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【君たちはどう生きるか】、まるで彼の精神内界を見ているようだった

※この記事はほぼ無料で読めます


帰り道、映画館の出口の売店でパンフレットでも買おうかなと思ったら、「現時点ではまだ販売されていない」とのこと。

やれやれ、である。

私は小さな頃からジブリを見て育った筋金入りのジブリファンだ。
宮崎駿が大好きだった叔父の影響で、未来少年コナンも見たしパンダコパンダも見たし名探偵ホームズも見た。VHSが擦り切れるくらい、何度も何度も。

ナウシカもラピュタもトトロも魔女宅も紅の豚も数えきれないほど観た。もののけ姫と千と千尋とハウルの動く城はそんな回数観てないけど。とにかくジブリ作品が大好きだ。大人になっても変わらず好きだ。だから最新作も迷うことなく観に行った。

いろんな意見があり、賛否があり、好き嫌いがあると思うが、今回は彼の最新作について、いちファンとして、超個人的な感想を書いてみたい。職業上、心理学的解釈も大いに含まれると思うが。

(バリバリネタバレありなので、先入観なしに楽しく観たいかたは観る前に読まないでね)

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幕が下りた後私が1番に思ったのは、
「わあ〜、こりゃ好き勝手やったなあ〜」であった。
それはもう清々しいほどに。駿さん振り切ったねえ、と暗闇で思わずニヤニヤしてしまったくらいだ。

彼はこれまで、日本が世界に誇るアニメーションスタジオの“顔”として、子どもも大人も楽しめる「アニメーション映画」を作ってきたはずだ。

そこにはもちろんメタファーがあり、メッセージがあり、彼の頑固とも言えるほどの強い思想があった。
でも、それを、彼が緻密に作り上げた美しい独自の世界の中で、誰もが“わかる”簡潔なストーリー、共感できる愛すべきキャラクターに落とし込む(または昇華させる)、その神がかったスキルこそ、宮崎さんの才能であり、クリエイターとしての真髄だった。

非凡な発想、無限のイメージ。それを大衆向けの「エンターテイメント」にしてしまう力。それこそが万人の心を掴んだし、彼の作品を世界の舞台へと押し上げてきた。(と私は思う)

彼の映画はいつだって観るものへの細やかな気遣い思いにあふれ、今と、この先の未来を生きる子どもたちへの熱い思いが伝わってくるものだった。どんなに非現実的な世界を描いていても、彼のストーリーは決して観るものを置いてけぼりにしなかった。私たちの理解や共感が追いつける速度を守って、彼の世界はゆっくり、やさしく、手加減しながら、一緒に展開してくれたのだ。


でも今回の作品は、そうではない。

観客はぐるんぐるんと目まぐるしく変わるその世界線を必死で追いかけなければいけないし、時にはまるで突き放されたかのように異世界に置いてけぼりにされる。今通り過ぎたもの、目にしたものが何であったのか、答え合わせも暗示もないままに物語は展開していく。そこには拠り所になるルールもなく、規則性もなく、幾つもの矛盾が説明もなく散りばめられている。

彼が向き合っているのは観客でなく自分自身。そんな印象すら受けた。

これまでの宮崎駿の作品が、100年語り継がれるほどよくできた寓話であったなら、今回の作品はまるで自由な散文詩だ。
これまでの彼の作品が、世界共通言語になりうる優れたデザインだったとしたら、今回の作品はファインアートだ。


だけど、それが、(個人的には)すごく良かった。

彼は今回、観客を突き放そうとして難解な作品を作ったわけでは決してない。そんな意地悪は意図していない。彼はただ自分自身に愚直に向き合っただけだ。純粋に、正直に、勇敢に。

というか、彼の人生や背景やジブリの内情なんかを知っている大人が見たら結構バレバレというか、恥ずかしくってたまらない内界表現もあったと思う。(何が恥ずかしいのかは後で書きたい)

それでも彼は、自分の内界に深く潜って、そこから真摯にメタファーを拾い集めてきたのだ
(あの白いふわふわだけはちょっと商業的打算の匂いがするが)。

それが世間に受け入れられるかどうか、よりも、彼は彼の世界に真摯に向き合うことを優先したように思う。
その結果、観客の理解を超えた、説明のない、というより自分でも説明のしようのない世界が出来上がった。という感じだ。

実際人間の精神内界なんて、混沌として矛盾だらけで多層的なものなのだけど、それをかなり忠実に描いたなというかんじ。
ここまでやるのはかなり勇気が要ったはずだ。まるで21歳の多感な美大生である。

(この御歳にしてこんなヒリヒリする作品をぶちかましてくる宮崎さん、やっぱすげえよ)


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ちなみに、現実と、もう一つの世界(しかも多層的)を行き来する今回の作品を観ていて、私はよく似た世界観を思い出した。
ノーランの映画【インセプション】と、村上春樹の作品群、そしてユングの“集合的無意識”という概念である。

個人の内界、それも普段意識に上らないようなやや無意識的な部分って、それこそ超個人的な領域で誰も知らないわけだから作品で表現する時ってそれっぽく捏造することもできるのだけど、偽物はとても薄っぺらい。本物はとても深い。

ユングが言うには個人の無意識ってもっと深く潜ると、根っこではもっと大きな、人類に共通する普遍的な無意識があるのだそうだ。集合的無意識といって、私たちが歴史や文化を超えて何度も似たようなストーリー、キャラクター、神話やストーリーを作り出してきたのは、この深い根っこの部分で繋がっているから(かなりざっくりな説明だが)。

何が言いたかったというと、インセプションも村上春樹も、そして今回の作品も、自分の個人的内界に深く潜ることによって、結果的にその下にあるもっと深く広い水脈、集合的無意識にまで触れることに成功した稀有な作品なのだ。

だからこそ観る人の心を打つというか、琴線に触れるというか、何らかの深い共感、懐かしさ、漠然とした寂寥感、言葉にならない共通感覚を生じさせることができるのだ。

個人内界に深く潜るってすごい個人的な行為なのに、それで結果的に人類共通の普遍的なイメージに触れるってすごい面白いなと思う。私は村上春樹の本も大好きで、特にパラレルに複数の世界が展開したり井戸に潜るテーマではいつもこの集合的無意識のことを想うのだけど、今回の駿さんの作品はその類の優れた作品の一つだなと思うわけである。(インセプションもすごくよくできている。これはノーランの才能に尽きる)

私は、彼の走馬灯のような今回のイメージの集合体を、決して薄っぺらとも、見かけ騙しとも思わなかった。そこには一つひとつ意味があり、想いがあり、人の精神内界の心象風景があったように思う。


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さて、ここでやっと内容に触れるわけだけど、
見終わった時の安直な解釈としては、「あの塔がジブリスタジオで、世界の主みたいな叔父さんが駿さんで、眞人君は五郎さんなのかな!」、くらいだった。
ペリカンはジブリで働くスタッフさんたち、インコもそうかな?もしくは、インコはもっと営利を追求するようなクリエーター以外のスタッフかもしれない。アオサギは皮を被って現実とその世界を行き来するプロデューサー。母はそのまま駿さんのお母さんだろう。つまり【自分が築き上げてきたジブリ帝国をなんとか後継者に継がせたかったんだけども、息子もやっぱり息子の人生があって、内部で力を得すぎた人もいて、俺はこの帝国をこうやって終わらせるよ。お前はそのかけらを思い出に持ち帰り、お前らしく生きろ】という映画だったのかなと。

【俺はこうやって生きた。お前はどう生きる?】という。
自分の内面を潔く、正直に見せ尽くしたからこそ、「で、君は?」と相手に問えるわけである。真に問うために、彼は自分にも問うたのである。

解釈の話に戻ると、もちろん、眞人君は幼少期の駿さんでもあるだろう。実際に病弱な母を持ち、おんぶをしてもらえなかったエピソードはあまりにも有名である。作品中の夏子の、他のきょうだいを身ごもる姿、凛として隙のない態度、「あなたなんか大嫌い」と思い切り拒絶する姿…そして産屋の描写はかなり怖かった。

あのへんは、駿さんが長い間、自分でも気づかないくらいに抑圧し封印し続けてきた何かしらの葛藤の部分だったのかもしれない。

これまで宮崎駿作品に出てくる女性は、さっぱりとした天使みたいに聡明な少女か、豪快なおばさんか、よぼよぼのおばあちゃんかという感じだった。色っぽい、成熟した、肉感的な、夏子さんのような女性像って、あまり描かれてこなかったように思う。しかも夏子さんは感情表現ほとんどせず、内心何を考えているかわからない。そこが怖くもあるのだが。眞人くんの前ではしっかりした優しい大人の余裕を見せる。かと思うと、突然悪意をぶつけてくる。

もちろん夏子さんは、辛かっただろう。自分の姉の後釜みたいに結婚して、姉の子供のお母さんになって。「姉の代わり」としての自分に葛藤していたはずだ。そんなのアイデンティティが崩壊しかけるに決まっている。でも作中では彼女の葛藤って最後まで表面化しない。全然描かれないのだ。彼女はただスンと背筋を伸ばし、綺麗にお化粧をして、敬語で眞人にもっともらしいことを言い、夫におとなしく愛されている。
腹の底では、全然違う人間なのだ。
まさに、"女"である。

夏子さんは彼の母の象徴でもあり、奥さんの象徴でもあったのかもしれない。とにかく彼の作品の中で初めて、何を考えているかわからない、不可解で不気味で美しく恐ろしく、肉感的で、不安定で、強くて弱く、そして神秘的で母性に溢れるリアルな女性像が描かれたことに私はびっくりした。そして、彼(眞人くん)がそれでも諦めずに手を伸ばし続けたことに。

あれは駿さんの、母や、もしかしたら奥さんへの、贖罪であり、愛情希求であり、愛情表現であったのかもしれない。
本当は自分は愛されていないかもしれないという恐怖、満たされなかった欲求、本物の命を産める女というものへの畏怖。。。そんなことを感じながら観ていた。

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王国の継承についてのシーンは観ていてとても辛かった。
あのシーンはどうしても眞人くん=吾郎さん、叔父さん=駿さんに見えてしかたなかった(「血を継ぐものでないと」、という設定も手伝って)し、駿さんが不憫でならなかった。

駿さんは自分が築いたこの王国を、でももう統制することが難しいと感じていて、その終わりが近いことを知っているのだ。その王国は群れをなす鳥たち(スタッフ?)によって自分がかつて創造したものとは違うものになってしまっている。もちろん、幾つもの可能性があり、豊かなイメージがあり、世界があり、それはまだ生きているのだけれど、王国の内部では自分が意図しなかった葛藤と圧力が生まれ、膨張してしまっている。王国を終わらせるということは、それらすべてを無に帰すということだ。いらないものだけを切り捨てるという策は、映画の中には出てこない。あの世界に生きるものたちは全て連綿と繋がっているのだ。一つの生態系みたいに。

彼が最後まで向き合っていたあの積み木は何の象徴だったのだろうか。
彼の理想、目指すもの、もっとも大切なもの、王国のアイデンティティのようなものだったのではなかろうか。ひいては彼の、世界への希望、願い、そして彼の生きる意味の核になっていたものだったのではないかと思う。

それを新たに作り直して欲しい、継いで欲しいと頼むことは、どんなに重大なことだったか。自分の時代の終わり、老いや衰えを受け入れ、次の世代に繋ぐ。それだけでもすごいことだ。なんだけれど、自分の血を引く息子はそれをアッサリ拒否してしまう。息子もまた欲がなく、正直で、自分を持っているのだ。

そして、まごまごやっているうちに、その王位継承によって自分の身が危うくなると横槍を入れてきたインコ大王が、結果的にはその世界を崩壊させてしまうわけである。(これも社内の人物だろうね)

強固で、豊かで、無限の可能性を秘めていた王国。でも、その“核”を失うことでそれは瞬時にしてもろくも崩れ去ってしまう。塔の主はそこに残される。そして眞人たちは帰っていくのだ。“現実”の世界へと。

そこでは永遠に生きられたヒミ(若き日の母)も、死すべき現実世界へと戻っていってしまう。表裏があり葛藤や憎しみを抱えた夏子さんも夏子さんのまま現実世界へと戻っていく。

インコたちもまた、王国の外に出ればただの鳥に戻ってしまう。王国の中にいたからこそ肥大した自我が、一歩外に出れば言葉を持たないただの鳥になるのは興味深かった。一方、ペリカンたちはもう少し高い知性を持った存在として描かれ、変わらない姿のまま塔の外へ出てくる。インコが利益ベースの関係者なら、ペリカンたちは実際に作業するクリエイターの象徴なのかもしれない。彼らは塔の外に出ても、つまりジブリの外に出ても変わらないスキルを持ち、これまでと同じように生きていくことができるのだろう。

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そして塔。初めは「叔父が建てたもの」として説明されているが、お婆ちゃんたちの話によってそれが隕石?のようにある日突然降ってきたものだったことが明かされる。叔父はそれをベースに塔を建てただけであって、あの塔の基礎は外からやってきたものだったのだ。

この設定もとても面白いと思ったのだけど、確かに納得である。駿さんはアニメーションを発明したわけではないから。アニメは元々海外からやってきたものであり、きっと駿さんにとって隕石のように衝撃的な“今まで見たことのない、誰も知らない異物”だったのだろう。彼はその魅力に取り憑かれ、それをベースに自分なりの王国を作ろうとしたのである。建設にあたってはいろんな犠牲を払い、失われたものもあった。彼はまっさらなゼロからあの王国を作ったわけではないし、王国ができてからもきっと、その隕石そのものから影響を受け続けてきたはずだ。

隕石というところがまた、いい。海外からきたとか、海の向こうからきたとかじゃなくて、宇宙から来たもの。きっとあの隕石は、“アニメーション”という技法やジャンルに限らない、もっと原始的でもっと普遍的な創造の力の源を象徴するものなのだろう。例えば何千年も前に人類が洞窟に壁画を描いたように、人類に深く根差した“何かを創造する” “描く”という行為そのものに、彼は魅了されていたし、そこにこそ自分の人生をかけた王国を建てようと思ったのではないだろうか。

それが「危険なもの」として一度は埋められかけたり、現実世界では打ち捨てられたものとして描かれているのも面白い。本来なら貴重なもの、歴史的なものとして大切にされてもよさそうなものだけど、あの塔は現実を生きる人にとっては「不気味で得体の知れないもの」なのだ。人が迷い込むと出てこられなくなる迷宮なのだ。とりこまれたら最後、「おかしくなってしまう」世界なのだ。

外観は古びて汚れ、泥が流れ込んでも、建物の中は美しいまま、無限に広がっているのも、いかにもファンタジーの世界らしい。
最後に崩れてしまう場面は寂しさを感じさせつつ、ラピュタの崩壊も思い出させた。大きな王国の終わりほど物悲しく、美しく、心に残るものだ。


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これは脇役的なものだけど、食べ物についても思うところがあった。
ジブリといえばジブリ飯と名がつくほど、美味しそうな食べ物が定番だ。どんな作品でもそこに描かれる食事は美味しそうで、登場人物たちは美味しそうに齧り付いていた。

でも今回の作品は、食べ物の描かれ方もちょっと違う。
主人公の眞人くんはほとんど食べ物に興味を示さない。(夏子さんもだ)父にもらったお土産に群がるのはお婆ちゃんたちだけ。夏子さんが淹れたお茶を眞人が飲む描写はない。彼が熱心に口にするのは病人の水差しであり、武器を作るために口に含む冷飯である。お婆ちゃんたちとの食事ではボソボソと食べ、はっきりと「美味しくない」とまで言う。

彼が唯一生き生きとむしゃぶりつくのは、非現実の世界でかつての母が作ってくれたジャムトーストである。ヒミ(若き日の母)がその火で焼いたパンに、やりすぎくらいのバター、溢れんばかりのジャム。それを、顔にべっとりつけながら齧る眞人。

食べ物って、“愛情”の象徴でもある。私たちが生まれて初めて口にするのが母の乳房であるように、口に入れるものというのは、私たちの基本的欲求、愛される体験と繋がっているのだ。(詳しく知りたい人はフロイトの口唇期の説明を読んでほしい)

眞人くんは、過去の記憶の中の、母の愛情に飢えていたし、それを本当は心から欲していたんだと思う。そしてそれ以外の愛情が、うまく受け取れないこともあったのだろう。
ナイーブな幼い日の駿少年の姿が浮かんで、胸が締め付けられた。

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食べ物といえばもう一つ印象的だったのが、キリコさんである。

キリコさんは死の世界みたいな海で魚を釣り、白いふわふわ(ワタワタ)の面倒を見ながら生きている。異世界に迷い込んだ眞人を助けて導いてくれる人でもあり、若き日のお屋敷のお婆ちゃんでもある。

彼女が巨大な魚を釣ると、黒い無数の人影がお皿を持って集まってくる。
キリコさんは、「(魚を)殺すのは私の仕事、彼らは殺すことができない」と説明した。

私は、この、自分の手を汚さずにただ美味しいおこぼれをもらうために待っている黒い無数の人影が、視聴者と重なってしまった。一般大衆というか。

眞人はキリコさんに魚の捌き方を教わり、その刃を内蔵に突き立てる。このシーンはとてもグロテスクであり、内臓が溢れ出してくる様子が誇張されている。でも、これも重要なメッセージだと私は思った。

いろんな意味が多層的に重なっているから、一義的に解釈するのは不粋だけど、やはり、私たちが生きるためには、何らかの犠牲が必要で、私たちは実際他のものの命を奪いながら生きているわけである。それを、「かわいそうだからできない」と他の人の手に委ね、自分たちは都合よく美味しいものを享受している。(このへんのテーマ、五十嵐大介の漫画でもよく描かれる)

この海はこの王国の一部であり、先述の解釈に倣うならジブリの内部でもある。それを運営していく中で、やはり残酷でグロテスクな部分はあったのだろう。新しい命や可能性を育てるために、何かを殺しそこから滋養を得ることがあったのだと思う。そういう厳しさや、自分の手の汚し方を、駿さんはあえてここで描いたような気がする。

綺麗事だけでは、歴史に残る作品は作れない。
自分の手を汚さずして、真に価値ある何かを生み出すことはできないのである。

キリコさんはそういう葛藤や役割を引き受けて凛としている。眞人と同じような傷を持って。彼女も過去に苦しみ悩んだ時期があったのかも知れない。それでも受け入れて、今の仕事に従事しているのだろう。王国にとって重要な仕事だ。手も汚れるし責任も重い。危険も伴う。そして孤独だ。キリコさんは誰の象徴なんだろう。駿さんの戦友だろうか。職場にいた頼れる女性同僚だろうか。きっといろんな苦楽を共にしてきた人なんだろう。

その人もいずれは、王国を出て現実の世界に帰っていくわけだが。

ただここでは、キリコさんが作った美味しそうなシチューを眞人が口にする描写はやはりなく、食べるのはキリコさんだけである。この人の愛情も、彼が本当に心の底から求めていたものとは少し違うのであろう。

男性が生涯にわたって求め続ける愛情というのは、やはり母に回帰していくものなのだろうか。


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塔の崩壊後、「お前はなんで記憶があるんだ?」とアオサギが眞人に尋ねる。結構ゾッとするシーンだ。周囲の背景がとんで、アオサギの顔だけが映る。

塔を出た人はみんな、そこでの記憶を失っているのだ。現実世界に帰るために。

眞人はポケットから例の積み木のかけらを取りだす。(キリコさんの人形はそのままするりとキリコさんに変わる)

これは「非現実世界からお土産を持ち帰る」という、よくあるプロットだと思うのだが、最近だと千と千尋でもちひろが髪飾りを持って帰ってきていたことが思い出される。トトロのどんぐりもそうだ。「夢だけど、夢じゃなかった」的な、ファンタジーと現実世界を繋ぐ小さな接点のようなものだ。

眞人は塔の継承を断った。別に手を下したわけではないけれど、塔を崩壊へと導いた人物の1人だ。

でも、「彼はその塔の存在を覚えている」。これからもきっと、彼の記憶の中にその塔は存在し続けるはずだ。
それは駿さんのささやかな願いであり、わがままであり、息子への甘えだったように感じた。自分の築いたものを継承しなくていい、お前は自分の道を行けばいいと言いながら、それでもなお、覚えていて欲しいのだ。父の存在を。その功績を。その想い、生き様を。

そしてこれは、彼の作品を見てきた私たち全てに対するメッセージでもあると思う。

誰かの建てた塔がどんなに素晴らしく魅力的でも、それは儚い幻にすぎない。だから君は自分の力で自分の道を歩けばいいというメッセージ。矛盾や汚れや悪意を抱えながら、それでもこのカオティックな現実の世界を力強く生きていけというメッセージ。

そしてそれと同時に、自分という存在、この世界を覚えていてほしいという願い。自分はちっぽけで、現実世界では取るに足らない存在だったかもしれない、崩れて忘れ去られていく存在かもしれない。だけど、見る人の心に「何か」を残したい。自分が人生をかけて作り続けた世界のことを覚えていてほしい。そんな願い。

私はそういうふうに感じた。


***

多層的で、多義的。無意識の世界は、一つのイメージが複数の答えを持つ。

今回の作品も、ざっと解釈しちゃったけど、本当は答え合わせをしない方が豊かに楽しめるし、正解もないのだと思う。
それぞれの人がそれぞれの解釈や理解、感性を持って楽しめればいいと思うし、それができる深い作品だと思う。

私もあと何回か観ることになると思うし、その度に違った発見があると思う。


長くなってしまったが、最後に。

私の心に残ったのは、叔父さんが眞人に間接的に言った言葉だ。

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