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恋は難問、されど簡単

 私は、今、過去最大の難問に直面している。例えるならば、車の運転の仕方は知っていても車のドアの開け方を知らない、そんなところだ。なぜそんな問題を解き始める事になったかを説明しなければならない。私が目下推している人物の中にいる架空の人物、これを仮にオレ´としよう。このオレ´は、壁にぶち当たっており、果敢に何度も山を乗り越えようとしてるがその山が余りに急峻で度々悪天候に見舞われるために足止めを食っている状態がもう相当長い。このままではオレ´は凍え死ぬより前に気力が挫けて廃人の様になってしまう可能性がある。何とかして助けてやらねばならない。オレ´は手助けする仲間もおり、山を登るための道具もひと揃えある。しかし山はオレ´をまるで試しているかの様に厳然と構えている。オレ´は山に問う。「私には何か足りないのか?それとも何か悪い行いをしてしまったのか?一体どうすれば良いと言うのだ?」山は答えない。それもその筈、山を越えるためには山の謎を解かねば越えられようもないからだ。オレ´が乗り越えようとしている山、その名は究極の恋愛成就だ。

 私は助ける、と言ったが、救済者になりたい私自身も実は山の謎の解き方は知っていても奥義書に掛けられた鍵の開け方は知らない。これには理由がある。その説明もしなくてはいけない。私は人生において恋愛対象である男性に対して余り良くないイメージを抱き続けている。父親が暴君だったために男性に対する恐ろしさと軽蔑をごく幼いころに感じ始めており、実際、他の大人たちについても質の違いはあっても取りも直さず尊敬に値しない俗物揃いで要は「憎しみと愛入り混じった目で世間を罵って」いたのだ。そんな私も思春期になり数少ない男性亜種の中でも自分に関心を持った人としか関わらなかった様な気がする。最初の恋愛めいたものがあったのは小学校2年生の時に砂場で決闘を申し込まれたA君だ。A君は私に関心を寄せていたというより私の腕力と誰にも怯まない態度をねじ伏せてやりたい、と思っていたらしい。小学生の喧嘩なんて他愛の無いものであるので今のような陰湿ないじめとは違った。「今日の昼休みに砂場に来い」と呼び出され同級生が見守る中ガチンコの闘いをする。私よりも頭一つ分大きいA君はただの力自慢で少し馬鹿だった。しかしその喧嘩が趣味みたいなA君を何故か好きになってしまった。それからも度々決闘は繰り返されたが、流石に小学校高学年にもなるころにはA君は喧嘩よりもゲームや自転車に興味が移って接点が無くなって行った。告白するなんてできなかった。そのころから、段々と力が弱くて意見をはっきり言わない優しい女の子がモテるというのは分かり出したが生まれ持った気性は曲げられないもので戦略的にそのように装う同級生も出始め、私は絶対に自分であり続けると固く決心したものだった。中学生になって違う小学校出身のB君を好きになり、そのころ流行っていたティーンズハートと言う講談社の少女小説を倣いラブレターを書いてB君に渡した。ところが、運悪く教室のB君の机から落ちた手紙を拾い上げた教師が皆の面前で読み出して頭がパニックになり恥ずかしさで死にかけた。教師に対して殺意を抱いたのはあれより置いて他には無い。何となく、もうそのころから自分の人生から男性を締め出したいと思う様になり女子高へ進学した。異性の目が無い女子高はある意味穏やかに居られる場所ではあったが、異性の目が無いと女同士のドロドロした部分がむき出しになるので少し成績が良かったり持ち物が高級だったりすると嫉妬なのか何なのか、学校の中に小さな村や集落が築かれていく、それはそれで居心地が悪かった。男性に対しても女性に対しても尊敬できないし親しみを持てない、宙ぶらりんな私にいつも苛まれていた。大学を卒業するころ、バブルが崩壊し、超就職氷河期の中就職した。女を見下していた父親が家を離れて遠くへ行くことは罷りならんと言うのを受けて地元に留まった。田舎は良いところもあれば悪いところもいくつかある。その中の一つが人口が極端に少ないということだ。その中で結婚相手を見つけるのは至難の業だ。そういう環境だと、元々、恋愛に興味関心が薄かった私にも声を掛けてくる人が現れる。向こうから言われて付き合う、というシチュエーションしか無かったので自分から好きな人がいてもどのようにきっかけを作ったら良いか分からずそのまま立ち消えたものもあった。それがそのまま流れ流れて漂い続け、今に至るのである。その為、奥義書の鍵となるきっかけ作りに関しては私は指南できないのである。オレ´の問題は、まず彼自身がきっかけを作ってからしか謎を解くことが難しいのである。

 次に、オレ´の問題だ。オレ´はどうやら狙いを定めている特定の相手が存在しているようだ。しかし、いくら声を掛けたくても歌の中でしか愛を告白することができない。鳥がいくら囀っても綺麗だなとしか聞こえないと同じである。ふと冷静になって考えてみると、その相手に働きかけるためには知り合いであれば会って連絡先を交換するだけで済むのではないかと思うのである。ところが何年も堂々巡りをしている様子を見ると、どうやらそんなに身近な存在でもないのではないかと思えてくる。海外にでも住んでいるのであろうか。しかし海外に住んでいるのであれば国内でどれだけ愛を叫んでも物理的な距離は埋められない。私だったら海外に拠点を移したり海外旅行や演奏にかこつけて会いに行くことだろう。何かアドバイスできることがあるとすれば、オレ´が相手に会うのを目標にしているならば何が障壁になっているのかを紙に書いてみることだ。私は仕事をしていた時に常にノートを持ち歩いていた。とにかく毎日違う種類の難問が次々に飛び込んでくる現場であったので、頭が混乱する状況を避けなければならない。問題があるということは目的があり、その目的があって解決できないということは問題があるからだ。本当に当たり前の事なのだが、意外と人は問題の可視化と分解ができない場合が多い。オレ´のケースの場合、相手がどういう状況に置かれた人物であれ、まずはどうやったら会うきっかけが作れるかだと思うのである。あくまで、オレ本体とは違う人物オレ´という設定なので実際同棲している人が居ようがあちこちに恋人が居ようがこの際私が解決してやりたいのはオレ´の方だ。オレ´が堂々巡りを止めて未来に向かって進めないと、作品全体の物語が行き場を失ってしまう。それはなんとかして食い止めなければならない。分かる人には分かるし、分からなくても良い人にはどうでも良い事かもしれない。しかし、そのどうでも良いことが実際は結構重大な問題であるのはごく僅かな人しか理解していないような気がする。妄想であるとか陰謀論であるとか人は自分の知らない事には臭いものに蓋をする様に、何かとレッテルを貼って封印してしまうものなのである。それらの中に重大な事や真実が少しでも含まれているとしたら?と考える柔軟な発想が人間には必要である。

 最後に、恋愛という生命に齎された甘露の問題について話したいと思う。最近、何かと話題になっている過剰な推し活、ホスト問題、未婚率の増加等の社会問題は情報過多と幼少期における親や家庭用玩具との関わり合いが根底にあるのではないかと思ったりする。最近、東京で春画の展覧会を見たり春画にまつわる映画を観たりしたのであるが、昔は男女の恋愛というのが美しく描写されごく身近にあり、子供から大人まで生活の中で親しまれていたようである。生々しい人間の営みは近年の家庭用ゲーム機にあるようなリセットもできなければ交換もできない。人間の愛情や性を金儲けのために歪めて伝える事もしなかっただろう。純粋さに背くものがあったとするならば遊郭のような性商売がそれに当たるのだろうが、金に余裕がある者が手を出すのがルールであって、金が無い人の承認欲求を刺激して根こそぎ絞り取るというのは本当に人間としてタガが外れているとしか言いようがない。幼少期に親から十分に愛情を受けられなかった人だけでなく、幼少期に愛情の溢れた家庭で育っていても、その時の幸せだったイメージに捕われ過ぎて大人になって同じ状態を追い求めてしまう人がいる。人間は自然環境の中で暮らす動物と異なり、その時々の文明の変化によって生活環境というものは数年の内にも激変してしまう。それにも拘らず、恋愛や結婚といった本来生身の人間が主役のイベントを世間が望むようなイメージや人生の道筋に自分を無理に押し込めようと専門家やインフルエンサーが唱える成功の秘訣を取り入れるために絶えず最新の情報にしがみつく習慣が身についてしまっている。そして、自分がその枠からはみ出してしまうかもしれないという強迫観念に身動きが取れなくなっている。常識を疑え、常識に捕らわれるな。恋愛は難問である。だが、凝り固まった精神を自然に還せばいとも容易く動き出すものである。私は暫くオレ´の動向をキューピッド目線で見守っている。



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