見出し画像

毒母考察シリーズ 注意書き

おはようございます。あすぺるがーるです。

これから、前々回読書レポートを書いた「母からの解放」の考察を書いていこうと思いますが、書くにあたって話しておきたいことがいくつかあります。


「毒親」「毒母」への作者の思い

「子どもに精神的苦痛を与える親」という意味で「毒親」「毒母」という言葉をよく聞くと思います。

しかし、「母からの解放」の著者である信田さんは実のところ、この表現をあまり好ましくないと考えているようです。


「毒親」とて普通の社会人

「毒親」や「毒母」は、「虐待親」と決定的に異なる部分があります。


虐待親たちは、子どもに精神的苦痛だけではなく、身体的・経済的な苦痛も与えます。

そして、たいてい虐待親本人も社会生活に異常をきたしています。

本人が社会生活に異常をきたしていることで、周囲にも大きな負担をかけていることが少なくありません。


しかし、「毒親」「毒母」はそうではないのです。

では、多くの娘にとっての「ヘンな母親」たちは、一方ではちゃんと人づき合いもでき、常識を大切にし、多数派にすりよりながら、夫の悪口を陰で言い募りながらも社会に適応している、ごく一般的な社会人です。(P.26)

何より彼女たちは結婚し、出産し、娘たちをいちおう育て上げているのです。(P.27)


そのため、誰かの親が毒親かどうかは、第三者が見て理解できるようなものではない、と信田さんは述べています。

だから、ここで明言しておきたいのは、客観的な「毒母」など存在しないということです。あくまでそれは、子どもにとっての「毒」なのだということです。娘からみて「ヘン」な、自分を苦しめる母親たちは、娘にだけ効力のある「毒」を撒き散らしているのです。(P.27)


これは「毒親」問題をある意味、「虐待親」問題より複雑にしている重大な要素の一つです。


「毒親」「毒母」という言葉の用法

「毒母」は当時はACと同じように、強烈な母、束縛する母親から解放されるために子どもたちが発する言葉でした。それが最近では「毒母にならないためにはどうしたらいいか」というように、母親の側からも使われるようになりました。(P.26)

一定以上の世間知を得た言葉は、しばし本来の意味が失われ、独り歩きしていくことがあります。

信田さんは「毒親」「毒母」という表現によって恐れているのは、以下の点です。

脅迫するようなニュアンスが込められ、育児態度が悪いと「そんなことをしたらあなたも毒母になりますよ」といったような脅しに使われています。
こんな言葉の使われ方は、子育てから、大らかさや個性を奪いとることになりかねません。本来、多様性に満ちたものが、萎縮してしまうのではないでしょうか。(P.26)

このことを理解せず、「毒親」「毒母」と口に出したとたんに、それは母親というものを攻撃し、いかにも毒の基準があるかのような幻想をまき散らします。多くの評者やマスコミは、言葉の持つインパクトが強いこともあって過剰反応し「こんな言葉がありますよ」「へぇ、すごいですね」といった興味本位でとり上げているのです。(P.27)


これらのようなことは「毒親」「毒母」問題を語る上で絶対にあってはいけないことだと、私も思います。


私が「毒親」「毒母」を使う理由

それでも私が「毒親」「毒母」という表現を使うのには、理由があります。


私はあくまで一当事者

この「毒親」「毒母」問題に対して、私は被害を受けている(と自認する)娘側のひとりにしかすぎません。

少なくとも、興味本位で世間を扇情させようとしている第三者ではありません。


毒親の「毒」が客観的に判断することができないというのを裏に返せば、子どもが「親に苦しめられている」と感じたら、その親は「毒親」なのです。


だから、私はあくまでも「母に苦しめられた娘」のひとりとして、自分の母のこと、そして作中の例に挙げられた人のことを「毒親」と呼びます。

それ以外の、子どもに十分な配慮をなされている親御さんを名指しで「毒親」と呼ぶことは、まずありません。


言葉を知ることで救われる人もいる

私が「毒親」「毒母」という言葉を使い続けるのには、もう一つ理由があります。

それは、今まで親に苦しめられながらも、それを表現する言葉がないゆえに、自分の苦しみを語れなかった人に「言葉」を与えたいからです。


信田さんは、「毒親」被害者の女性たちが母親に対する見方を変化させる様子を、次のように説明しています。

もともと数学者によって提唱された用語に「カタストロフィー理論」というものがありますが、このカタストロフィーとは、(中略) ある一点を超えると質的にもいっきに変化するという状況を表しています。多くの女性たちの母親に対する見え方の変化に接していると、この理論のことを思い出してしまいます。(P.118)

実際には、この変化は自然に起きるわけではありません。そこがカタストロフィー理論とは少し違うところです。外部から刺激されることで、この変化は起きるのです。(P.119)

自然科学的な変化のように、量的な変化が質的な変化に結びつくのではなく、それらを最終的にひと押しする引き金として「言葉」が必要なのです。(P.120)


親への苦しみは、本人も自覚のない間に少しずつ降り積もり、やがて一気に精神的反応を起こします。


その精神的反応は、本人にとっては決して些細なものではないと思います。


精神的反応によって受ける苦しみのため、心を病んでしまうことも少なからずあるでしょう。

私がそれに近い状況だと思っています。


そんなときに、その苦しみを上手く表現できる「言葉」がなかったら、その苦しみはさらに大きな負担となってしまうでしょう。


私は「毒親」「毒母」と言い続けることで、そのような立場の方を救いたいのです。


今まで縁のなかった人にも知ってほしい

私の毒母体験記は、母娘歓迎に苦しむ人だけではなく、今まで「毒親」という概念を知らなかった方にも読んでもらいたいと思っています。


後の考察にも記す予定ですが、毒親問題は個人の問題だけではありません。

社会問題なのです。


しかし、毒親の「毒」が子どもにしか効かないゆえ、毒親問題はしばし当事者以外の人には見過ごされがちであるように私は思います。


このままでは、毒親持ちが「毒親持ちでない」人から受ける心理的迫害は、無くなりません。


今まで興味のなかった人を引きつけるには、ある程度キャッチーな言葉が必要です。


もちろんマスコミのような煽り立てはいけないですが、私の体験談であるゆえに私怨のようなものが混じってしまうこともあるかもしれません。


しかし、少なくとも毒親問題がネタとして消費されるような些細なものとして取り扱われたくはないのです。

これは、女性差別や家族制度にまつわる歴史、不景気、高齢化社会などが絡む、真剣に向き合わなくてはいけない問題の一つなのです。


そのため、私は「毒親」「毒母」問題を、なるべく多くの人に社会的問題として認知してもらえるよう、この言葉を使い続けます。


注意書きは以上です。

次回更新がいつになるか分からないですが、より多くの方に読んでいただけると嬉しいです。

#信田さよ子 #母からの解放 #注意 #毒親 #毒母 #ジェンダー論 #社会問題

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。いただいたサポートは、他の方のnoteのサポートや購入、そして未来の自分を磨くことに充てる予定です。