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煙草燻るあの夏の香り

今日、少し煙草のタールを上げた。

今まで1ミリだけをずっと吸ってた分、急な4ミリの上昇には大いなる違和感が伴った。

いくら煙草と言えど1ミリというのは健康に及ぼす害の影響を大いに隠している。

臭いも吸いすぎない限りあまりしないし、煙草の葉の余韻にしてもかなり薄い。

だから結構、単純に臭いと思ったし、瞬間的に来る身体への影響もかなりしんどいなと思った。

夜になれば心做しか煙もよく立ち昇る。

一吸いした煙草の煙はちょっとした呼吸で勢いよく宙に放たれていく。
また、後方に点灯する玄関照明がそれらを明瞭に照らし、瞬く間に眼前は煙の海と化す。

まるで自分が小さな煙突になったみたいだった。

相変わらず煙草の葉は臭かった。

立ち昇る煙草の煙、虫の声しか聞こえないほどに沈みかえった街、車。
そして夜。

脳裏では、なぜか祖父の姿が結びついた。

そうだ。この香りは祖父の匂いである。

子どもは耐えかねない臭い煙草の匂い、染み付いた服の匂い、部屋の香り。

全てが祖父だった。

こう表記するとまるで亡くなったかのように思えるが、別に今もご存命である。まあ健康かと言われるとそこまでだけど。

この先亡くなったとき、この匂いはいつか来る”その後”の世界から見る生前の景色になるのだろうかと、ふと思った。

匂いは景色を語る。

同時に記憶もできない。

だから、形に残せる写真とは違う。

人間の脳とは、きっと馬鹿なのだと思う。

それは、思い出からしか事象を突き止められないように。
経験からしか推測を語れないほどに。

以前、バイトの帰り道、いつも通る細い一本道沿いにある家から、洗濯物の匂いがした。

それは普段気に留めもしないような、取るに足らない景色のはずだったのに、ひとかけらの間に燻ぶっていた洗剤の匂いか、柔軟剤の匂いかが鼻をついた。

それはまるで前世の記憶を取り戻したかのような劇的な体験で、幼少期に仲が良かった近所の幼馴染の家族の姿を思い出した。

あの頃は楽しかったな、あの頃はあんなことがあったな、こんなことがあったな、結局あの家族は近所とは呼べないほどに遠い学区へ引っ越してしまったけれど。

手段も、またそれを行使する力も持っていないあの頃の私たちは、どうすることもできず、また、それがあたかも当たり前のように、物理的な距離は必然的な疎遠を生んだ。

今頃、どうしているかな。
今会ったら、あの頃みたいに話せるかな。
あの時、疎遠にならなかったら、どうなっていたのかな。

あの頃は特に気にしてもいなかったあの洗剤、柔軟剤の匂いが、今になって蘇る。

きっと、くだらない。

思索を巡らせるにはあまりも取るに足らないことだし、あの洗剤、柔軟剤の匂いだって今、ここにある全く知らない赤の他人が使っているものと同じだという保証はどこにもない。

似ているものを、思い出から取り出すにはあまりに錆び付いたものであるから、合理化という作業の下、同一視しているだけかもしれない。

でも、私はそこにロマンがあるとも思う。

今や脳裏のどこにもなかったような匂いの記憶が、蘇ったかのように浮かび上がってくるのは、自分が今まで生きてきた必然性の答え合わせであるような気がするからだ。

そこには、言葉ではどうにも説明しがたい何かがある。

それは必ずしも気持ちのいいものではなくて、中には、鬱屈としていて、今でも棘が刺さったように重くて抜けないものもある。

それでも、とっておきの儚さも、切なさも、痛みもそれなくしてはきっとあまりにつまらなくて生きていけないもので、今ここにいる自分と過去の時間を確かに繋いでいる。

思えば、ここ一年の記憶は煙草とともにあるような気がする。

具体的な記憶としては、色々とぐちゃぐちゃになってしまった元恋人との思い出によるもの。

別れてからその先どうするか、単純に”好き”だけを追求していった過程で生まれた喜びの数々、反面、発展性、将来性がなかったことによる絶望感。

形式上別れて、公私ともに本当の意味で別れるまで、全てそこに煙草があった。

あの頃は楽しかったなぁ。

喜びも、辛さも、全てが高い水準にあった。

楽しかった分、酷く痛くて未だ自ら手を加えられる状態にもないけど、そういう辛さが自分を作った。

酷く感傷的な想い出だなぁと思うけど、煙草にはそういう印象が似合っているような気もする。

そしてそういう薫りを染み込ませるのが、私が煙草を吸っている一つの意味でもあるんじゃないかな。


まあでも、健康には気を付けてね。やっぱ身体に悪いことには変わりないからね。笑

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