noteを書きます。副題:義務について?

パソコンを目の前にして文章を書こうと思って書いたら、思った以上に変な文章ができてしまいました。それでも良ければ読んでいってください。



 noteを書く。書くと決めた。書いている。さて、何を書こう?そもそもなぜ僕は文章を書こうと思ったのだ? 自分を把握する。自己を定立させる。自己を確認する。そんな感じの理由が思いつくから、今のところ多分そうなのだろう。だけれど、ただ頭の内で内省をしてるんじゃ駄目なんだろうか? 自分に向かって、自分に話しかけるだけでは?

おそらくそれだけでは足りない。足りないと感じている。自己を把握するには、客観的に目に見える形で何かを残す必要がある。少なくとも今の僕には。乳児が他者の姿や、鏡に映った自分の姿を見て、「自分」という統一的存在を把握するように、僕も、自分の外側に排出された何がしかの存在を通して、自己の認識に努めなくてはならない。内側から内側へ言葉を循環させるのではなく、外側に発散しなくてはならない。形は不格好でも構わない。ただ形でありさえすればよいのだ。


 それでは、なぜインターネット上に発信するのだろう?なぜ一人でキャンパスノートに書くことでよしとしないんだろう?
実際キャンパスノートに色々書いていた時期はあった。しかしどうもうまくいかなかった。何というか、つまらないしょうもない文章しか書けないのだ。自分にのみ宛てる文章を書こうとすると、甘えてしまう。妥協してしまう。いかに自己を定立するという目標が果たされようが、面白くもない文章を読みなくない。自分で書いた文章なら、なおさら面白くないものを目にしたくない。そんな事情で、note という媒体を用いてみようと思いついたのだ。けれども他人の目を前提とした長文を書くことは経験がないので、この試みが上手くいくかは定かではない。
 他人から見ればこいつは何を言っているんだ、論理的整合性に欠く、良識が見当たらない、そんな風に思われるかもしれない。実際そうかもしれない。しかし、不幸にもこんな文章に辿り着いてしまった方々には、諸々のことを許してほしい。許さなくとも、見逃してほしい。不完全な人間が不完全なことをやっていると、笑い飛ばしてほしい。

 
 先述の通り、誰かに見られることを前提に長文を書くという機会などほとんどなかった。高校や大学のレポートで多少の文章は書いた。しかし、課題のために義務的に書かれた文章だ。今書いているものとは質的に全く異なる。内からの声によって自発的に起こされた行動と、外部からの働きかけによって半ば強制的に起こされる行動とでは、内容がまるで違うのだ。

義務。強制。

思えば今までの人生の大半がそれに費やされてきた。僕は義務的なことに幼いうちからあまりに慣れ過ぎていたのだ。幼い頃、僕は水が嫌いだった。風呂に入るとき、シャワーが顔に当たるたびに泣きべそをかいていた。水の何がそれほど恐ろしかったのか、今となってはもうわからない。だけど、ぼんやりと残る記憶を辿ると、多く水を浴びた時、僕は溺れるのではないかといたく不安がっていた気がする。それが直接の原因かはわからないし、多分どうでもいいだろう。とにかく、それを克服させるために親は僕を無理やりスイミング・スクールに通わせた。そのスイミング・スクールは床がぬるぬるとしていて、湿気に満ちていた。そのぬるぬるじめじめした空間に通うことは、僕の義務となった。最初は週に1,2回通う程度のものだったのだが、どうやら僕は泳ぎに関して多少の才はあったらしく、大会やら何やらに出場する選手を育成するためのコースに途中から放り込まれ、ほとんど毎日プールへ通うこととなってしまった。それでも僕は淡々とプールへ通い続けた。コーチに泳ぎの才を見抜かれるレベルになっていたのだから、水嫌いを克服するという当初の目標はとうに達成されていた。僕はなんのために泳いでいるのかわからないままにひたすら通い続けた。義務だったからだ。もはや水泳をすることは僕の生活の一部分、いや大部分を成していた。ただ予定の時刻が来たら水泳場へ行き、既定の時間、コーチの指導に服従しながら泳ぎ続ける。僕にとってそれは疑いようもなく欠くべからざるものとなっていた。起きて泳ぎ、起きて泳ぎ、起きて泳ぎ……そんなサイクルが延々と繰り返された。練習は選手を育成するというだけあって、相当にハードなものであったので、僕は水泳がどんどんと嫌いになった。しかし、それでも辞めるという選択肢は全く頭に浮上してこなかった。義務的なことは、長く続くと自分の存在と同一化し、境界があいまいになり、自分と切り離せる存在であるのかすらわからなくなってしまうのだ。


 書くのがすこしだれてきた。書いていて面白くなくなってきた。こんなことを書くべきではなかったのだ。しかし、途中で投げ出すのもどうかと思う。それに、この文章に費やした数十分が無駄になってしまう。スタイルを変えよう。同じ物事でも、取り組む際の姿勢や、のぞき込む角度によって、熱意が大分変るものだ。さて。
僕は会話の相手を呼ぶことにした。
「こんにちは。」
「こんにちは。」

「ねえ、さっそくだけど質問していい?」
「いいよ。むしろ助かる。一人で話し続けるのにも限界が来てたところなんだ。」
「ありがとう。じゃあさっそく。水泳が義務となっていたのは分かったけど、別に一日中ふやけるまで泳いでいたってわけでもないでしょう?それ以外の時間が毎日十分、とは言わなくてもそれなりに存在していたはずだ。その時間君は自由に過ごせていたはずじゃないのかい?」

「そうだね。君の言う通りだ。水泳の時間は多くてもたかだか2時間、移動時間を含めても3時間は超えなかった。だけどね、僕は水泳が大の嫌いだったんだ。そして、これがどれくらい共感してもらえるか分からないんだけど、僕は嫌な事柄が予定に入っていると、ずっとそのことに対して怯えて過ごしてしまうんだ。水泳まであと二時間、ああ、嫌だ。泳ぎたくない。二時間でまたあそこに行かなくちゃならないなんて。嫌だ、逃げだしたい。そんなことをずっと考えてる。あと一時間だろうが、三時間だろうが、同じことをやっている。そんな調子であるから、好きに物事を行えそうな時間であっても、実際はそうじゃなかったんだ。心配事に心をやきもきさせている時間は、どうしたって自由に過ごせるもんじゃない。自由に見える時間も、義務の束縛の下に置かれていた。」
「失礼だけど、いささか馬鹿みたいだと思う。」
「馬鹿みたい。うん、その通りだ。馬鹿げている。僕だってもっと要領よくいきたかった。でもね、そういう生き方って、変えようと思って変えられないんだ。僕という身体に染みついている。落ちないシミだ。そのシミを消したいと思うんなら、僕自身が消えなくてはならない。そういう根本的な問題なんだ。」
「根本的問題。」彼は初めて聞いた外国の単語を意味も分からず繰り返すように言った。
「分かった。それで?君は結局義務をこなし続けたのかい?」
「そうだな……」

 水泳という形の義務は、ある時に終わりを迎えた。続けられなくなったのだ。精神的故障によるところが大きいのだが、遅かれ早かれその時は来ていたのだろう。詳しい事情は込み入ったものがあるので振り返らないが、とにかく僕は水泳から解放された。しかし、義務は相変わらず僕の影に付いて回った。与えられた義務を粛々とこなし、他の時間の意識もほとんどそれに充てられるというスタイルは無意識下で僕を規定するようになってしまっていた。高校では、水泳の代わりに課題と受験勉強が義務の位置を占めた。大学でも義務は形を変えて僕に付きまとった。そんな生活が精神に無理をきたすのは明らかだった。高校は三年次に不登校になり、大学も去年の初めに全く通えなくなった。
義務に奉仕し、義務を精神に住まわせ、義務が精神を食いつぶす。
言語外の領域でそのことは分かっており、こんな生活もうたくさんだと思いながらも、逃れることはできなかった。幼いころから義務に従い生きてきた僕は、義務を成す以外で自分を確かめるすべを知らなかった。蟻地獄に吸い込まれるがごとく、僕は新しい義務を見つけては、摩耗しながらそれに身を費やした。
「今もそうなのかい?」
どうだろう。変わった気がするし、変わっていない気もする。だけれど、何が「義務」で何が自分の性向に合い、行おうと思えるものなのかを見極めようと最近は考えている。実際どうかはともかくとして、変わろうとしていることは事実かもしれない。初めはそんなこと考えてもいなかったけど、この文章を書くという行為も、義務的なものから逃れようとする一つの動きなのかもしれない。自分を知りたい、あるいは義務に専心するあまり失った自分を作り出したいという動き。
「そうか。」
 彼はそう言うと壁に溶け込み、跡形もなく消え去った。僕は今、パソコンでキーボードを叩きながらこの文章を打ち込んでいる。

 
 
 
 本当は何やら偉そうなことをもっともらしく飾り立てて話して、世の中を一刀両断、と言う風にしてみたかったのだが、結局自分語り(?)に終始してしまった。しかしこの文章は何なんだ?エッセイなのか?途中で自分に質問してきた彼は誰なのか?書きたいままに書いたらこうなってしまった。訳の分からない上に締まりのない文章だが、取りあえずここらで終わりにしようと思う。ここまで見てくれた酔狂な方々、どうもありがとう。絶望するな。では。

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