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ユートピアと脇役

 近年、家庭で子育てをする女性がワンオペで夫が何にも手伝ってくれないと嘆いているのを良く見かける。男性も女性も雇用機会均等法以来、一見何ら遜色なく働いており、数十年前の様に「女はお茶汲みしてニコニコ笑って愛嬌振り撒いていれば上手く回る」という風潮は次第に無くなったと思える。しかしながら、社会には民法で定められた婚姻制度というものがあり、その制度により村社会の監視による束縛と生物的に妊娠出産する女性の役割というものは依然として古色蒼然と居座っているのだ。西欧諸国を持ち上げる訳ではないが、結婚は元来、一対一で成し遂げるものであり、親や親戚やその他大勢は邪魔をする事なく、子々孫々を繁栄させる為に手伝ってやるくらいの気構えでいるものだと思う。制度はあくまで結婚生活を堅固に守り財産や親権を守るものであり、制度に閉じ込めて隔離するためではない筈だ。フランスには個人のライフスタイルに応じて何段階もの結婚のあり方があると聞く。明治維新以後、洋服や洋風の食べ物を取り入れて列強の国々に肩を並べようとしてきた日本もそれに準じようと努力してきた。

 その事に沿う様な形で、近代日本は劣等感に裏打ちされた個人の価値の低下の問題がある。歴史を追うと長い話になるので事例を取り上げてみる。最近、私はバスに乗る機会があり、バス停で待つ間にいつもの人間観察を決め込んでいたのだが、寒空の下、様子がどうもおかしい人がいる。ふと足元を見てみると何処かのホテルにある様な不織布のスリッパを履いている。持ち物もおそらく拾った物の様だ。実は、日本にも世界各地でも多くの住所不定無職の放浪を続けている方々がいらっしゃる。性別に関わらないとは思うが、女性は性を売る商売もあるので目立っていないだけでそういう状況の男性が目につきやすい。人生で大きな問題があってそうなってしまったのか、私はその様子に、彼らが自分自身に対して厳しい罰を与えているのではないかと思ってしまう。具体的に何があったのかは分からないものの、根本的に他人を信用できない上に、自分をそこまで追い込むだけの劣等感に苛まれ、余程の社会の重圧があったのだろうと推測されるのである。ふと、思い出した事がある。私の親戚に、とても本が好きな優しい叔父さんがいて、小さい頃にたくさん本をくれて家にお邪魔すると炬燵でお菓子を食べながら一緒に本を読み耽り楽しく過ごしていた。その叔父さんは、同性愛者である事を周囲に隠しており、たまに自分の事を一切知る事の無い都会に行くと思いっきり息が吸えると言っていた。その気持ちが、大人になった今とても分かる。余りにも、日本人が誰かの決めた定型であろうとする事、多数派の思う普通であろうとする空気の圧力が強すぎるのだ。そんな社会の役割の歯車としての重圧の中、心がへし折れてしまう人が大勢いる事を忘れてはならない。そこに抗い潰れない方法の一つとして、社会の歯車として役割を果たそうとする人が現代人の大部分を構成していると思うのは何らおかしい事では無い。

 政治にしろ、経済にしろ、自分たちが不幸なのは偉い奴らのせいだ、そうで無かったらそれを糾弾できない学者や識者のせいだ、といった脇役である自分以外の主役級の誰かを叩く風潮が延々と続いている。それに飽き足らず、自分たちと同じ社会の構成員に対しても当たり散らしている。例えば、歯車となっている会社に勤務している人の場合、得意先や顧客の機嫌を伺い、同僚との昇進争いや上司からの駄目出しに辟易しながら他社に負けない様に実績を伸ばす事を目標にし、新しい仕組みや考え方を取り入れる為に本を読んで勉強したりスキルを身につける努力を怠らず、身体が資本だと言われれば時間を作ってジムに通い筋トレをしつつ、親や親戚からは早く結婚して孫の顔が見たいとせつかれるのでマッチングアプリや結婚紹介所に登録する…と文字にするだけでも疲労感が半端ない様な生活スタイルを送っている人がいるとする。仕事の鬱憤は周囲の誰にも言えないし、時間もお金も勿体無いので、代わりに怒りを王様の耳はロバの耳の如くに手近で無料のSNSにぶち撒ける。その様な人にとって、魅力的に映る結婚相手というのは、大抵の事は一人で何でも出来る有能で明るく我儘をあまり言わない人である。何故なら自分は社会生活に疲れ切っており、家庭に於いてはリラックスしたいからである。しかも、自分は経営者では無くただの歯車、脇役なので出来るだけ楽をしたい、面倒な事は考えたくない、与えられた事だけしたい、と思っているとしよう。そういう人がいざ家庭に入ると、自分の疲れを癒す為に家事は何にもしない。子供の面倒はみない。選んだ伴侶は結婚前は何でも一人でやっていた人なので文句は言っていても甘えているだけで出来る筈だから手伝わない。会社で自分の部署に課せられた仕事を分業している様に、家庭も分業が当たり前なのだから手伝う必要性は無いのだ、と心の声を想像してみるのである。人は、余裕が無いと他人の気持ちを推し量る事が難しくなるのだ。ましてや、自分の人生に於いてですら主役になろうとはしない。

 日本人は国民主権というものを忘れている。疲れ切って分業が板について主役と見做す人に文句を言い、自分が社会の主体だと思う自信と気概を喪失している。ユートピアは自分たち一人一人が主役にならないと訪れはしない。家庭でワンオペで苦しいと言っている人は常に自分が主役なので、何故相手が手伝ってくれないのかを嘆かわしく思い気持ちをぶつけようとするが、ぶつけたところで相手は他に安らぎを求めるだけだ。放浪する人、居場所がない人、疲労する人、結婚生活に幻滅した人、本当は全ての人が主役だ。人生に脇役は存在しない。悪い部分は己を見つめ徹底的に反省し改善し訂正し、他人に依存せず良いところを認め足りない部分を手伝う、付かず離れず程良い距離感で浮遊する人間関係の中に、ユートピアは出現するのである。

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