバーは、去年WI代表の大山が登壇させて頂いたイベントで出会った安田女子大学 現代ビジネス学科の立花ゼミに所属しています…!

立花ゼミメンバー集合写真

*写真撮影時のみマスクを外しています

そんな記念すべき初の広島取材でお呼びさせて頂いたのは、オンラインコミュニティ@広島メンバーのゼミ担当教員、立花知香准教授。

立花先生ゼミメンバーによる先生の印象

石橋:
凛とした強さを感じる先生で、いつもパワフル
小田:
言葉使いや仕草が礼儀正しくて、元気いっぱい
板倉:気品があって芯が強く、自分の道を突き進んでいる
遠西:
しっかりしてそうに見えて、お茶目な一面もある
灰垣:
常に礼儀正しくて、凛とした雰囲気
船田:
いつも元気ハツラツで潔い

「白鳥が綺麗に見えるのは、水面下でバタバタしているから。バックステージで泣いてしまうこともあるけれど、そう決断した自分を信じて楽しみながら、清々しい顔をしていたい」と語る先生の姿。

私たちが迷って相談する度に、「進みたいように進みんちゃい」とメッセージを下さる先生の原点には、“出来ること”を紡ぎ続け、積み重ねて来られた全ての経験が詰まっていました。

立花先生写真

立花知香先生:1989年に地元自動車メーカーマツダ株式会社入社。一般事務職として、海外営業本部配属。1996年に退職後、アルバイト、派遣社員を経て、人材派遣会社に就職し、人材コーディネーターに。その後退職し、パフォーマンス学の講義を受けるため月2回上京。
安田女子大学大学院教育学修士課程に入学し、各種非常勤講師を務める。安田女子短期大学秘書科配属講師と並行し、日本大学大学院芸術専攻後期課程修了。青年期女子のソーシャルスキルズ育成に関する研究。現代ビジネス学科へ秘書科統合され、現在に至る。

『女子大生ブームで、東京に憧れを抱いていた高校時代』

WI大山:1年前に有難いご縁で出会った先生に、ゼミメンバーとお話伺えることが夢みたいで…!今日を楽しみにしていました、宜しくお願いします!

立花先生

右から2番目:安田女子大学 現代ビジネス学部 現代ビジネス学科 立花知香准教授
右端:広島管財株式会社 代表取締役・広島経済同友会 ダイバーシティ委員会委員長 川妻利絵さん

WI大山:ご経歴に「児童教育学科に進学」と記載されていたのですが、何となくでも先生になりたいという想いに至るまで、何かきっかけがあったのでしょうか。それは、進路選択をする高校生の頃ぐらいに明確になったのでしょうか。

立花先生:幼稚園の頃に、幼稚園の先生になりたいというのを話していたそうです。
その後、中高一貫校に進学し、頑張らなくても6年間ストレートで進めるので、勉強熱心じゃなかったんです。学校生活自体は楽しく、人に迷惑かけていないならそれでいいと思っていました。

私が大学受験する頃は、ちょうど女子大生ブームで、とにかく東京の女子大生になりたかった。CanCamやJJを見て、「女子大生ってこういう感じなんだ。私もそこに入るんだ」と想像していたんです。そこで親に「東京の女子大に行きたい」と相談してみたところ、「何の目的もないまま東京に出なくてもいい。広島にも大学はあるから広島の大学にしなさい」と言われ、東京に行けないなら勉強しなくていいと思いました。そんな気持ちでセンター試験(共通1次テスト)の後に、広島大学を受験したのですが、勉強していなかったので落ちました。

幼稚園生の頃に「幼稚園の先生になりたい」と話していたこともあり、興味がある分野を学ぼうと、児童教育学科がある安田女子大学に進みました。大きな期待もなく、夢も膨らんでいない状態で、「先生にでもなれたらいいかな」くらいフワッとしていました。入学後から授業自体は楽しく、普通の学生生活を送っていました。

『子どもたちの命を預かる重さに自信を失った教育実習』

WI大山:ご想像されていた生活とは違う着地だったとのことですが、切り替え力で前進されていたんですね!将来の進路決定を前に「これからどうしよう…」という声をよく耳にするので、何が決め手となって先生はファーストキャリアを選択されたのか教えて頂きたいです!

立花先生:3,4年生で教育実習に行った際に、子どもたちの命を預かるという重さに自信を失い、教員はそんなに簡単な仕事じゃないと思うようになりました。その後、真面目に自分の職業について考え始めましたが、「教員と教員以外の何か」で何となく悩んだ末に、一般企業への就活を始めました。8月の解禁日に大学の就職課の壁面に張り出してある求人票を見ましたが、何が決め手になるのか全く分かりませんでした。

そこで取り寄せた資料に書かれていた番号に電話をかけ、説明会に参加し、いくつか受けた中で残ったのがマツダ。〇〇の仕事がしたいという決め方ではなく、誰も何も教えてくれなかった。最終的には、私の出身地の近くにあり身近な存在で、求人票に記載されていたマツダに応募しました。

WI大山:「もともと自動車に興味があったから」ではなく、色々なルートを通って、たまたま辿り着いたのがマツダだったんですね!

立花先生:「この会社の名前、聞いたことある!だから受けてみようかな」と思う程度で、車自体にあまり興味はありませんでしたね(笑)。

『社内環境がガラッと変化した最初の就職先』

WI板倉:8年近く働いたマツダを退職し、その後派遣社員やアルバイトとして働かれていたとのことですが、退職した理由と働き方を変化させた理由が気になりました!

立花先生:マツダには、一般職として入社しました。配属された海外営業本部では、そこそこの仕事をして、毎日楽しくて!「働くことはなんて楽しいんだ」と思いながら、過ごしていました。それに加えて、時はバブルで会社の勢いがある頃だったので、とても華やかな感じがしていました。

その後、バブルが崩壊し、一気に業績が悪化していくと、若手男性が出向(企業との雇用契約はそのままに、別の企業へ異動すること)し、仕事の手順が分かる女子社員に、男性の仕事が回ってきました。楽しく仕事をしていたけれど、入力した数字や作成した資料が、どういう意味を持つものなのか分からなくて。段々仕事も会社も面白くなくなっていって、おそらくこのままいたとしても、同じような感じが続くだろうと思い、辞めるか考えました。

そんな選択肢があるんだと気付いてからサッパリして、次に何かあるだろうぐらいの気持ちで退職しました。ところが、27,8歳の一般職女子を雇う会社はなく…。働かないわけにはいかないので、派遣社員の仕事をし、30歳になったぐらいで、小さな派遣会社で3年間コーディネーターとして働きました。景気が悪い時期で、人材派遣も増えていたので、基本的なマナーやパソコンの基本的な操作を教えて送り出す仕事をしていました。

その時「私こういうの好きだな」と思いながらも、我流で教えていたんです。なのでちゃんと勉強したいと思うようになって、探していたら、ある時「東京にパフォーマンス学を習いに行っています」と書かれている新聞のコラムを見つけて。何か機会があればという気持ちで、切り抜いたそのコラムを持っていました。

しばらくして何かでまたパフォーマンス学を目にし、隔週金曜18時半から新宿まで授業を受講しに行こうと決意しました。また会社を辞め、アルバイトしながら、憧れの東京に行けることが楽しくて仕方なかった。
そこで私よりも先に広島から通っている方がいることを知り、コンタクトを取ってみたら、比治山女子短期大学の先生で、私を引き上げてくださった方なんです。そこから大学への道が続きます。

WI小田:先生の学ぼうという意欲に、ただただ圧倒されます! 

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*写真撮影時のみマスクを外しています(9月16日取材終了後)

『自ら退路を断ち、逃げ道をなくしてみる』

WI大山:教育学の修士課程を取得後も、大学院で芸術を学ばれていたとのことで、各フィールドで「学び」を探求したいという印象を抱きました。学び続けたいという気持ちは、何に触発されているのでしょうか?

立花先生:パフォーマンス学を学んでいた時に、大学院で勉強したらどうかと勧めてくださった方がいたからです。当時開かれていた安田女子大学大学院を受験し、大学在学中にお世話になった教授に教育心理学の先生を紹介して頂き、その先生の下で研究していました。

安田女子短期大学の秘書科に教員の欠員が1名あると聞き、すぐに履歴書を持っていくと、当時大学院生だった私の大学院修了まで待って下さり、採用が決まりました。教員にならず、最初の就職先(マツダ)も辞め、「何かしないと」と考え、新しいものを見つけて勉強しに行った先で出会いがあり、自分の可能性を広げてくれました。

偶然が偶然を呼んで今に至っているのですが、もしアクションを起こしていなかったら、全く違う人生だったかもしれない。「必要は発明の母」と言うように、その時必要だったのだと思います。
コーディネーターをしている際も、基本的な知識やこれは正しいのかと根拠が欲しかったので、学ぶことにしました。大学教員になったら、自分の専門分野を極めるためにも学ばなければならないと感じました。

キャリアの研究の中に、planed happenstance(計画的偶発性理論)という理論があり、偶然の出来事が自分のキャリアの元になっていると言われています。誰かがやってくれるのではなく自分からやるものであり、チャンスを増やすためにも、自分で動くことは必要だったのだと思います。

私は自ら退路を断ち、逃げ道をなくすことで「やるしかない」という気持ちが原動力に繋がりました。これまでの人生を振り返ってみると、その要素が強い気がします。

『風が吹いたら風に臆せず乗ってみる』

WI船田:立花先生はその都度、働き方を変えながら働き続けられていると思うのですが、ロールモデルはいらっしゃいますか?先生の潔さは、タイミングに身を委ねてみようという気持ちから来ているのでしょうか?

立花先生:
厚生労働省の事務次官を務められた村木厚子さんなど、私の前を歩いている先輩方の活動は素敵だなと思っています。
「このように生きていきたい」などのロールモデルは、今のところ思いつかないのですが、退路を断つという意味では潔いなと感じていて、風が吹いたら風に臆せず乗ることを意識しています。

WI板倉:ご経歴を拝見していて変化に抵抗が無いという印象があったのですが、最終的な決断時の軸はありますか?

立花先生:抵抗がない訳ではなく、当然迷いもあります。軸にしていることは、①自分で決めること、②誰の責任でもなく、自分が傾いた方に進むこと。ブレてしまうこともあるけれど、その時その時自分で決めた方に行くようにしてきました。というのも、めまぐるしい社会の変化に対して、軸が邪魔になってしまう場合があるので、世の中に敏感になって合わせていくことが大事だと思っています。

WI小田:ウーマンズメイン読者の高校生から大学生が「自分を生かす選択をするため」に、最後にメッセージをお願いします!

立花先生:「これ素敵だな」「これやってみたいな」と思う興味があるものを、自分で体験をすること。失敗したところから新しい発想が生まれるかもしれないから、やってみて「向かないな」「失敗したな」もいいと思います。

WI大山:流れに添いながらも、そこでのご縁と機会を“自分ごと”にされて来られた先生から、貴重なお話伺えて光栄でした!今日はありがとうございました。

(企画:大山友理、立花ゼミメンバー | 取材:小田美織、大山友理、板倉由茉船田萌 |書き起こし・構成:立花ゼミメンバー |編集:大山友理)


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