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謹賀新年

2023年、明けましておめでとうございます。
本年もWORKSHOP AIDをよろしくお願いいたします。

 *  *  *

(以下は、新春法話の要旨を書き起こしたものです)

筆者は自分の寺の除夜の鐘をつき、年越しの瞬間・深夜0時からお経をあげました。本堂を夜通し開放していたので朝まで外参りの方がいらっしゃり、朝の5時に開運祈願の護摩を。これは寺で代々続く慣わしです。

みなさま初日の出はご覧になりましたか?

私の住まう地域はおだやかな元日でしたので、上記の朝5時の護摩参加者の中にそのまま初日の出を拝みに行かれる方がいました。寺の山を登るとちょうど絶好の初日の出スポットがあるのです。聞くと今年もとても美しいご来光が拝めたようです。

ところで、日の出の頃にあわせて、鳥たちが一斉に鳴き始める、とか、夏であればセミが一斉に鳴き始める、といった瞬間に立ち会ったことはありませんか?

日が昇ってくる時、日が立ち上がってくる時、人間の耳では感知できない音がしているのだそうです。昔の人はよっぽど感覚が研ぎ澄まされていたのか、よく考えたもので、「立つ」「日」と書いて「音」です。「日」が「立つ」じゃないんですね。そうすると「日立」になっちゃう。日立と命名した創業者もすごいです。

さて、初日の出の「音」が「連れ」てくる。「オト・ヅレ」です。何が訪れるのか?そう、新年の年神さまが訪れるのです。

古来から神様は来訪神で、外側から訪れるのです。いい神様も宿れば、疫病神も宿る。基本的には神様は「宿す」ものなんですね。私たちも旅先で泊まるときに「今夜の宿」などと言うでしょう。宿は間借りするものが留まるということです。
明けましておめでとうございます、は正確には善い年神様を新たにお迎えになられました貴方、おめでとうございますという挨拶です。

そして「音」の下に「心」がつくと「意」です。

現代、私たちはつい「意志を強くもつ」とか、年頭にあたって今年1年なにかを成し遂げようと「決意する」とか言います。まるで自分1人でそれらをコントロールするような言い方です。しかし、この島国で日本語で思考してきた民族にとって本来的には「意」は、神様のように外側からやってきたり、何かの縁に触れることで心の奥から知らずと湧き上がってくるものを指します。来訪して「宿る」ものを言うのです。ですから来ては去るので、固定的なものではありません。「意志を強くもつ」のも「決意する」のも、なかなか長続きしないのが道理です。

善いニュースが私のところに来訪すれば善心も宿りますし、悪い報せが入れ悪心も宿る。来ては去る。言ってみれば仏教でいう「縁」とはそういうものです。私たちは環境に大きく左右され善くも悪くもなれるし、周りと連動して、今ここに生かされている。

さぁ2023年。令和5年がスタートしました。

今年どこかで、がんばっても報われない、というような局面があるかもしれません。こんな場面で隠徳(人に知られないような良い行い)を積んでも意味なんてない、と思うような時もあるかもしれません。けれど、あなたのその行いに呼応するように、鳥たちは飛び立ち、セミは鳴きはじめるのかもしれない。それは人間の耳には感知できないような類の音かもしれない。しかしあなたの存在は、音を発しているのです。あなたの存在が来訪神となって他者を照らしているかしれない。

音を聞かせてください。
福の神になるか疫病神になるか。

年頭にあたり、本年1年の開運をご祈念申し上げます。


(今回は、筆者の年始の法話の要旨をテキスト化しました)



Text by 中島光信(僧侶)


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