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踏みだされる一歩

◯あらすじ
 大学卒業後の約10年間をほとんど仕事一筋で生きてきた中川 聡志(なかがわ さとし)。しかし、休日も仕事に取り組まなければいけない日々を続けたことで体調を崩してしまい、初めて会社を休むことになった。医療機関での受診の結果、うつ病の診断を受けて、今まで勤めた会社を退職。自宅での療養生活が始まった。
最初は何もやる気が起きず、自分自身がこれから元気になることをイメージできなかったが、周りのサポートを受けながら気持ちが前向きになれたことで今後について考えることができるようになった。

「自分が本当にやりたいことは何なのか?」

「本当の幸せとは何なのか?」

療養生活の中でこれまでの人生を振り返りながら、その答えに辿り着くまでの物語。

第1章 私、うつになりました

 2022年8月5日、32歳の時に私は心療内科でうつ病の診断を受けた。おそらく、6月頃には既にうつ病になっていたと思う。当時の私の本来の勤務時間は10時00分〜19時00分だったが、最後の2ヶ月はブラック労働だった。仕事がある日は5時00分に起きて、準備ができ次第、自宅で仕事を開始。その後、会社に出勤して20時00分に退勤できればまだ良いほう。自宅に帰ってからも仕事をして、眠りにつくのは0時00分頃という生活を送っていた。休日も自宅で5時間以上は仕事に取り組み、何とか業務を片付けていた。休日も仕事をするのは2020年の10月頃からだったため、その期間は約2年に及んだ。
 8月2日、この日はシフトで休日だったのだが、私は自宅で仕事をしていた。しかし、この日のうちに終わらせたかった仕事が片付かなかった。それでも、22時00分頃に寝ようと思ったのだが、疲れているのに眠ることができなかった。今まで10年以上、仕事を休んだことは1度もなかったが、この時に初めて「もう無理だ」という気持ちになり、頑張ることを諦めた。私は3日の0時30分頃、24時間対応のフリーダイヤルの電話相談サービスに電話を掛けた。悩みの種類を音声案内で聞かれた際に「死ぬほど辛い」を選んでいた。今思えば、相当追い込まれていたのだと思う。しかし、電話はなかなか繋がらない。この時は「世の中にはこんなにも悩んでいる人がいるのか」と妙に冷静な気持ちになった。「やっぱり寝よう」と思い、眠りにつこうとしたが、どうしても眠れない。3時00分頃に改めてフリーダイヤルに電話を掛けた。3回ほど掛け直すと、運良く電話を繋げることができた。男性の相談員が落ち着いた声で私に語り掛ける。

「どうされましたか?」

 私は今の仕事の大変さ、ここ2ヶ月間の過酷な労働、2020年の10月から休みの日も仕事をしていることを伝えて、どうしたら良いのか分からなくなったことを伝えた。相談員の男性は私の仕事のことをよく理解していた。おそらく過去に私と同じような仕事を経験したことがあったのだと思う。

「お話を聞いている限り、あなたには休む権利があると思います。今のご自身の状況を会社へ伝えて、しばらくお休みされるのはどうですか?もしも有給休暇が残っているなら、それを使うのは労働者の権利ですし、病院で診断を受けてお休みされるのも1つの手だと思いますよ。」

 そう話してくれた。自分が求めていた言葉を聞くことができて、私は安心して電話を切った。その後、まだ朝の4時30分頃だったと思う。自分の言葉を電話で伝える自信がなかったため、LINEで今の状況を上司に伝えて、会社をしばらく休むことにした。
 8月5日、自分が本当に病気なのかを確かめるために心療内科のクリニックに足を運んだ。予約は8月3日に電話で取った。今の世の中は悩みを抱えている人がたくさんいるようで、自宅の近所にある2軒の心療内科は最短の予約が1ヶ月先やお盆が明けてからの2週間後という状況だった。少し距離を延ばして、車で10分ほどの心療内科に電話をすると、運良く5日の朝いちばんに空きがあり、予約をすることができた。私の担当になった心療内科の先生は50代だと思われる女性の医師。私は自分の症状やそこに至った経緯を伝えて、「自分が病気なのかどうかを確認したくて来ました」と話をした。医師からは

「今のあなたはうつ状態にあります。仕事を頑張り過ぎて脳が放電していると思ってください。『頑張ろう』という気持ちがあっても、脳が疲れ切って気持ちと行動が一致しない状態です。今はとにかく休みましょう。少なくとも2ヶ月は仕事を休んでください。診断書を書きますから会社へ提出してください。もう仕事のことはほっておいて構いません。今はとにかく休む。ゴロゴロして脳を休ませてください。」

 そう話があった。うつ病の診断を受けた時は本当に安心した。「もしも病気でなければ自分は怠けていることになってしまう」と思っていたからだ。仕事を休む根拠を持つことができて、ホッとすることができた。一方で「今まで10年以上、1度も仕事を休んだことがなかったのに、こんなにも呆気なく、うつ病になってしまったのか」という気持ちも少しばかりあった。医師からは「しなくていい」と指示を受けたが、「どうしても最低限の引き継ぎだけはしなければ、後で自分が大変になってしまう」と思ったため、できる範囲で仕事の引き継ぎをした。医師の指示を守らなかったのはこの時だけだ。ここから私の自宅での療養生活が始まった。
 療養を開始して最初に私が取り組んだのは睡眠を取ることだった。昼夜逆転になろうが気の向くままに眠りについた。当時の私は本当に疲れていたのだと思う。日中にどれだけ睡眠を取っても、夜も普通に眠れる日が多かった。心療内科では睡眠導入剤を処方してもらっていたので、その効果もあったと思う。睡眠時間以外はひたすらお笑いの動画を観て過ごした。以前からお笑いは好きだったが、仕事が忙しい時はお笑いを楽しむ余裕はなかった。療養生活に入り、「笑って癒されたい」という気持ちになったのだと思う。お笑いの動画を観る時は受け身でいられるため、脳があまり疲れず、ベッドの上で横になりながら楽しむことができる。うつ病の初期状態の時の最適な趣味になった。一方でスポーツに取り組むことなどは能動的に動かなければならないため、この時期はそこまでの元気は湧かなかった。脳を休めるのに最も効果があるのは睡眠や何も考えずにゴロゴロすることなのだが、それではあまりに暇になってしまうため、8月の1ヶ月間、睡眠の時間以外はほとんどお笑いの動画鑑賞をして過ごした。
 食欲に関しては7月の時はほとんどなくなってしまい、夜に唐揚げを2個食べただけで1日の食事を済ませた日もあった。療養開始後も最初は食欲が湧かなかったし、お腹が空いても食べたいものが思いつかなかった。しかし、8月13日、気分転換で普段は行かないスーパーに足を運ぶと、胡麻ドレッシング付きのコーンサラダが100円で売られていた。その日はコーンサラダと豚カツを購入することにした。このスーパーの豚カツが美味しいことは以前から知っていたため、私の目当ては豚カツのほうだった。だが自宅に帰ってコーンサラダを食べると、「コーンサラダって、こんなに美味しかったのか!!」と驚いた。何かを食べて美味しいと感じたのは久し振りだったので、「少しは元気になっているのかな?」と実感できた出来事だった。
 療養生活を開始した当初は寝たい時に眠り、起きている間はお笑いの動画鑑賞に取り組むだけで、何か他のことに取り組もうとする気にはなれなかった。以前はドライブが好きで大阪から関東まで車でプロ野球の試合を観に行くこともあったのだが、療養開始直後はほとんど車の運転はせず、ガソリンがほとんど減らなかった。車の運転をすることさえ緊張するようになり、必要以上に慎重になるくらいだった。
 9月に入ってからも体調が良くなっている実感はあまりなかった。実家に帰った時に「元気になってきているね」と親が言葉を掛けてくれたので、以前よりも覇気は出ていたのだと思う。当時の私にとって大きな悩みの種だったのが「今の仕事をどうするか」ということだった。病院から2ヶ月間の自宅療養の指示を受けていたため、会社も9月末までは私が休職をする段取りでいたようだが、会社からは「会社に在籍しながら10月以降も休む場合は9月で会社の厚生年金と健康保険を解約してほしい」と言われていた。私としても9月末で退職をするつもりで気持ちを固めていたのだが、休日も仕事に取り組まなければいけないほど仕事をさせておいて、体調を崩して働けなくなった途端に「もう用無しです」と言わんばかりの会社の姿勢は疑問に感じた。もし9月末で退職をするなら、9月16日までに会社へ退職の意志を伝えなければいけない。退職する気持ちは固めていたのだが、心のどこかで少し迷っていた。会社に対する思いはなくなっていたが、別に仕事自体が嫌いになったわけではなかったからだ。しかし、どんどんタイムリミットの16日が近づいてくる。「最悪16日に伝えればいいし、考え過ぎるとストレスになるから考えないようにしよう」と思っていたが、それでもストレスは間違いなくあった。その証拠に療養中はいろいろと体調不良の症状が出た。息苦しさ、謎の歯の痛み、異常な肩こり、いちばんひどかったのがある日の夜に頭痛に襲われて、あまりの痛さで眠ることができず、2回も嘔吐をしてしまったことだ。今までも目の奥が痛むような頭痛を感じることはあったが、眠ればすぐに治まる痛みだった。だがこの時は痛さで眠ることができず、「もしかして、眠ったら死んでしまうのか?」と心配になるくらいだった。最終的に頭痛に効く音楽を動画サイトから探して、それを流すと気持ちが落ち着いてきたのか、5時00分頃にようやく眠りにつくことができた。目覚めてからは無事に回復することができた。後で分かったのだが、これはブルーライトを浴び過ぎたことによる眼精疲労だった。
 仕事について迷っていた私に助言をしてくれたのは心療内科の先生だった。療養を開始してすぐの時期は2〜3週間に1回のペースで診察を受けていたが、その度に私が必要としている言葉を投げ掛けてくれた。

「まだ32歳だから、いくらでも仕事はある」

「今まで頑張ってきたご褒美だと思って、当分はゆっくりしたらいい」

「1年半は傷病手当金※1がもらえるのだから、焦らなくていい」

「まずは仕事以外の趣味や興味が湧くことに取り組むことから始めればいい」

そんな言葉に背中を押されて、私は決心することができた。タイムリミットの9月16日、会社に9月末で退職する旨を伝えた。この時も電話で自分の言葉を伝える自信がなかったため、メールで辞意を連絡した。たった3行程度のメールを送ることさえも億劫になり、なかなか行動に移せなかったが、メールを作成し出すとあっという間に文章が完成して送信ボタンを押した。退職届もすぐに書いて会社へ郵送。あんなにも多くの時間を仕事のために使っていたのに、最後は一瞬だった。しかしこれで自分の中にあった憑き物が落ちた。その後、会社からメールで連絡が届いて、退職へ向けてのやり取りが進んでいき、私は元気になっていった。
 明確に「元気が出てきた」と実感ができたのは9月22日だった。元々、私は掃除が好きで療養中も部屋の掃除に取り組むことはあったが、溜まっている書類や不要な物の処分は「仕事を休んでいる間に取り組みたい」という気持ちはありつつ、行動に移すことができなかった。しかし、22日は朝からエネルギーに満ちていて、何となく整理整頓に励む気持ちになり、いらない物を一気に処分することができた。うつ病が回復していく段階で部屋の掃除や整理整頓に取り組む人は結構多いそうだが、自分も正にそうだった。
 ちょうどその時期に私のいちばんの親友である中澤 浩一(なかざわ こういち)君からLINEで連絡が届いた。彼とは大学1年の時に知り合い、今ではそれぞれが大阪と愛知に住んでいるが、年に数回は現在でも会っている。この日、彼が好きなメジャーリーガーが通算700号本塁打の大記録を達成したため、その連絡だった。話の流れで「元気にしている?」と彼から聞かれた際、私は「元気にしているよ」と答えた。元気になっているのは本当だし、「余計な心配を掛けたくない」と思った。すると、彼から「元気なら何より。ちなみに自分は無職(笑)」と返信が届いた。以前から彼が転職を考えていることは聞いていたのだが、現状を正直に教えてくれたことで「やっぱり自分も本当のことを伝えよう」と考え直した。うつ病の診断を受けて、会社を退職することに決めたことをLINEで伝えると、彼はその日の夜に電話を掛けて、私の話を聞いてくれた。療養期間にあったこと、会社に対する不満、大学時代の思い出話に花を咲かせ、4時間以上も彼と話をした。今まで電話で4時間も誰かと話をしたのはこの時が初めてだった。最近までは相手が誰であっても、電話で話をする元気は出なかった。これだけ話をすることができたことで自分が元気になっていることを実感できた。
 元気になってくると、今後についても前向きに考えられるようになった。うつ病になると様々なことに焦ってしまい、それが寛解を遅らせる要因になってしまうこともあるのだが、この時の私は自分でも驚くほど焦りがなく冷静だった。むしろ、

「今はこれからの人生を幸せにするためのチャンスではないか」

そう思うことができた。

「自分が本当にやりたいことは何なのか?」

「本当の幸せとは何なのか?」

今までの人生を振り返りながら、思いを巡らせた。

※1傷病手当金とは
病気休業中に被保険者とその家族の生活を保障するために設けられた制度。病気やケガのために会社を休み、事業主から十分な報酬が受けられない場合に支給される。支給の条件は様々あるのだが、1年以上、会社の健康保険に加入している人が病気やケガで仕事ができなくなることが前提条件になる。支給開始から最大で1年6ヶ月の期間、会社を退職後であっても手当を受け取ることができる。

参考文献
・全国健康保険協会 (kyoukaikenpo.or.jp)
 検索日 2023年2月5日

・知らないと損する「健康保険」の落とし穴 "傷病手当金"しっかり受け取るには | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) 原昌平 配信日 2019年1月30日

第2章 不登校

 私の人生の最初の分岐点は中学時代だったと思う。私は中学1年の2学期の初日から卒業するまで、1日も学校へ通わず不登校だった。1年の1学期も休みがちだったので、中学時代の学校関係の楽しい思い出は1つも思いつかない。
 不登校になったいちばんの原因はいじめに遭っていたことだ。小学1年〜4年まではクラスメイトにも恵まれて、特に3・4年の2年間は楽しい日々を過ごすことができた。仲の良い友達と一緒にかくれんぼや野球をしたことも思い出に残っているが、クラス自体に団結力があった。クラスメイトが引っ越しで他の小学校へ転校することになった時は、学校の授業時間を使ってお別れのイベントをしたり、他校に転勤した3年の時の担任の先生が1日だけ自分達の学校へ訪問に来た時におかえり会を実施したり、思いやりのあるクラスだった。
 しかし、5・6年のクラスが私には合わなかった。当時、同学年には3つのクラスがあり、私は2組になったのだが、3・4年で仲の良かった友達が1組と3組に集中してしまった。新しいクラスの雰囲気自体が合わなかったのもあるが、5年のクラス替えの際に同じクラスになった1人の同級生からすぐにいじめられるようになった。そもそも5・6年のクラスはクラスメイト同士で揉めごとが起こることも少なくなかった。私はこのクラスが好きではなかったが、中学生になれば私が通っていた小学校を含めて3つの小学校から生徒が集まり、クラスの数も増える。私をいじめていた同級生ともクラスを離れることができると思い、小学校最後の2年間は我慢をして過ごした。
 中学校の入学式の日、正門を入ってすぐの場所に掲示されていたクラス表を見た時、私は愕然とした。私をいじめていた同級生と同じクラスになってしまったのだ。中学校では1学年に6クラスはあったと思うが、6分の1を引き当ててしまった。今思えば、事前に親に伝えて、彼とはクラスを離してもらうように中学校へお願いをしてもらえば良かったと思う。しかし、当時の私にそのような行動力や発想はなかった。1年の1学期は休みがちになりながらも何とか中学校へ通ったが、楽しいわけがない。夏休みに入ると、「もう2学期からは学校へ行きたくないな」と思ったが、なかなか母親に言い出すことができなかった。今の自分なら、口で伝えることが難しいのであればLINEやメール、携帯電話を持っていなくても手紙を渡して伝えることができると思う。だが当時はそこまで機転を利かせることができなかった。2学期に入って最初の3日間は何だかんだと理由をつけて学校を休んだ。4日目に母から「何かあったの?」と聞かれて、そこで初めて「いじめられているから、学校へ行きたくない」と伝えた。母は自分の様子がおかしいことには気付いていたらしい。いつもは前日に翌日の学校の準備をするのに、この時はまるで準備をする様子がなかったからだ。ここから私の不登校の生活が始まり、2度と中学校へ通うことはなかった。
 学校を休み始めて最初の2週間は外へ出ることもなく、自宅でゲームをして過ごした。不登校になって初めて外出した日のことは今でも覚えている。みんなが学校へ行っている時間帯、近所のスーパーの中にある本屋へ行き、野球の雑誌を買った。友達と会わないことは分かっていたが、「友達のお母さんとかに会ったらどうしよう・・・」と不安になり、電信柱の影に隠れて、知り合いがいないことを確認しながら走って本屋まで行った。完全に不審者だ。
 学校を休み始めて1ヶ月が経ち、自分の将来に不安を感じるようになった。そもそも私は勉強が得意ではなかった。中学1年の1学期のテストの成績があまりに悪く、夏休みに補習授業へ呼ばれたくらいだった。この補習は各クラスの成績下位3名が参加しているようだったので、私は当時35名いたクラスのワースト3に入っていたことになる。それくらい勉強ができなかった。そのような状況で学校へ行かなくなったため、「これで高校へ合格できるのか?」と不安な気持ちになった。今の私なら勉強ができなくても受け入れてくれる学校がいくつもあることを知っている。しかし当時は

「もしも高校へ行けなければ自分の人生は終わりだ」

本気でそう思っていた。独学で勉強に取り組んでみたが、正直よく分からない。特に数学と英語はほとんど分からなかった。そんな時、両親から「家庭教師の先生に頼んでみようか」と提案があった。自分でも何とかしなければいけないことは理解していた。新しいことに挑戦することへの抵抗もあったが、最終的には両親が半ば強制で家庭教師を雇うことを決めた。当時の私は自分で何かを決断・行動することができなかったので、両親が動いてくれたことは正しかったと思う。
 中学1年の11月から家庭教師の先生に週2回で来てもらい、勉強を教えてもらうことになった。迎えた初日、私は久し振りに家族以外の人と関わるため、かなり緊張していた。19時00分少し前に自宅のインターフォンが鳴り、家庭教師の先生がやってきた。

「はじめまして、岡村 智美(おかむら ともみ)といいます。よろしくお願いします。」

この時の岡村先生の優しい笑顔は今でもよく覚えている。清楚で可愛い先生が来てくれてすごく嬉しかった。岡村先生は当時大学1年生で家庭教師の仕事は私が初めてだった。他にはパチンコ店のアルバイトもしているようで、すごく意外だった。後に岡村先生から教えてもらったのだが、アルバイトをする時に自分を安売りしないと決めており、時給が1000円以上のアルバイトをすることをマイルールにしていたそうだ。今では都会なら時給1000円以上のアルバイトのほうが多いと思うが、当時は業種を選ばないと、学生のアルバイトの時給が1000円以上になることは少なかった。岡村先生は大学を卒業後に学校の先生になるため、家庭教師を始めたことも後に教えてくれた。私が不登校だということも把握してくれているようで学校の話題は出さないように配慮をしてくれた。最初は趣味や普段観るテレビ番組などについて雑談をしたと思う。当時は20歳前後の女性と関わる機会などなかったため、緊張もあったが、大人の女性と関わることができる嬉しい気持ちもあった。不登校になり、生きがいに感じることがなく、エネルギーが湧くこともなかったが、岡村先生と関わる中で前向きな気持ちが芽生えてきた。

「岡村先生に褒めてもらうために勉強を頑張ろう」

動機としては不純だったと思う。だがこの気持ちが勉強に取り組むエネルギーとなり、高校合格へ向けて具体的に行動ができるようになった。
 岡村先生が家庭教師で来た日は毎回数学を1時間・英語を1時間の合計2時間の授業を受けた。数学はxなどが出てくる文字式、英語は学校の授業に全くついていけなかったので、アルファベットの大文字・小文字から教えてもらった。その日の授業の内容から宿題が出されて、それを次回までに取り組むのが毎回の流れになった。「これだと宿題が少し多いかな」と岡村先生に言われても、「頑張ります」と答えて本当に頑張ることができた。岡村先生は私のモチベーションが上がるように導いてくれた。高校に受からなければいけないプレッシャーはあったが、「岡村先生に褒めてもらいたい」「成績を上げて、岡村先生に喜んでもらいたい」という思いが大きくなっていた。中学1・2年の間はテストを受ける機会がなかったため、自分の学力がどれくらいの位置にあるのか、私もよく分からなかった。ただ学校に通っていた時よりも勉強ができるようになっている気はした。岡村先生には基本は数学と英語を教えてもらっていたが、理科も暗記系の単元以外は少し教えてもらい、国語も読解問題のコツや古文の解き方は教えてもらった。私はなぜか暗記は昔から得意だったため、社会は独学で勉強をした。小学3年の時、47都道府県の名前と県庁所在地を全て覚えて、担任の先生の前で発表をするという取り組みがあったのだが、私はクラスで3番目に早く暗記をして発表をすることができた。1位と2位はクラスの中でも頭が良い女の子2人だったので、当時は本当に嬉しかった。
 岡村先生と出会い、1年半が経過して私は中学3年になった。私にとって大切な1年だ。岡村先生からは「模擬試験は毎回頑張って受けようね」と提案があった。大阪では中学3年生を対象にした模擬試験がほぼ毎月実施されている。このテストを受けるのは希望者のみだが、多くの受験生が自身の実力や志望校の合格ラインを把握するために受験をしている。
 私が住んでいた地域の模擬試験の会場は自宅から自転車で20分ほどの場所にある中高一貫校だった。高校入試の時期が近づいてくると、模擬試験の受験人数が増えるため試験会場も増えるのだが、夏休み前までは受験人数がそこまで多くないため、私と同じ中学校に通う同級生とも会ってしまう可能性が高かった。不登校になってからは同級生と会わないように、外出は学校で授業が行われる時間帯にしていた。同級生とは顔を合わせたくなかったが、高校入試へ向けて、これは乗り越えなければいけなかった。
 最初の模擬試験は5月に実施された。受験会場には私と同じ中学校に通う同級生も何名かいた。この時はテストの内容よりも休憩時間に同級生から声を掛けられるかどうかの不安のほうが大きかった。今思えば、話し掛けられても気さくに会話をすれば良かったと思う。私に話し掛けてきた同級生もいたが、「なんで学校に来ないの?」と言われたため、「そんなこと話したくないから、ほっといて」と私は言い放った。同級生は残念そうな表情で「変わってしまったんやね・・・」と呟き、去って行った。不登校の人間にとって、学校へ行かない理由を聞かれることは正直辛い。今ならその同級生が気を遣って話し掛けてくれたことも理解できるが、当時の私には分からなかった。もし不登校になってからも自分を卑下することなく同級生と関わることができていたら、大人になってからも彼らと交流することがあったのかもしれない。たが当時は自分のことで精一杯だったので、仕方なかったと思うようにしている。久し振りの試験は何とか無事に終えることができた。テストを5教科受けたことよりも、たくさんの人がいる中で長時間過ごして疲れたことが印象に残っている。会場から自宅まで20分の道のりを自転車で帰ったが、無事にテストを終えた達成感で足取りは軽かった。高校入試が近づいてくると、模擬試験の受験者数が増えてくるため試験会場となる学校の数も増えて、知り合いと顔を合わせることはなかった。
 岡村先生が通う大学が夏休みに入ると、岡村先生は週3回午前中に家庭教師に来てくれた。自分としても朝のほうが集中できるし、生活リズムも作りやすいので、ありがたかった。午前中は両親が仕事で家を空けているため、岡村先生と2人きりになった。親が自宅にいる時は自分の部屋で勉強をしているとはいえ、多少は声が部屋の外まで聞こえるので、話す内容にもある程度は気を遣うようにしていたが、夏休み中は普段話さない勉強以外のこともたくさん話すことができた。

「夏休みは私も週に3回来るから今まで以上に勉強を頑張ろうね」

「はい」

「宿題も増やすし毎回テストも行うから、覚悟しておいてね」

「はい・・・、でも頑張ったらご褒美がほしいです」

岡村先生は細みでスタイルが良く、いつもパンツスタイルの格好をしていた。パンツスタイルはとても似合っていて、お尻がキュッとしているのが素敵だったのだが、前から岡村先生のミニスカ姿を見たいと思っていたので、思い切ってお願いをしてみた。

「頑張ったら岡村先生のミニスカ姿が見たいです」

「えーー、私ミニスカートは持ってないよ。ショートパンツならあるけど・・・。それで頑張れるの?」

「はい、それを励みに頑張ります」

「でも、宿題はいっぱい出すしテストも難しくするよ。その日出した宿題を次回までに全部終わらせて、その日に行うテストで満点を取れば、その次の家庭教師の時はショーパンで来てあげようか?」

「分かりました」

「そう簡単には終わらない量の宿題を出すし、テストも難しくするよ。ショーパンへの道は険しいからね。」

「でも、本当に頑張るので、もし達成できたら褒めてください。頑張る。」

「うん、いいよ。じゃあ頑張ろうね。」

「はい、頑張る」

 この日から私は目の色を変えて勉強に取り組んだ。夏休み中、岡村先生は毎週月曜日・水曜日・金曜日の10時00分に自宅へ来る。12時00分まで授業があるので、その日の授業が終わってから次回の授業まで睡眠時間を除いても約1日半の時間がある。私はまず出された宿題をその日のうちに終わらせるようにした。岡村先生が帰った後に昼食を食べて、すぐに宿題に取り掛かる。眠くなったタイミングで昼寝をして、起きた後もひたすら宿題を片付けていく。宿題が終わるのは日付が変わった1時00分頃。食事・睡眠・トイレ・お風呂以外はずっと勉強をしていた
 宿題が終わるとすぐに就寝して翌朝は8時00分頃に起床。岡村先生が来る前日はひたすら翌日のテストへ向けて勉強をした。テストの範囲は私が使っていたテキストの中から岡村先生が事前に指定をしてくれたので、勉強はやりやすかった。その範囲を何度も見直して、数学も英語も解き方を覚えていく。解き方を理解できれば、数学は計算ミスをしないように、英語はスペルミスをしないようにひたすら問題を繰り返し解いていく。この日のうちにテスト範囲の問題を全問正解できるようにすることを目標にするが、昼過ぎには眠くなるので仮眠を取り、起きたらすぐに勉強を再開。ひたすら反復練習を繰り返す。夜の1時00分頃に力が尽きたら無理はせずに就寝して、翌日のテストに備えた。私はどれだけ大事なテストの前であっても、徹夜は絶対にしないようにしていた。睡眠を取ったほうが学んだ内容が頭に定着しやすい気がしたし、睡眠を取らなければテスト本番で集中ができないと思ったからだ。大人になってから知ったのだが、テスト前の過ごし方として徹夜はご法度らしい。人の記憶は眠っている間に短期記憶から長期記憶に変わることで定着していくので、睡眠を取ったほうが勉強した内容が頭に残りやすいそうだ。この1日半はこれまでの人生で間違いなくいちばん勉強を頑張った。そして夏休みに入って最初のテストを迎えた。

「どう?宿題とテスト勉強は頑張れた?」

「はい、できるかぎりのことはしたと思います」

「分かった。じゃあテストをしようか。聡志君がテストを受けている間に宿題を私が確認しておくね。」

「はい」

「じゃあ数学と英語のテストを始めるね。時間は2教科で30分、頑張って!!」

「頑張る」

私は今まで自分が頭の悪い人間だと思っていた。しかし、岡村先生に勉強を教えてもらう中でそれは間違いだと分かった。今まで成績が悪かったのは自分の頭が悪かったからではなく、勉強に取り組んでいなかったからだと気が付いた。学校の授業についていけず、授業の内容が分からなくなり、内容が分からないから自宅で勉強をするにしても、何から取り組めば良いか分からないという悪循環に陥っていただけだった。授業以外で勉強をする時間を確保すれば、テストで良い点数を取れることが分かった。
 テスト中の私はいわゆるゾーンに入った状態になっていたと思う。その時は自覚がなかったが、自分が発揮できる実力以上の力を出せた気がする。数学・英語、どちらの教科も時間内に解くことができた。時計を見るとまだ時間が10分ある。残り時間はひたすら見直しに時間を使った。解き方は合っているはずだし、分からない問題もない。ケアレスミスさえなければ、どちらも100点のはず。時間ギリギリまで見直しを続けた。全ての問題を2回見直しができたタイミングで岡村先生が声を掛けた。

「よし終わり。お疲れ様でした。どう?100点の自信ある?」

「大丈夫だと思うんですけど・・・。やれることはやったと思います。」

「宿題はしっかりできているから、テストが両方とも100点ならご褒美だね」

「はい・・・、今さら緊張してきました」

「(笑)じゃあ採点していこうか」

まずは数学の採点。次々に赤丸が書かれて採点が進んでいく。

「すごい、数学100点じゃん!!」

「やった!!」

「じゃあ英語も採点するよ」

英語も採点が進んでいく。私は祈るような思いだった。

「すごい、英語も100点だよ!!」

「やったー!!!」

「本当に頑張ったね、すごいじゃん!!!」

「うん、頑張った。あの・・・、えっと、約束覚えていますか?」

「覚えているよ。まさかショーパンのためにここまで頑張るとは思わなかったけど(笑)」

「人生でいちばん努力しました」

「でも偉いよ。本当に頑張らないと100点は取れないから。」

「ありがとうございます」

私は本当に単純な人間だと思う。その単純な性格のおかげで岡村先生のショーパン姿を見るために勉強を頑張ることができた。
 元々、私は勉強もスポーツも得意ではなく、自分に自信を持つことができなかった。自信が持てないことで卑屈な態度を取っていたことがいじめに遭った原因の1つになっていたのかもしれない。別に自分をいじめていた同級生を許そうとは思わないし、彼のおかげで自分が成長できたとも思っていない。ただ、この時のテストで100点を取れたことが大きな自信になったことは間違いない。
 2日後の家庭教師の日、岡村先生は本当にショーパン姿で自宅に来てくれた。深みのあるブルーのデニム素材でショーパンというよりもホットパンツのように短い丈だった。

「もうめっちゃ恥ずかしいよ!!」

「すごく似合っています!!ありがとうございます!!!」

「ちょっと見過ぎやで。はい、ショーパン鑑賞は終わり終わり。勉強の時間でーす。」

この時の岡村先生は本当に可愛かった。この日以降も勉強を頑張り、夏休み中に何度も岡村先生の美脚を目にすることができた。おかげでその後の模擬試験の成績も確実に伸びていった。
 夏休みが終わると、そろそろ受験する高校を決めなければいけなかった。私は同じ中学校から受験する人が誰もいない高校へ行こうと考えていた。自分のことを誰も知らない新しい環境で人生を再スタートさせたかった。そうなると、近所の高校は選択肢から外さなければならない。当時、私は大阪市内に住んでいたが、大阪市以外の高校から受験する学校を探すことにした。最終的には吹田市にある高校を受験することに決めた。事前に見学へも行ったが、通学路にゴミがほとんど落ちておらず、学校の雰囲気が良かった。見学の際に個別相談の対応をしてくれた先生が「中学時代に不登校だった生徒さんでも、入試本番で合格点を取ることができれば、問題なく入学することができますよ」と話してくれたため、この高校を受験することに決めた。自宅から高校までは電車を乗り換えて1時間以上の時間が掛かる。中学校にほとんど通っておらず、体力が落ちている自分が3年間通えるかどうかの不安はあった。ただ、当時の自分はそこまで深くは考えておらず、体力に関しては「何とかなる」と考えていた。中学生活をほとんど台無しにした分、高校生活は何があってもやり遂げる気持ちでいた。
 不登校になってからの2年半は岡村先生のおかげで勉強を頑張ることができた。もしも、あのまま中学校に通っていたら、授業についていけないまま、成績が伸びることもなかったかもしれない。この時は不登校から抜け出すため、自分の将来のために勉強を頑張っていたが、それと同時に岡村先生のために勉強を頑張っていたと思う。「岡村先生に褒めてもらいたい」という下心もあったが、「岡村先生のために合格したい」という思いも間違いなくあった。自分の人生の中で「誰かのために何かを頑張りたい」という気持ちを心から持って、真剣に物事に取り組んだのはこれが初めてだったと思う。
 月日は流れて高校入試の前日を迎えた。この日も岡村先生が自宅に来てくれた。この日の岡村先生はほとんど授業をすることはなかった。「本番前日に難しい問題に挑戦するよりも自信を持って入試当日を迎えてほしい」と考えてくれていたのだと思う。岡村先生はこの2年半について私に話をしてくれた。

「2年半、聡志君の家庭教師をやらせてもらったけど、聡志君は本当に頑張ったと思う。私は正直、試験の結果はどっちでもいいと思っている。それよりもこの2年半、聡志君が勉強を頑張ってくれたことが嬉しい。持っている力を発揮すれば、きっと合格できるからね。大丈夫だよ。」

「結果はどっちでもいい」は勇気をもらえる一言だった。結果ではなく、これまでの努力を褒めてくれたことが嬉しかった。高校入試前日はさすがに緊張と不安の中で過ごしていたが、岡村先生の言葉で前を向くことができた。岡村先生が帰った後、22時00分頃には眠くなったため、ラジカセで1曲の音楽を流した。不登校になった当初は音楽に興味がなかったが、いつからか音楽を聴くようになり、イヤホンをつけて音楽を聴きながら眠ることが習慣になっていた。不登校の間に様々な音楽と出会ったが、その中でも当時の私を勇気付けてくれた曲がある。

『ドアを開ければ 道は眠って 踏みだされる一歩を 待ちこがれている』※
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その曲の歌詞の一節だが「この詞は自分のための歌詞ではないか?」と錯覚するほど心に響いた。高校入試前日の夜はこの曲を最後に聴くと決めていた。不登校の間、いつも励ましてくれた曲を聴いて、眠りについた。
 いよいよ迎えた高校入試本番の日、目覚めも良く、体調も良好、持ち物の最終確認をして、両親に励まされて高校へと出発した。まずは自転車で地下鉄の駅へ向かい、途中で阪急電車に乗り換え、高校の最寄り駅から15分ほど歩いて無事に高校へ到着。教室の中で試験が始まるのを待った。クラスメイトになるかもしれない他の受験生を見るくらいの余裕があっても良かったのだが、この時はとにかく自分のことに集中していた。教室の様子や景色もあまり記憶に残っていない。1日目は5教科の筆記試験を受けた。いざ試験が始まると、緊張することなく落ち着いて問題を解くことができた。5教科の試験はあっという間だった。エネルギーを使い果たし、帰りの電車では疲れ果てていたが、その時には「この車内の誰かがクラスメイトになったりするのかな?」と考える余裕があった。
 2日目は面接の試験が実施された。面接は受験生6名ずつで行う集団面接の形式で行われ、保護者の同伴はなかった。受験生が300名以上いたため、面接は1グループが5分ほどで終わった。上手く喋ることができたかどうかは分からない。当たり障りのないことしか言えなかったと思うが、無事に高校入試を終えて、ホッとすることができた。この日の面接後、自宅の最寄り駅まで帰ってきた時、牛丼屋の前に行列ができていた。この時期はBSE問題で牛丼店での牛丼の販売が中止されていたのだが、1日だけ牛丼が復活した日があり、それがこの日だった。牛丼屋の行列を横目に自宅へと帰った。
 入試結果が分かるのは面接の2日後。入試の翌日はゆっくり寝て過ごす予定だった。しかし、翌日の朝に自宅玄関のインターフォンが鳴ったので出てみると、何と速達で入試の結果が届けられた。まさかの1日早い到着に驚いたが、すぐに封を開けて結果を確認した。封筒の中に入っていた用紙には大きく合格の文字が書かれていた。不登校の日々を乗り越えた瞬間だった。まだ15年しか生きていない人間にとって2年半の不登校は長かった。「高校へ行けなければ自分の人生は終わりだ」と当時は本気で思っていたので、嬉しさと同時に安堵の気持ちが込み上げてきた。結果を両親に伝えて、すぐに岡村先生にも電話で連絡をした。

「もしもし中川です。岡村先生、今お時間大丈夫ですか?」

「うん大丈夫だよ・・・結果届いた?」

「はい、無事に合格していました」

「わー、おめでとう!!良かったね!!!ずっと頑張っていたもんね。」

「ずっと頑張っていたもんね」の一言で涙が流れそうになったが、悟られないようにするのに必死だった。
 合格後も高校入学前の3月終わりまで、岡村先生には家庭教師に来てもらった。この人が家庭教師でなければ、ここまで勉強を頑張ることはできなかったと思う。動機は不純だったかもしれないが、誰かのために自分はここまで頑張れるということを実感できた2年半だった。1年後、岡村先生は大学を卒業後、高校の歴史の先生になったと連絡を受けた。きっと生徒から大人気の素敵な先生になられていると思う。
 私は大人になってから、自分の中学時代について思うことがある。当時は行きたくなかった中学校を休むことにして、不登校になったことで岡村先生とも出会えたため、中学校へ行かない選択をした自分の判断は心から正しいと思っていた。実際、この判断は間違っていなかったと思う。しかし、大人になった時に思ったのは、中学時代の学校の思い出がないことの寂しさだ。もし当時に戻れるなら、勉強や運動を頑張り、自分に自信をつけて、いじめようと思われないような人間になるための努力をすると思う。不登校になったことで経験できたこと、成長できたこと、出会えた人がいる一方で失ったこともたくさんあることは分かっておかなければいけない。「死にたい」と思うくらい辛いのであれば、無理に学校へ行かなくても良いと思う。だが、不登校になることで全てが解決されるかというと、そんなことはない。最終的には自分自身で何とかしなければならない。私は自分が選んだ道に後悔はしていないが、もしも今の自分の考え方を持ったまま当時へ戻れるなら、別の選択肢を選ぶかもしれない。一方であの時に選ぶことができた最高の選択はできなかったかもしれないが、最善の選択はできたと思っている。

※1 B’z 『ONE』作詞 稲葉浩志 1999年

第3章 自信

 2005年4月、高校生活が始まった。高校生活を送るにあたり、私は目標を設定した。それは高校を3年間で卒業することだ。中学時代はほとんど不登校だったため、高校3年間はしっかり通って卒業することを目標にした。そのため部活は入らないことにした。自宅から高校までは電車を乗り換えて1時間以上の通学時間が掛かる。部活をやっていてはそれだけで体力が持たなくなってしまう。今までは勉強が苦手なことがコンプレックスだったため、テストの成績を上げて、自信が持てるようになりたいという思いもあった。小・中学校とは違い、高校は自分と学力が近い人達が集まっている。真面目に頑張れば、私でも勉強で良い成績を残せるのではないかと考えていた。
 迎えた高校の入学式の日、私のクラスは男子24名・女子6名の合計30名だった。元々が男子校だったため、当時の名残で男子生徒のほうが多かった。入学当初、私はいちばん後ろの座席になったため、クラス全体を見渡すことができた。活発そうな人もいたが、おとなしそうな人もいて、「このクラスなら何とかやっていけそうかな?」というのが最初の印象だった。
 どんな女の子がいるのかも気になり、1人の女の子に目が止まった。彼女の名前は西川 優里(にしかわ ゆり)さん。女の子は皆、入学式ということもありスカートを長めに穿いていたが、西川さんは入学式の日からスカートをめちゃくちゃ短く穿いていた。当時は短いスカートの高校生が大阪でもまだ多かったため、ミニスカ姿の西川さんを見て、「自分も高校生になれたんだな」と実感することができた。顔も可愛らしく、「この人と仲良くなりたいな」と思ったが、入学式の日は自らクラスメイトへ話し掛ける勇気や余裕はなかった。最初は自分のことで精一杯だった。
 高校生活が始まると気の合う友達ができて、学校を休むこともなく、楽しく高校生活を送ることができた。授業の内容にもついていくことができ、「中学時代のように成績がクラスの下位になることはなさそうかな」と思い、クラスの中での自分の学力も掴んでいた。ただ、クラスで上位の成績を残すことができるかというと、その自信はなかった。
 憧れの西川さんと少し仲良くなれたのは4月の後半の英会話の授業の時だった。英会話の授業では毎回3〜4名程度のグループを作って、そのグループの中で英会話の練習をしていたのだが、その日は西川さんと同じグループになった。英会話の授業後、同じグループのメンバーで雑談をしていた時、私と西川さんを含めた全員がサッカーに興味があることが分かった。西川さんが「日本代表の選手でかっこいい人がいるんやけど、名前が思い出せない。分かる人いる?」と言い、他の2人は「その説明で分かるはずがない」と言ったのだが、私は「どんな特徴があるかは分かる?ポジションとか顔の雰囲気とか。」と聞いてみた。すると「えっと、ポジションは分からないけど小顔の短髪で身長が高い人!!」と答えた。他のクラスメイトから「そんなヒントで分かるか(笑)!!」と突っ込みが入ったが、私が「・・・その選手って福西さん?」と西川さんに聞いてみた。彼女は「そう!!福西さん!!!何で分かったの?!」と驚いた。別の女の子からは「何で分かったの?優里と気持ちが繋がっているの(笑)?」と茶化されたが、私は「福西さんはめちゃくちゃかっこいいと思うもん。小顔の短髪で背が高いかっこいい選手といえば福西さんやで(笑)」と冷静に答えた。その日以来、西川さんからはたまにふざけて「福西君」と呼ばれるようになった。その度に「福西じゃなくて、中川やで」と答えていたが、これがきっかけとなり西川さんと少し仲良くなることができた。
 5月に入り、高校生活最初の定期テストである1学期の中間テストの日が近づいてきた。最初の定期テストということもあり、みんなも段々とテストモードに入り、この時期は真面目に勉強に取り組むクラスメイトが多かった。テストまであと1週間に迫ると、テスト範囲まで内容が終わっている教科に関しては、授業時間をテストへ向けての自習に切り替えてくれる先生もいた。その自習時間中に西川さんから声を掛けられた。

「ねえねえ、中川君、理科の勉強を教えてほしいんやけど・・・」

まさか「勉強を教えてほしい」と言われるとは思っていなかった。嬉しい気持ちもあったが、私は理科が得意ではないし、そもそも人に勉強を教えられるようなスキルなんてなかった。ただ、何とか西川さんの力になりたかった。彼女に分からない問題を聞くと、それは私でも理解できている問題だったので、何とか教えることができた。しかし、西川さんは「他にも分からない問題がある」と言い、それは私にとっても難しい問題で理解もできていなかった。ちょうど授業が終わる時間になったため、私は「明日も自習の時間があるから、その時に教えてもいい?」と伝えると、彼女は「中川君は勉強を教えるのが上手いね」と笑顔で話してくれた。この言葉は舞い上がるほど嬉しいものだったが、そこまで勉強ができるわけではないので「まずい・・・」とも思った。最後に質問された問題は正直よく分からない。しかし、自分がこうしてしまった以上、「嘘を本当にするしかない」と思った。
この日、私は自宅に帰ると、西川さんから質問された問題に取り組んだ。何とか解き方は理解できたので、今度はそれを彼女に理解してもらうために、どのように伝えるかを考えた。この時はとにかく必死だった。西川さんが何を勘違いして私は勉強ができると思ったのかは分からない。頭が良いと本当に誤解していたのかもしれないし、話し掛けやすい雰囲気があったのかもしれない。彼女の真意は今でも分からないが、中学生活のほとんどが不登校だった私にとって、好きな女の子に頼ってもらえたのが嬉しかった。そして、それに応えたいと思った。
 翌日の自習時間、私は自ら西川さんへ声を掛けた。好きな人に勉強を教えている時間は世界が2人だけになったような感覚になれた。胸のドキドキを悟られないよう冷静な自分を演じて、彼女に解説をした。前日に質問された理科の問題の解き方を全て教えると、西川さんは無事に理解できたようだった。

「中川君って、やっぱり教えるの上手だよね。ありがとう。ねえ、困った時はまた助けてほしい。」

西川さんはそう言ってくれたが、本当は私のほうが彼女を必要としていたし、西川さんの存在に助けられた。彼女がまた自分を頼ってくれる時のために私は勉強を頑張った。その結果、高校1年の1学期の中間テストはクラスで5位・期末テストでは2位になることができ、その後の2学期の中間テストから高校を卒業するまではずっとクラスで1位の成績を残すことができた。高校1年の1学期の期末テストからはテスト前にテスト範囲のポイントをまとめたプリントを作成して、西川さんへ渡すようになった。1学期の期末テストの前、彼女が「期末テストは教科が多くて、どこをどう勉強したらいいのか分からない」と私に話したことがあった。そこで私は各教科のテスト範囲と勉強のポイントをまとめたプリントを作った。このプリントを作るためにテスト前のどこか1日はほぼ徹夜で過ごした。今なら体力的に無理だと思うが、当時はそれができた。プリントを初めて手渡した時の西川さんの表情は今でも覚えている。彼女も誰かにこれだけの労力を費やしてもらったことは当時なかったのだと思う。申し訳なさを見せながらも嬉しそうな笑顔を見ることができた。
 あれから15年以上の月日が流れたが、西川さんは私のことをどのように思ってくれていたのだろうか?当時はデートへ誘うどころか連絡先を聞く勇気もなかった。大人になった今なら

「西川さんのおかげで頑張れた」

そうはっきりと伝えることができる。勉強を頑張ることができて成績が上がり、自分に自信を持てるようになったのは彼女のおかげだ。自信を持てたおかげで高校3年間は休むことなく通うことができて、皆勤賞を取ることもできた。ほとんど中学校には通わず、高校へちゃんと通えるかどうか分からなかった自分が毎朝1時間以上を掛けて、休むことなく通うことができたのは彼女がいてくれたからだと思う。
 充実した高校生活を送った私だが、大学進学を機に大阪からは離れることを決めていた。「大学生になったら1人暮らしをしたい」と考えていたからだ。親からは「大阪以外の大学へ通うなら、1人暮らしをしてもいいよ」と言われていたため、大阪以外の大学を受験することにした。ただ、関西には私の希望に合う大学が少なかったため、進学先に愛知の大学を選んだ。この大学には社会学部があり、メディアや社会福祉・社会調査などの様々な分野について学ぶことができて、2年生から1つの専門分野に絞って、専門的に学んでいくスタイルだった。当時の私は「将来は新聞記者になりたい」と考えていた。ただ、大学へ通う中で「将来の目標が変わる可能性もある」と思っていたので、メディア以外の分野も幅広く勉強ができる社会学部がある大学へ入学したかった。京都にも自分の条件に合う大学があったのだが、私の学力では合格することが現実的ではなかった。京都の大学へ通うことができればベストだが、浪人をすることは考えていなかったため、自分の実力で合格可能な進路先を考える必要があった。そのため条件の合う愛知の大学を受験することに決めた。
 私が通っていた高校のクラスはほぼ全員が併設の大学や指定校推薦で進学することを決めていたため、大学入試へ向けての受験勉強は少し孤独だった。みんなが帰った後に1人で教室に残って、勉強に取り組むことが多かった。学校から帰る時間帯は既に薄暗く、秋になると真っ暗になっていた。元々は京都の大学の一般入試へ備えて勉強をしていたが、11月に愛知の大学の公募制試験が実施されることになっていたため、その勉強にも取り組んだ。公募制試験は試験当日に発表されるテーマについて小論文を書き、その結果で合否が決まるものだった。インターネットで調べた小論文のテーマの例の中から自分でピックアップをして練習をしていたのだが、その際に力になってくれたのが岡村先生だった。岡村先生は大学を卒業されて、私が通う学校とは別の高校で教師をしていた。大学の公募制の試験へ向けて、小論文を書く練習をしていることを連絡すると、

「聡志君が書いた小論文を誰かに添削はしてもらっているの?」

岡村先生はそう確認をした。私は小論文を書く練習はしていたが、それを誰かに添削してもらうということはしていなかったので、そのことを伝えた。すると岡村先生は

「私が添削するから小論文を書いたら私にメールで送って」

そう言ってくれた。岡村先生の言葉に甘えて、小論文を書いたらそれをメールに打ち直して岡村先生へ送るようになった。岡村先生は私が送った小論文を必ず添削してくれて、毎回その内容をメールやFAXで送ってくれた。当時は岡村先生のご厚意に甘えていたが、当時、岡村先生は高校教師になってまだ2年目だった。きっと忙しい日々を送っていたに違いない。しかし、もう家庭教師の生徒でもない私のサポートをしてくれた。自分が就職をして仕事で忙しい日々を送るようになった時、岡村先生がどれだけ大変なことをしてくれていたかにようやく気付いた。私が社会人になった頃には岡村先生は結婚をしていて、連絡を取り合うこともなくなっていたが、この時は岡村先生に対する申し訳なさと感謝の気持ちが出てきて、1度だけメールで連絡を取り、感謝の気持ちを伝えた。
 岡村先生のサポートを受けながら、11月の公募制試験の当日を迎えた。この試験は愛知だけでなく全国各地で実施がされて、大阪でも行われたため、大阪の会場で試験を受けた。会場は私が通学している高校へ行く途中にある別の大学だった。よく知っている場所のため、迷うことなく目的地に到着して、試験を受けることができた。
 試験は午前と午後に分かれていて、2種類の公募制試験を受験することができ、どちらか1つでも基準点をクリアすることができれば、合格ができるという状況だった。私は今まで勉強してきたこと、岡村先生に教えてもらったことを思い出しながら、この日の試験をやり切った。午前は難しい問題だったため基準点をクリアできているか微妙だったが、午後の問題は手応えがあった。
 1週間後、合否の結果が届いた。結果が届く日付は事前に聞いており、その日は高校の年内最後の授業の日だった。年明けからは特別授業に切り替えられ、各自が興味のある授業を受けることになっていたため、クラス全員で同じ授業を受けるのはこの日が最後だった。この日は事前に母親へ「試験の結果が分かったら、携帯電話にメールで連絡してほしい」と頼んでいた。休み時間の度にメールを確認したが、母親からの連絡は来ていない。この日は土曜日だったため午前中に授業が終わり、帰宅する前にトイレの中でもう1度携帯電話を確認すると、母親からのメールが届いていた。私は緊張しながら内容を確認した。

「合格おめでとう!!2つとも合格していたよ。今日はお祝いをしましょう。」

今までやってきたことが報われて嬉しかった。岡村先生にも合格したことを伝えて、いよいよ愛知での大学生活が始まることになった。

第4章 自問

 大阪で生まれ育った人間が愛知、しかも名古屋以外の大学へ進学することはあまりないのだが、運命に導かれて愛知の大学へ通ったと今でも思っている。しかし、最初は愛知での生活環境に戸惑った。大学の最寄り駅のホームから見える景色は大学のキャンパスと田んぼ、お墓、学生用のアパートしかなく、コンビニの1軒すら見当たらなかった。自宅のアパートからスーパーへ行こうと思えば、山を1つ越えなければいけない。18年間、大阪市内で生活を送っていた私からすると、大きなカルチャーショックだった。
 最初こそ環境の変化に驚いたものの、大学生活自体はとても充実したものだった。入学してすぐに友達もできた。彼の名前は中澤 浩一(なかざわ こういち)君。私の生涯の親友になるだろう存在だ。彼に対する第一印象は正直良くなかった。大学入学時の彼は肩まで伸びた明るい茶色の長髪に上下白のスウェットを着ていることが多く、私が思い描くヤンキーそのものだった。印象が良いとか悪い以前に単純に怖かった。「この人だけには近づかないようにしよう」と当時は思っていた。
 だが、中川と中澤という苗字のおかげで学籍番号が近かったこともあり、同じ授業を受ける機会が多かった。ある日、偶然にも席が隣になったのでこちらから話し掛けてみると、第一印象とは違い、楽しく話をすることができた。この時に中澤君が私に連絡先を聞いてくれたので、その場で交換をした。大学以外の場所で初めて一緒に遊んだのは連絡先を交換した日から数日後の週末だったと思う。自宅で休んでいると中澤君からメールが届いた。

「今日パソコンを買いに行きたいねんけど、一緒に来てくれない?」

その日は特に予定がなかったので、彼の車で迎えに来てもらい、家電量販店で買い物に付き合った。その後は家電量販店の近くのショッピングモールの中にあった韓国料理屋で一緒にごはんを食べた。大学の同級生の中で誰のことを可愛いと思ったかなど、大学生らしい話に花を咲かせた。私が通っていた大学の地域は完全な車社会ということもあり、大学生でも車を所有している学生が珍しくなく、中澤君もその1人だった。この日以降、私は彼の車でいろいろな場所へ遊びに行ったが、最初に2人でパソコンを探しに行った日がとても印象に残っている。
 私は中学時代が不登校だったため、中学時代の同級生と中学卒業後に会うことはなかった。高校3年間も学校生活自体は楽しく過ごしていたが、学校以外で友達と遊びに行くことはなく、それが少しコンプレックスになっていた。何年か経った後、初めて2人で遊んだ日のことを彼に話すと

「当日にいきなり誘うとか、めちゃくちゃ迷惑な奴やん!!それは申し訳なかった。」

彼はそう言っていたが私の気持ちは違った。今までは学校以外で一緒に遊ぶ友達がいないことがコンプレックスだったので、中澤君から誘われた時は嬉しかった。「この人とはずっと友達でいるかもしれない」と思ったし、この時に私が感じたことは実際正しかった。
 社会学部は男女の割合が半々くらいだった。大阪人の私からすると、当時は女の子が大阪弁を喋らないだけで上品で素敵だと思った。可愛い人もたくさんいたのだが、入学後すぐに気になった女の子がいた。彼女の名前は髙倉 千里(たかくら ちさと)さん。人の良さが滲み出ていて清楚な雰囲気、色白で可愛らしい女の子だった。
 1年生の間は必ず受けなければいけない必修の授業がいくつもあり、髙倉さんと授業が被ることも多かった。週1回の英会話の授業では毎回誰かとペアになって会話の練習をする時間があるのだが、毎回違う人とペアになることがルールになっていた。ある日の授業の時、仲の良かった男友達とは既にペアになっていたため、「どうしようかな」と考えていると、髙倉さんと目が合った。当時は女の子と自ら積極的に関わるような社交性はなかったと思うが、この時はなぜか自然に髙倉さんへ話し掛けることができた。話をしてみると、笑顔が可愛くて、関わっているだけでこちらも幸せになれるような幸せオーラがある人だった。ただ、髙倉さんは右手の薬指に指輪をはめていた。この時、18歳の女の子にしては大人っぽいシンプルな指輪をしていることが少し気にはなった。髙倉さんに彼氏がいることは残念ではあったが、不思議とショックな気持ちはなかった。恋愛対象というよりも癒しの対象、ファンの1人として見ていたのかもしれない。人間関係にも恵まれ、私は大学生活1年目を楽しく送ることができた。
 大学2年になると、1つの分野に絞って専攻科目を決めなければいけなかった。元々は新聞記者になる目標があり、メディアについての勉強をすることを考えていたが、大学生活を送る中でそれは現実的ではないことを感じていた。当時の新聞業界は就職希望者が多く、就活生にとっては狭き門だった。一方で新聞の購読者はどんどん減っており、既に斜陽産業になりつつあったため、新聞業界に対する魅力が私の中で減っていたのも事実だ。私は将来のことを考えて、社会福祉士コースに入り、社会福祉を専攻することに決めた。特に福祉に関心があったわけではなかったのが、世の中で福祉の需要が高まることが確実だったこと、大学生の間に何か国家資格を取りたかったこともあり、福祉を学ぶことにした。社会福祉士コースのメンバーの中には髙倉さんや顔見知りの友達も多く、私にとって楽しく過ごせる環境だった。
 2年生になってすぐの時期、社会福祉士コースの中で3つのグループを作り、グループごとに福祉施設へ見学に行く授業があった。私は髙倉さんと同じグループになった。その際にグループのリーダーを1人決めなければいけなかったのだが、リーダーを決める話し合いの進行を自然と私が務めた。「『お前が進行するならリーダーもやって』と思うよね」とみんなに話すと、誰もリーダーをやりたがらない様子だったので、私がリーダーを担当することにした。中学時代までは自分に自信がなかったため、みんなの前で何かを発表することや授業中に挙手をすることができない性格だった。しかし、高校時代に西川さんが頼りにしてくれたことや学校の成績が上がったことで自信がついて、この頃には話し合いで進行役を務めたり、みんなの前で発表をすることができたり、自ら発信することが自然とできるようになっていた。そうなると自分自身の性格上、リーダーなどの負担がある役割を誰もやりたがらない場面では、リーダーが決まらない不毛な時間を過ごすことのほうが嫌だったので、自ら立候補するようになっていた。この時も

「なかなかリーダーが決まらなくて、不毛な時間を過ごすのが嫌やから、自分がリーダーをやる。リーダーを決めたら、休憩時間に入れるから、早く休憩しよう。」

同じグループのメンバー全員にそう伝えた。すると髙倉さんが

「すごく素敵な性格、ありがとう!!」

みんなに聞こえる声で言ってくれた。私は「全然大丈夫!!」と笑顔で応えたが、本当はすごく嬉しかった。もしかしたら髙倉さんが同じグループにいたから、かっこいいところを見せるために自ら立候補することができたのかもしれない。この時にグループのリーダーは同じグループのメンバー全員の連絡先を聞いておくように先生から指示があったため、髙倉さんと連絡先を交換することができた。ただ、2年生の間は授業のこと以外で髙倉さんと連絡を取ることはなかった。彼女の右手薬指には以前と同じ指輪が光っていたため、髙倉さんに恋愛感情を持つこともなかった。
 当時の私には他に好きな人がいた。その人の名前は後藤 麻美(ごとう あさみ)さん。彼女とは2年生の時からゼミと社会福祉士コースで一緒になった。私が通っていた大学では2年の時から1つのゼミに入り、卒業へ向けての研究を進めることになっていた。1年の1月に同じゼミになるメンバーで顔合わせをした時、初めて後藤さんに会った。もしかしたら1年の間に同じ授業や校内で会っていたのかもしれないが、私の中ではこの時が最初の出逢いだと思っている。この時は顔合わせと簡単な自己紹介だけで終わり、後藤さんに対しては「明るい雰囲気だけど少し影のある人だな」と思った。この時は恋愛感情が湧くことはなかった。翌月の12日、既に大学は冬休みに入っている時期だったのだが、私が入ったゼミではこの時期に3年生が研究内容の中間発表会をするのが恒例行事になっていた。その発表会には同じゼミの2年生、そして1年の学生も参加して、今後の自身の研究の参考にする機会になっていた。発表会当日の後藤さんは黒のショートパンツを履いており、その脚線美と前にも感じた明るさの中にも少し影がある雰囲気に心を奪われた。この日は後藤さんのことが気になりながらも、会話をする機会はなかった。ゼミの発表会は2日間行われたため、翌日も実施されたのだが、私が会場となる教室に早めに到着すると、まだ誰も学生がおらず、「自分がいちばん最初か」と思いながら教室の電気をつけた。すると後ろから後藤さんがやって来て、そこで初めて会話をすることができた。一緒に話をしてみると、笑顔がとても可愛く、「やっぱり素敵な人なんだな」と思い、初めて話ができたことに嬉しさを感じた。大学2年生の間は後藤さんと会話ができた日は幸せ、会話ができなかった日は気持ちが沈む、そんな日々を過ごした。
 大学時代の私は少なくとも勉強に関しては真面目だった。授業で出た課題はいつも早めに終わらせていて、まわりの友達からも勉強面であてにされることが多かった。後藤さんも勉強面で私を頼ることが多く、それが嬉しかった。大学2年の夏休みの時に後藤さんをデートに誘ったが、その時は「ごめんね、彼氏に怒られるから」と断られた。しかし、後藤さんのことをどうしても諦められなかった。彼氏がいることを聞いた後も彼女に勉強面で頼られた時は嬉しかったし、それを生きがいにしている部分もあった。同じゼミに所属しているため、取り組まなければいけない共通の課題があり、一緒に取り組むことも多かった。勉強以外のことについても話をすることが増えていき、その中で後藤さんも中学校時代に学校へ行っていない時期があったことが分かった。彼女と出会った時に感じた影の部分はこれだったのかもしれない。自分と思わぬ共通点があったことで後藤さんへの気持ちは今まで以上に募っていった。
 1度、授業が早く終わって私と後藤さんを含めて4人で話をしている時、彼女が私について熱弁をしてくれたことがあった。

「ゼミで困った時は絶対に中川君を頼る!」

「ゼミのレポートも実習のレポートも助けてくれた!!」

「めっちゃ優しいし私にとってホントに神!!!」

みんなに熱く語る姿を見て、私は照れてしまったが、好きな女の子が自分の良さをここまで話してくれたことがなかったので、本当に嬉しかった。自分が思っていた以上に以前の出来事を覚えてくれていたのも意外だった。後藤さんと仲良くなっていく中で「やっぱり後藤さんと付き合いたい」と思うようになっていた。
 しかし、大学3年の夏休み前、私は後藤さんについてある疑問を感じるようになった。

「もしかしたら自分は後藤さんに利用されているだけではないか?」

「単に都合が良いだけの存在ではないか?」

そんなことは分かっているはずだった。利用されているだけだとしても、それを口実に後藤さんと関わるのが幸せだった。しかし、何がきっかけなのかは自分でも分からないが、彼女の態度に少し不信感を持つようになっていた。それでも彼女から高齢者福祉論の課題の相談を受けた時は嬉しかったので、私は自宅で添削に取り組んだ。翌日には添削したプリントを学校へ持っていき、ゼミの授業前に後藤さんにそのプリントを渡した。ゼミの授業の時は1つ前の授業終了時間の関係で、私と彼女だけが教室にいつも早く到着することができた。その時間に2人きりで関わるのが大きな楽しみでもあった。プリントを受け取った後藤さんは「ホントにやってきてくれたんだ!!」と笑顔で喜んでくれて、その笑顔に癒された。彼女に対して抱いていた不信感は思い過ごしだったと思い、ウキウキしながらその後の1日を過ごしていた。
 その日の授業が全て終わり、自宅へ帰ろうとした時、大学の食堂で後藤さんが彼女の友達と2人で話をしているところに遭遇した。私はなぜか反射的に後藤さんに気付かれないように死角になる場所へ隠れて、別の場所から帰ろうとした。すると後藤さんと一緒にいた友達が「最近好きな人とか気になる人って誰かいるの?」と後藤さんに聞いていた。私は後藤さんの声に耳を傾けた。

「ん〜別にいないかな。今はあんまり彼氏がほしいとも思わないから。」

「でも中川君は麻美のこと好きなんでしょ?」

「ん〜確かに中川君は優しいけど、都合が良い存在かな。いろいろ助けてくれるし。」

この言葉を本人の口から聞いた時、私の気持ちが一気に冷めた。片想いが冷める時はこんなものなのかもしれない。本来なら食堂を通るのが自宅への最短ルートなのだが、後藤さんと顔を合わせないため、大きく遠回りをしてその日は帰った。これ以来、後藤さんから話し掛けられれば今まで通りに接するようにしていたが、自分から彼女に関わることはなくなった。「女の子って、こんなものなのかな」と思い、「恋愛は当分しなくていいかな」という気持ちになった。
 大学3年生になると、社会福祉士の国家試験へ向けての授業が一気に増えた。夏には実習の期間もあるため私は忙しい日々を送っていた。学生が恋愛をしたくて仕方ない気持ちになるのは、何だかんだ時間に余裕があるからだと思う。「恋愛は当分しなくていいかな」と思ったのも、勉強が忙しくなり、日々の生活がある程度は充実していたからかもしれない。実習は各学生が自分で実習先を選んで、児童・障がい者・高齢者のどこかの施設や事業所で12日間に渡って行われるのだが、基本的には夏休み中の8月に行うことが多く、私もその1人だった。実習先によっては6月に実習を行うところもあったのだが、6月に実習を開始したメンバーの中に髙倉さんがいた。全員の実習先と日程は共有されていたため、私は髙倉さんの実習開始日がいつなのかを把握することができていた。彼女の実習開始初日の夜、事務的な用件以外のメールを初めて送ってみた。

「こんばんは。今日から実習やんね。いろいろ大変なことがあるかもしれないけど、頑張ってね。実習中は学校の授業を受けられないから、テスト勉強で困ったことがあれば、実習から戻って来た時に助けるので、その時は言ってくださーい。」

すると髙倉さんからすぐに返信が届いた。

「うわー、中川君だ。びっくりしたよ。覚えていてくれてありがとう。メールも嬉しいよ。今日1日行って全日程乗り切れるか不安だったから、メールが励みになりました。テスト甘えさせてもらいたい。唯一の頼みの千春が寝ていたら(笑)またお願いしたいです。
メール本当にありがとうね。」

後藤さんとメールでやり取りをしている時は返信が来ないことや、返信が来ても短文で済まされることが多かったので、髙倉さんからの丁寧なメールは新鮮だった。その後も髙倉さんの実習の邪魔にならないように配慮をしながらメールで連絡を取り、その度に丁寧なメールが返ってきた。実習中で忙しいにも関わらず、気持ちが込もったメールを送ってくれている。それが嬉しかった。私が彼女のことを好きになったのはこの頃からだった。
 髙倉さんが実習を終えると、「無事に実習を乗り切れました」とメールが届いた。今までは好きな女の子に対して自分から発信をすることが多かったので、こんな些細な出来事が嬉しく思えた。高倉さんの実習中に進んでいた授業の内容はほとんど私が彼女にレクチャーをした。彼女が実習で不在にしていた間、ノートやプリントは髙倉さんに見てもらう前提で分かりやすく書くようにしていた。
 テストの前日の夜にも髙倉さんからメールが届いた。この時期には髙倉さんから電話やメールで連絡が来た時には他の人と着信音を変えていたため、着信が鳴った瞬間に彼女だと分かるようになっていた。髙倉さんから連絡が来る度に携帯電話からは『この手をとって走り出して』※1が流れた。この曲が流れた時はいつもワクワクしながら、携帯電話の画面を開いた。

「こんばんは。中川君、明日の生活保護のテストの内容が分からなくて困り果てています。起きていたら助けてー。眠っていたら、スルーしてね。」

私は「今から電話するね」と返信をして、すぐに電話を掛けた。この時期、メールアドレスは知っていても電話番号を知らない友人も多かったのだが、髙倉さんとは大学2年の授業で同じグループになり、自分がグループのリーダーになった際に先生からの指示でメールアドレスと電話番号を交換していたため、彼女の電話番号を知ることができていた。

「もしもし、メールで伝えるよりも電話で話したほうが分かりやすいから、今から明日のテストのポイントを電話で伝えるね」

「夜遅くにごめんね。これだと、中川君のほうで電話代が掛かってしまうから、すぐに私のほうから掛け直すね。ちょっと待っていて。」

髙倉さんはそう伝えると、電話を1度切ってすぐに掛け直してくれた。「律儀な人なんやな。彼女の力になりたい。」と思った。私は翌日のテストでどのような問題が出題されるかをある程度は予測することができていた。高校時代から、「この部分をテストに出すからね」と先生が言わなくても、先生の言葉遣いや話し方、その先生の好きな範囲からテストに出題される問題を見抜く力がついていた。テストに出題されることが予想される問題、それに対する解答例や髙倉さんが分からない部分を全て口頭で説明した。電話で2時間くらいは話をしたと思う。こんなに長時間誰かと電話で話をしたのは初めてだった。彼女も分からなかった部分を理解できたようで、「明日のテストは自信を持って臨めそう」と話してくれた。私は教えるのに力が入り過ぎて、最後は少し声が枯れていた。
 テストが終わると髙倉さんからお礼の連絡が届き、そんな律儀なところにどんどん惹かれていった。お礼のメールには「夏休みはヘルパー2級取得のために頑張ります」と彼女自身のことも記してくれていた。後日さらに嬉しいことがあった。8月の中旬、私が翌日に実習を控えていた日のことだ。携帯に髙倉さんからメールが届いた。

「いよいよ明日から実習やね。不安もあると思うけど、その分、得るものもあると思う!!真面目で前向きな中川君なら全く心配ないと思う。今の中川君ができることを精一杯やって楽しんできてね。ピンチはチャンス!!実習の日誌に書くネタが増えたと思ったらへっちゃら。まずは健康第一に2週間を乗り切ってくださいな。毎日感じたことやストレスに思ったことはそのつど発散していくことがオススメ!!うちでよかったらいつでも聞くからね〜。」

 私はこのメールだけで実習を乗り越えられる気がした。実習は確かに大変だったが、自分1人ではなく3人のメンバーで参加したため、みんなで励まし合いながら乗り越えていった。この時に実習を共にしたのが嶋崎 千春(しまざき ちはる)さんと山口 彰(やまぐち あきら)君の2人だ。嶋崎さんは髙倉さんの親友で私とも仲が良く、共通の友人という関係だった。山口君も私の友人だ。高身長で女の子からも人気があった。授業の課題を忘れることなどが多く、抜けた部分もあるが憎めないところがある人だった。
 私は知的障がいや発達障がいをもつ就学前の子ども達が通う施設で実習に取り組んだ。朝の6時00分に起床して、8時30分には実習先に到着、子ども達と関わって実習が終わるのは17時00分頃、自宅に帰ってからは実習の日誌を作成するというのが1日の流れだった。この日誌の作成が本当に大変で、初日は日付が変わる頃にようやく終えることができた。疲れ果ててすぐに眠りについたが、あっという間に朝を迎えた。疲れがほとんど取れていなかったため、絶望的な気持ちになった。
実習中は1週間を乗り越える度に千里ちゃんにメールで連絡をした。千里ちゃんには朝が来るのが早くて、毎朝目覚めるのが大変なこと、実習先で担当したクラスの帰りの会を自分が実施することになり緊張したこと、レクリエーションを企画することになったためボウリングをしようと思っていることなど、実習中の出来事を伝えた。その度に彼女は優しい言葉で励ましてくれた。千里ちゃんは夏休み中に好きなアイドルグループのコンサートを楽しんできたことを教えてくれた。私もそのグループのことが好きだったので、共通の話題として盛り上がった。
 実習が終わってからも千里ちゃんとメールでやり取りをすることが続いた。ちょうどこの年の9月はアイドルグループのアニバーサリーの記念コンサートがあったため、そのことが話題の中心になった。千里ちゃんにとっても、男友達とアイドルグループについて深く話がすることはなかったみたいなので、それが新鮮で嬉しかったようだった。
 9月の中旬、学校の授業が再開すると千里ちゃんと顔を合わせることも増えて、楽しい日々を送っていた。だが、右手薬指には大学1年の時と同じ指輪が変わらず光り輝いていた。恋愛の話を彼女とすることはなかったが、私は千里ちゃんの右手薬指から指輪がなくなった瞬間に自分の気持ちを伝えるため、心の準備はするようにしていた。
 学校の授業が再開して1週間が経ったある日、千里ちゃんが学校へ来なかった。今までも時々、体調不良で授業を休むことがあったため、最初はそこまで気にしていなかった。しかし、1週間が経っても千里ちゃんは授業へ来なかった。私は心配になり、彼女にメールで連絡をした。返信が来たのは数日が経ってからだった。どうやら厄介な病気になったかもしれないようで検査待ちとのことだった。どのような病気かは聞けなかった。女性特有の病気かもしれないし、異性の自分には話しにくいかもしれないと思った。結果的に千里ちゃんは年内に数回しか授業に来なかった。私は1週間に1回のペースで彼女と連絡を取った。授業のことで彼女に伝えたほうが良いことは共有して、「元気になったら学校でまた会おうね」と励ました。私が送ったメールに対して千里ちゃんは必ず返信をしてくれた。すぐに返信が来ることは少なく、4日〜1週間ほど経ってから届くことが多かった。当時は気付けなかったが、後に自分がうつ病になった時、千里ちゃんは相当頑張って返信をしてくれていたことに気付いた。この時期、彼女が精神的に追い込まれていたことを後に知るのだが、メンタルが落ちている時はメールの返信でさえも億劫な気持ちになってしまう。私がうつ病になった時、心配して連絡をくれる同僚もいたが、返信することができなかった。3行程度のLINEやメールを送ることすら大きな負担だった。千里ちゃんは少しでも元気になった時に頑張って返信をしてくれていたのだと思う。
 当時の千里ちゃんとのやり取りで印象に残っていることがある。彼女が授業を休むようになって2ヶ月が経った11月の後半、いつものように千里ちゃんへメールを送った。いつも彼女からは「元気だよ」「大丈夫だよ」と返信が来るのだが、この時期にはメールの文面から千里ちゃんが追い込まれていることにさすがに気付いていた。以前と違って文脈が不自然だったし、主語と述語が繋がっていないことも目立った。

「こんにちは。千里ちゃんが授業を休むようになって正直寂しい。でも千里ちゃんと連絡をすることがモチベーションになって、いろんなことを頑張れています。千里ちゃんは優しいから、僕にも『元気だよ』『大丈夫だよ』と言ってくれて、そういう思いやりがあるところが本当に素敵だと思う。でも辛い時や気持ちが沈んでしまった時は僕で良ければ話も聞くし、できることなら何でもするから遠慮なく言ってね。元気になったら、また学校でいろいろ楽しい話をしましょう。今日1日がどんな日であっても、その日の千里ちゃんが100点満点!!」

女の子にここまで気持ちをぶつけたのは初めてだった。彼氏がいる女の子に対してできるかぎり配慮はしたが、今の自分に伝えられることを伝えた。メールを送った翌日、千里ちゃんから返信が届いた。

「中川君、メール本当にありがとう。正直メールを読んで涙が溢れてきました。こんなに温かいメールをありがとう!!みんなに『大丈夫』って言いながらも不安で不安で仕方なくて、どうしようもなかったんだけど、すごく心が温かくなりました。本当にありがとう。回復するまではまだ時間掛かりそうやけど、治ったらまたよろしくね。」

千里ちゃんが辛い思いをしていることを知り、苦しい気持ちにはなったが、本音をぶつけてくれた嬉しさもあった。
それからも週に1回のペースで彼女と連絡を取り合う日々が続いた。12月に入ると、嶋崎さんが社会福祉士コースのメンバー全員にA4用紙を1枚ずつ配り、「千里にメッセージを書いてほしい」とお願いをしていた。当時の私は就職活動で忙しくなり、時間があまりなかったのだが、千里ちゃんとはメールで連絡を取ることが多く、手書きで気持ちを伝えたことはなかったので、この機会に「手書きだからこそ伝えられることを伝えよう」と思った。私は丸2日掛けて、以前に千里ちゃんが着ていたTシャツにデザインされていたキャラクターを描き、彼女が好きなアイドルグループの曲の中で元気が出そうな曲の歌詞、彼女へのメッセージを書いた。絵に関しては小学生の時にコンクールで入賞をしたことがあり、自信があった。「この機会に自分の描いた絵を見てもらいたい」という気持ちもあった。完成した後は嶋崎さんに託したが、絵の上手さに嶋崎さんも驚いてくれて、誇らしい気持ちになった。
 その後、忙しさの中であっという間に時間が流れていき、クリスマスイブを迎えた。私はこの日も就職活動で会社を訪れていた。午前中に予定が終わり、これで学校と就職活動に関する年内の予定を全て終えることができた。「この1年いろんなことがあったな」と思いつつ、夜に自宅で過ごしながら千里ちゃんにメールを送った。本当に取り留めのない内容だったと思う。翌日、千里ちゃんから返信が届いた。

「中川君ありがとう。メールもメッセージもすっごく嬉しかった。素敵な絵も時間かけて描いてくれたんだろうなって。歌詞もアルバムにしか入っていない曲でびっくりしたよ。しかもうちが大好きな曲!!中川君からこの歌詞を贈ってもらったこと、すごく嬉しい。どんなこともずっと続くわけではないよね。このまま私はどうなってしまうんだろうって不安になるけど、その不安がいつか晴れてその時に自分が成長できたら、いつか『いい経験だった』って思えるかな。
中川君みたいな誠実で温かい人が世界中にいたら、みーんな幸せになれるのにな。いつもいつも助けてもらってばかりでごめんなさい。テストの件も本当に助かります。
いつか私も中川君に恩返しできるくらいに優しい人間になりたいと思う。」

人から「優しい」と言われたことは今までに何度もあったが、「誠実」と言われたことは初めてだった。正直、自分は誠実な人間なんかではない。それでも千里ちゃんの思いを裏切らないように「できるかぎりそういう人間になろう」と思った。
 充実した気持ちの中で新年を迎えて、千里ちゃんに新年の挨拶のメールを送った。千里ちゃんからの返信の内容は彼女が前よりも元気になっていることが伝わる内容だった。

「明けましておめでとうございます。今年も図々しくお世話になっちゃうので、どうぞよろしくお願いします(笑)大阪から戻ってきたんやね。実家ではゆっくりできたかな?うちも今日、愛知に帰ってきたよ。自分の家はもうなんか落ち着くよね。
体調はぼちぼちかなあ。でもだんだん前向きになれるようになりました。あっ、熱田神宮でおみくじ引いて、末吉で健康運のところに『病気が長引く』って書いてあって落ち込んだことは内緒ね(笑
)
テストの件、本当にありがとう。気を遣わせてしまってごめんね。本当にありがとう。
今年も中川君のきらきら笑顔がたえない年になりますように。」

 新年最初の授業の日、久し振りに千里ちゃんと会うことができた。千里ちゃんは嶋崎さん達女の子の仲良しグループの中にいたので、挨拶程度しか関わらなかったが、千里ちゃんが学校に来ていることが嬉しかった。ただ、やはり体調が万全というわけではなかったようで週に2日ほどは学校に来るが、残りは休んでいた。テストまであと2週間に迫ったある日、授業が終わって私が1人で歩いていると、偶然、千里ちゃんと嶋崎さんが2人でいる場面に出くわした。その輪の中へ入ろうか迷ったが、千里ちゃんが笑顔で手を振ってくれたので、吸い込まれるように輪の中へ入って行った。何となく千里ちゃんの右手を見ると、薬指に指輪がないことに気付いた。この時に前の彼とは別れたことに気付いた。3人で喋っている時に各自のこの日の予定の話になった。私は家庭教師のアルバイトがあったので、そのことを伝えると、「私も中川君に家庭教師をやってもらいたい」と千里ちゃんが話した。話の流れで3日後に彼女と学校で会って、2人で一緒に勉強会をする約束をした。そして、私はその勉強会が終わった後に自分の気持ちを千里ちゃんへ伝えることを決心した。勉強会で教える内容と告白する言葉を考えながらワクワクした気持ちで勉強会までの日を過ごすことになった。
 勉強会2日前、社会福祉士コースの授業が午前中に終わった後、山口君が「授業でメモができなかったところがある」と私に相談をしてきた。「授業中に寝ていたら、そりゃそうやろ」と思ったが、根は優しくて憎めない存在だったので、昼食をご馳走してもらう代わりにノートやプリントを貸すことにした。丸1日借りると私が勉強をできなくなって困ることは山口君も分かっていたため、昼食の後に大学の食堂の丸テーブルで彼はせっせと私のノートやプリントを参考にしながらメモを進めた。山口君が作業をしている間、私は彼が使っていないノートを見ながら勉強をして時間を潰すことにした。すると、昼食を終えた千里ちゃんと嶋崎さんが偶然通りかかり、4人で一緒に過ごすことになった。嶋崎さんも授業中にメモができなかった部分がいくつかあったようで、私の了解を取って山口君と一緒に勉強を始めた。山口君と嶋崎さんは2人で1つの机を使うために少し離れた丸テーブルへ移動したため、必然的に私と千里ちゃんが2人で過ごすことになった。電話で2時間以上一緒に話をしたことはあったが、対面して2人きりでゆっくり話すのはこの時が初めてだった。嶋崎さんから千里ちゃんに渡った手書きのメッセージが話題に出たので、私はそのことについて話をした。

「あれはね千里ちゃんも知っていると思うけど、嶋崎さんがみんなにA4の用紙を渡して、『千里ちゃんへのメッセージを書いてほしい』と提案して動いてくれたの。自分はメッセージと一緒に何かイラストも描こうと思って、最初は千里ちゃんが好きなアイドルの似顔絵を描こうと思ったんやけど・・・あれなんよね、かっこいい人の顔は大きな特徴がなくて、整っているからかっこいいのであって、似顔絵として描くのはすごく難しいんよ。だから描き始めてすぐに諦めた(笑)それで何か千里ちゃんが好きなキャラクターでも描こうかなと思ったんやけど、千里ちゃんが好きなキャラクターが分からなくて・・・。どうしようかなと考えている時、前に千里ちゃんがあのキャラクターの描かれたTシャツで授業に来ていたことを思い出したの。その時に『可愛いな』って思った(笑)千里ちゃんがそのキャラクターを好きなのかは分からなかったけど、それがあのキャラクターを描いた理由。」

「そうなんやね。そこまで考えて描いてくれてすごく嬉しいし、みんなからのメッセージを千春から受け取った時、中川君からのイラスト付きのメッセージを見つけて、あまりの上手さに本当にびっくりしたよ。私は絵を描くの苦手やから(笑)歌詞も『なんでシングルじゃない曲の歌詞を知っているんやろう!!』ってびっくりして、しかも私が大好きな曲やから『中川君ってすごいな!!』と思った。しかも『中川君が絵やメッセージを描くのにいちばん時間を掛けたはずやのに、誰よりも早く提出してくれたよ』って千春から聞いて本当に嬉しかった。」

 この時は自分が今まで経験してきたことなどをたくさん伝えたが、千里ちゃんからもいろいろな話を聞くことができ、病気のことについても話してくれた。薬の副作用で身体がだるいことが多いこと、顔が少し膨れてしまっていることも教えてくれた。千里ちゃんは病気になった後はいつもマスクをしていたため、顔が膨らんでいることには気付かなかった。彼女が「顔見る?」と言ったので、「えっ・・・でも無理に見せなくても大丈夫やで」と私は言った。しかし「中川君なら全然いいよ」と言い、千里ちゃんはマスクを外した。確かに少し膨れてはいるが、正直、言われなければ分からなかった。そのことを伝えると、彼女は嬉しそうな表情をして、再びマスクをつけた。
 千里ちゃんが自身のことを話してくれたため、私も今まで誰にも詳しく伝えたことがなかったことを彼女に話した。今までの恋愛が話題になったので、私は正直に伝えた。

「実は前は後藤さんのことが好きやったの。1年半くらいは好きやったかな。でも後藤さんが友達に『中川君は都合の良い存在だから利用しているだけ』と話しているのを聞いてしまって・・・。ちょうどその時期は思い当たる節もあったから。片想いが冷める時ってこんなに呆気ないものなんやなと思った。」

今まで千里ちゃんから何かを否定されるようなことを言われたことはなかったのだが、この時だけは私の話に反論をしてきた。

「もしかしたら麻美ちゃんにとって中川君は本当に頼りになる存在やけど、その時は照れてしまってそういうふうに言ってしまっただけかもしれないよ」

私は千里ちゃんの考えを否定して

「いや・・・、それはないと思う。だって、そう思ったんやもん。でもその件があったから、千里ちゃんから思いやりのあるメールが返ってきた時はいつも嬉しかった。」

そう彼女に伝えると、「そうなんだね」とニコニコしながらも何かを考えているように見えた。結局、この時は千里ちゃんと2時間半以上は話をしたと思う。そのタイミングで山口君と嶋崎さんの勉強もひと段落したため、この日は解散となった。
 翌日、つまり勉強会の前日でもあり、私が千里ちゃんへ告白をしようと決めていた前日である。私は翌日が楽しみで仕方なく、ウキウキしながら1日を過ごしていた。この日は忙しさでバタバタしていて携帯電話を全く確認していなかった。夕方に携帯電話を確認すると、千里ちゃんからメールが届いていた。この日は体調が良くなかったのか、彼女は学校を休んでいた。私は彼女からのメールをワクワクしながら確認した。

「昨日はいっぱい話してくれてありがとう。中川君が沢山感じてきたことを伝えてくれて嬉しかった。あれから自分なりに考えたんだけど・・・、中川君にはきちんと伝えておくべきだと思うので聞いてください。
私ね、もう気付いているかもしれないけど山口君とお付き合いしています。中川君が前の恋愛の時に『利用されてしまった』っていう言葉を使っていて、私は昨日からそれが気になって仕方がなかったんだ。自分も中川君を利用しているのではないかって・・・。私は人を使うとか利用するって言葉が大嫌いだから、そんな人間になりたくないんだ。私も理由があるにせよ中川君を利用していることになるのかもしれない。そんなことはしたくない。私がお願いしちゃったがために沢山しなくてもいい勉強をさせてしまったのかもしれないね。本当にごめんなさい。
このことを知った上で中川君はどう感じたか、よかったら教えてください。
乱文乱筆失礼しました。」

メールを読んだ瞬間、血の気が引いて頭が真っ白になった。前の彼氏と別れた後の僅かのタイミングで千里ちゃんが山口君と付き合い始めていた。メールを確認した時、すぐ横に友達がいたので平静を装ったが、間違いなく動揺していたと思う。この日の授業を終えて、自宅に戻った後はしばらく放心状態だった。どのように過ごしたのかもあまり覚えていない。1つだけ覚えているのは自分のパソコンが故障してしまい、夜明けまで修理をしていたことだ。本当に散々な1日だった。ただ「何とか千里ちゃんへ返信をしないといけない」という気持ちはあったので、文章を絞り出してメールを返信した。

「メール読みました。教えてくれてありがとう。
千里ちゃんが思っている通り、自分は千里ちゃんのことが好きです。山口君と付き合っていること、『もしかしたら』と思う場面はあったけど知りませんでした。
前から千里ちゃんが右手薬指に指輪をはめていることは気付いていました。去年の夏頃には千里ちゃんのことが好きになっていたけど、彼氏がいる人を無理矢理奪うことはできなかったから、別れるのを待っていました。今年に入って、指輪をしていないことに気付いた。だから、明日会った時に自分の気持ちを伝えるつもりでした。
1つだけはっきり言いたいのは、自分は『千里ちゃんに利用された』とは思っていません。千里ちゃんに好きになってもらいたい気持ちで行動していたのは確かにそうです。ただ、事実を全て知っても『利用されていた』とは思わないし、友達として千里ちゃんの力になりたいと思っている。だから自分は大丈夫。明日の勉強会で会おうね。」

この時の自分にできる精一杯の優しさと強がりだった。「千里ちゃんと山口君は絶対に合わない」と私は思っていた。

「千里ちゃんの負担が増えるだけで彼女が疲れ果てるんじゃないか」

これが私の本音だった。確かに山口君には優しい部分もあるが、それ以上に時間にルーズだったり約束を守らなかったりダメな部分があった。真面目で一途な千里ちゃんが山口君と合うとは思えなかった。だが、病気で苦しんで、せめてもの救いとして恋愛を心の拠り所にしている千里ちゃんに「山口君はやめて、自分と付き合って」とはさすがに言えなかった。これは自分のエゴだと思った。翌日の朝に目覚めると、千里ちゃんからの返信が届いていた。

「おはよう。気持ちを伝えてくれてありがとう。結果的に言わせてしまってごめんなさい。
でも中川君が沢山うちなんかのことを考えてくれていたことをとても嬉しく思うし、誇りに思います。そして冷静に判断して行動してくれたこと、掛けてくれた言葉にどう感謝していいか分からないくらいありがたく思っているよ。
今日の勉強会・・・、できたら千春も一緒に教えてほしいんだけど、お願いできるかな?ごめんね。
本当にありがとう。これからもどうぞよろしくね。朝早くから失礼しました。」

千里ちゃんの真っ直ぐな文章を読んで、余計に気持ちが苦しくなった。「いっそ、千里ちゃんを嫌いになりたい」とさえ思ったが、そういうわけにもいかなかった。気持ちが頭に追いつかなかった。嶋崎さんも勉強会に参加したいというのは昨日の時点で予想ができていた。自分としても嶋崎さんが一緒にいてくれたほうが精神的に助かると思った。告白して、おそらく成功するだろうという状況からの転落はさすがに堪えたが、学校ではそれを悟られないように振る舞った。
 当日の授業が終わった後、千里ちゃん・嶋崎さんと一緒に勉強会をした。私は準備しておいたノートやプリントを見てもらいながら、テストのポイントになりそうな箇所を1つずつ説明した。前日、携帯電話を開く時間がないくらい忙しかったのは、この日の勉強会用のプリントを作成していたからだ。その時は明日のことを考えながら、幸せな気持ちでプリントを作っていたが、まさかこんなことになるとは思わなかった。この時点で千里ちゃんから真実を伝えるメールが届いていたのに、それにも気付かないくらいに浮かれてプリントを作っていた自分は本当に大まぬけだと思う。
 千里ちゃんの前では自分でも驚くほど冷静になれて、普段通りに関わることができた。勉強会がひと段落した時、話の流れで私がまだ昼食を食べていないことを話した。前日の出来事が衝撃過ぎて、食欲が完全になくなっていたのだ。もちろん食欲がないことは伝えず、「食べるタイミングがなかった」と嘘をついた。千里ちゃんは「中川君には散々お世話になっているからご馳走する。何か食べよう。」と私に話した。上手く表現ができないが、この時に心からこの言葉を言えるのが彼女の魅力なのだと思う。私はいつも食べているいちばん安いうどんを注文しようとしたが、千里ちゃんから「せっかくだから他のものを食べようよ」と促され、肉うどんを初めて注文した。この時、嶋崎さんが先にテーブルへ移動したことで私と千里ちゃんが2人きりになる場面があった。おそらく、嶋崎さんが気を遣ってくれたのだと思う。私は千里ちゃんに昨日のことを話した。

「昨日、自分に連絡をくれた時は勇気がいったよね。ありがとう。」

そう伝えると千里ちゃんは

「違うの。そうじゃないの・・・。違うんだよ。」

そう笑顔で話していたが、それ以上何も言えなくなった彼女を見て、私も何も言えなくなった。
 この日の勉強会を終えて、テストまではあと1週間となった。この週は千里ちゃんの体調が良くなかったようで、ほとんど授業に来ることがなかった。私は彼女が休んでいる間に先生1人ひとりに話をしに行った。授業の中には出席回数が一定の回数未満だと単位が与えられないものと、出席ができていなくてもテストで一定の点数を取ることができれば単位を取れるものがあった。福祉関係の授業はテストで一定の点数を取ることができれば、授業に出席できていなくても単位が取れると私は思っていた。ただ、福祉の授業に参加している学生はほとんどが社会福祉士コースの学生で、先生も誰が授業に参加しているかは簡単に判断ができたため、核心が持てなかった。私は先生1人ひとりに千里ちゃんが体調不良でほとんど授業に出席できていないこと、自分が授業の内容を伝えて、テストに備えていることを話した。単位については先生全員から「授業に出席できていなくても、テストで合格点を取ることができれば単位を与える」という回答が返ってきた。私は千里ちゃんにそのことを伝えて、「テストを頑張れば単位が取れるから大丈夫」と励ました。自分でもかなりのお人好しだと思う。今までの優しさのほとんどが千里ちゃんと恋人になりたくてしていたものだった。今はその可能性がなくなったのに、これだけ行動ができるのは何なのだろうか?正義感のようなものが自分にあったのか?理屈ではなくて、「この人の力になりたい」と思ったのかもしれない。
 私はテストが終わるまで千里ちゃんへのサポートを続けた。夜に「勉強に困っている」と連絡が来れば、2時間以上はテストのポイントになる箇所を解説した。こうして2人で無事にテストを乗り切ることができた。千里ちゃんが全教科で単位を取れているかは分からない。単位の取得結果が分かるのは3月に入ってからだ。それまでは結果を待つしかない。私はテスト最終日のテストが終わった後に友達と少し話をしてから教室を出て、自分のバイクを止めている駐輪場へ向かった。ちょうど通り道に千里ちゃん、嶋崎さん、山口君が3人で話をしていた。駐輪場へ行くためには3人がいる道を通らなければいけない。この時は山口君がいたこともあり、輪の中へ入りたくなかった。私は他の学生に紛れて少し走りながら駐輪場へ向かった。千里ちゃんは自分がいたことに気付いていたと思う。
 テストが終わり、もう自分からは千里ちゃんへ連絡を取らないことを決めていた。自分が山口君の立場なら、千里ちゃんが異性の同級生と頻繁に連絡を取り合っているのは気分が良いわけがない。私も彼女のことを諦めて、他の恋愛へ歩み出したかったし、そう思うしかなかった。だが、テストが終わった翌日、千里ちゃんからメールが届いた。

「こんばんは。夜遅くにごめんなさい。先週は久し振りに活動したから疲れちゃったみたいで、ずっとベッドとお友達していました。
今回のテストを乗り切れたのは、他の誰でもなく中川君のおかげだと思う。本当に本当にありがとう!!感謝の気持ちでいっぱいです。中川君が支えてくれたおかげで精神的に本当に楽でした。本当にありがとう。
お礼が遅くなってしまって失礼しました。」

このメールを読んで、私はすぐに返信をした。

「こんばんは。メールありがとう。テスト、本当にお疲れ様でした。
テストが終わってから千里ちゃんのことを考えていたけど、『自分は今までのように千里ちゃんと連絡を取り合うことはもうしないほうがいい』と思いました。自分がやっていること、山口君の立場なら、いい気分にはならないから。僕のことなんかより、千里ちゃん自身や山口君を大切にしてください。
学校で会った時は今まで通り関わりたいと思っているので、仲良くしてね。
千里ちゃんは『中川君に支えられている』といつも言ってくれていたけど、本当は僕が千里ちゃんに助けられて、元気をもらっていた。本当にありがとう。
堂々と幸せになってね。」

これが千里ちゃんに対する決別のメッセージだった。自惚れかもしれないが、自分が今までのように千里ちゃんと優しく関わったら、彼女は山口君のだらしないところがどこかで嫌になり、「自分に気持ちが傾くかもしれない」という気持ちはあった。しかし、そんな卑怯なことはしたくなかった。客観的に2人は合わないと思ったが、「千里ちゃんが幸せならそれでいい」と自分に嘘をついて、身を引くことにした。もう千里ちゃんから連絡が来ることもないと思っていたが、2日後の夜遅くに彼女から返信が届いた。

「この前はメールありがとう。中川君が考えてくれたこと、すごく嬉しく思ったよ。
最近、男の人関係で不信に思うことが多くて、『人間って何なんかなぁ〜』って考えていたから、『そういう中川君みたいな考えや行動をしてくれる人がいるんだ』と思って、心が温まりました。ありがとうね。
今まで堂々と幸せになるってことができていなかったから、最後に言ってくれた言葉がすごい心に染みました。
中川くんは『僕なんか』って言ったけど、そうは思わないでほしい。中川君の幸せを祈っています。
本当にありがとう。」

このメールを読んだ時は嬉しい気持ちなどはなく、「こっちは気持ちを切り替えて新しい恋愛をしようと思っているのに、なんでこんな思わせぶりなメールを送るの?」と思った。このメールを送ってきた千里ちゃんの気持ちを理解することができなかった。さすがに疑問に思ったので、他の人の意見が聞きたくなり、中澤君に千里ちゃんの名前は出さないで、好きだった人がいたこと、今まであったこと、最後に彼女から送られてきたメールの話をした。中澤君とは恋愛のことをお互いあまり話すことはなかった。彼は大学で社会調査を専攻しており、2年生以降は校内で行動を別にすることが多かったため、私が千里ちゃんを好きなことを知らなかった。

「自惚れかもしれないけど、自分はこの人にキープをされている気がする。彼女が彼との仲がダメになった時のためにキープされているんやと思うけど、そんなことをされても嬉しくない。中澤君はどう思う?」

「うん・・・、話を聞いている限り、その人は中川君をキープしていると思う。まあでも、そういう女の子はいるから、その人も罪の意識なくやっているんじゃない?筋を通す性格の中川君からしたら考えられないと思うけど、女の子ってそういう人もいるよ。」

「うん、そうやんね。自分も女の子に幻想を抱いていた部分はあったと思う。それでこの人の名前やねんけど・・・、自分が好きやったのは髙倉千里ちゃん。1年の英会話の授業で一緒やったから分かるよね?あと千里ちゃんが今付き合っているのは山口君。」

「!!!!えっ・・・、相手の人って髙倉さんなの?!嘘でしょう。いや・・・、人をキープするとか、そんなことをする人には見えないけど。しかも山口君と付き合っているの??その2人は合わないんじゃないの?」

「自分もそう思っている。『千里ちゃんと山口君と絶対に合わない』と思っているけど・・・、でも千里ちゃんが山口君を好きで、それが病気の支えになっているんやったら仕方ないよ。自分も『千里ちゃんは人をキープしたりとかはしない人』やと思っているけど・・・、それやと最後に届いたメールの意味が分からないやん。」

 私は千里ちゃんの件でさすがに落ち込んだものの、ちょうど大学が春休みに入ったことで彼女と顔を合わせることがなく、就職活動の最中だったこともあり、千里ちゃんへの想いは断ち切り、毎日を忙しく過ごしていた。日々、就職活動やアルバイトに勤しんでいたが、2月25日は丸1日特に予定がなく、就職活動で使用する履歴書を書きながら自宅でのんびりと過ごしていた。約1ヶ月間、千里ちゃんのことをほとんど考えないようにして生活を送っていたのだが、この日だけは彼女のことが気になって仕方がなかった。特に最後に送ってくれたメールの「男の人関係で不信に思うことが多くて」の一言が引っ掛かっていた。その件を心配していることを口実にして、もう1度連絡を取ろうか私は迷った。今まで勉強を教える以外は彼女とメールでやり取りをしていたが、この時だけは「電話を掛けよう」と思った。携帯電話を開いて、千里ちゃんの電話番号を表示させて電話を掛けようとした。しかし、ギリギリのところでキャンセルボタンを押して、携帯電話を閉じた。もしかしたら山口君と一緒に過ごしているかもしれないし、今さら電話をしたところで千里ちゃんを困らせるだけだと思った。私は千里ちゃんへの思いを完全に断ち切ろうとした。彼女とやり取りした全てのメールを消すために携帯電話を開いた。今までも自分の気持ちを断ち切るために好きだった人からのメールや連絡先を消したことがあったので、それは特別なことではなかった。しかし、それはできなかった。約半年間、恋人ではなかったが、少なくともただの友達ではなく特別な関係として繋がっていた証を消すのは嫌だった。「時間が経って、気持ちの整理がついたらメールを消せばいいや」と思い、その日は寝ることにした。
 翌日の2月26日は朝からアルバイトで忙しい1日を送った。この日はバイトの時間がいつもより長く大変な1日になることは前から分かっていたため、ずっと憂鬱に感じていたが、無事に乗り越えることができて、清々しい気持ちでその日の夜を過ごしていた。すると、携帯電話の着信音が鳴り、メールが届いた。相手は嶋崎さんだ。嶋崎さんとメールでやり取りをすることはそこまで多くないのだが、今回、メールが届くのには心当たりがあった。3年生の時と同じように4年生でも夏休み中などに実習へ行くのだが、次回も嶋崎さんと同じ実習先へ行くことが確実になっていた。メールが届いた瞬間、「実習の相談かな」と思いながら文面に目をやった。

「こんばんは。今日、髙倉千里ちゃんが亡くなりました。通夜は明後日の2月28日、告別式は3月1日に行います。場所と時間は改めて連絡します。中川君、ごめんやけど中川君と同じゼミの社会福祉士コースの人達にこのことを伝えてもらえますか?」

頭が真っ白になった。嶋崎さんからの連絡の通り、千里ちゃんが亡くなったことを同じゼミのメンバーへ連絡しなければいけない。メールを作成して送ろうと思ったのだが、20分経っても文章を作ることができなかった。時間が経つと自分がパニックになっていることに気付き、自分自身を客観的に見ることができて、少し落ち着くことができた。気持ちを落ち着かせて何とかみんなにメールを送った。
 つい1ヶ月前は体調が悪かったとはいえ、大学に来てテストを受けていたのに、そんなに深刻な状況とは思わなかった。そして最期に千里ちゃんと会った時のことを思い出した。千里ちゃん、嶋崎さん、山口君が一緒にいるところを避けるように走り去ったこと・・・。これが最期になるなんて、その時は思わなかった。千里ちゃんが最期に見た自分の姿がみんなを避けて、走り去った場面にしてしまった。山口君が近くにいようと笑顔で別れるべきだった。しかし、そんなことを考えても、今さらどうすることもできない。
 その後、私は中澤君に電話を掛けた。彼も他の友達から千里ちゃんが亡くなった連絡を受けていることは分かっていた。彼に対して電話で何を話せば良いのか分からなかったが、「自分は大丈夫」と伝えなければいけないと思った。

「連絡きたよね・・・・・。千里ちゃんが亡くなった。どうしたらいいんやろう?」

「ごめん。今回はどう言葉を掛けたらいいのか分からない。力になれなくてごめん。」

私よりも中澤君のほうが泣いていた。親友の存在が本当にありがたかった。
 彼との電話が終わった後、今度は嶋崎さんに電話を掛けた。お互いに励まし合って、「何とか通夜と告別式は乗り越えよう」と約束をして電話を切った。
 千里ちゃんが亡くなった翌日の朝は不思議なくらい目覚めが良かった。「もしかしたら昨日のことは全て夢だったのかも?」と思い、携帯電話を開いたが、嶋崎さんからのメールは確かに届いていた。やっぱり昨日のことは現実だった。翌日の通夜には中澤君が会場まで車で送ってくれた。会場へ近づいてくると、千里ちゃんの通夜を知らせる看板が道路に出ていて、現実を突きつけられたような気がした。通夜の時は彼女の遺体を見るのが怖かったのと、通夜終了後に同級生が棺のまわりにたくさん集まっているのを見て、なぜかその輪の中へ入る気になれなかった。何より山口君が通夜の席で大泣きしているのを見て、妙に冷静になれた。山口君の泣き方は尋常ではなかった。いくら恋人が亡くなったからといって、「ここまで大泣きするのか?」と思った。私は心の中で「お前はいいよ。最後の数ヶ月だけでも、千里ちゃんの恋人として過ごせて、彼女を亡くした今、彼氏として参列者全員に同情してもらえているのだから。付き合うこともできなかった自分の立場はどうなるのか」と腹が立った。
 翌日の告別式、最後に千里ちゃんと対面をする時、私はどうしようか迷っていたが、中澤君が「最後に会いに行こう」と背中を押してくれたおかげで棺へ向かうことができた。生きている時は病気であっても幸せオーラが出ていて、いつも明るい表情をしていた彼女の遺体を目にするのは辛かったが、「ここで対面しなければ一生後悔する」と決心がついた。対面した時に見た彼女の表情は安らかに眠っているとはいえない顔つきだった。「そんなに苦しみながら旅立って行ったのか・・・」と思った。首には生前に大切にしていたと思われるスカーフが巻かれていた。私は千里ちゃんが好きだったアイドルグループの曲の歌詞を3曲書いた紙を取り出した。通夜の前日に自宅で書いた歌詞だ。そして千里ちゃんへ最後の言葉を伝えた。

「千里ちゃん、もしも天国に楽しみがあまりなかったらこの歌詞を見て、好きだったグループのことを思い出して。僕がそっちへ行く時はおじいちゃんになっているかもしれないから、誰だか分からなくなってしまっているかもしれないけど、何とか見つけてね。千里ちゃんに出逢えて良かった。さよなら。今までありがとう。」

これが千里ちゃんと対面して伝えた最後の言葉だった。告別式の会場から霊柩車に乗った彼女を見送る時は大雨が降っていた。この時、生前に彼女が「私、びっくりするくらい雨女なの。いつも何かイベントがある日に雨が降るの。」と言っていたことを思い出した。「大袈裟に言っていると思っていたけど、本当やったんやね」と思いつつ、「今年の初詣で『病気が長引く』と書かれたおみくじを引いた」と話していたことが頭に浮かんだ。

「病気が長引いてもいいから、もっと長く生きてほしかった。」

そんなことを思いながら、千里ちゃんを見送った。そして彼女が今年の初めに私に伝えた「今年も図々しくお世話になっちゃいます」の言葉。

「本当に今年1年、お世話をしたかった。今年に入ってまだ2ヶ月しか過ぎていないのに・・・、早すぎるよ・・・。」

 告別式から1週間が経ったある日、私の携帯電話に電話が掛かってきた。電話番号を確認すると登録していない番号だった。普段なら知らない番号からの着信には出ないのだが、この時期は就職活動中で面接を受けた企業から電話が掛かってくることも多かったため、企業からの着信だと思って電話に出た。

「もしもし、中川です。」

「もしもし、髙倉千里の母です。」

「えっ!!あっ、こんにちは。」

「中川君にはお電話をして、お礼を伝えたいと思っていました。告別式で千里が好きな曲の歌詞を棺に入れてくれていたのが中川君ですよね。ずっと千里のことを励ましてくれたこと、テストも中川君が全部助けてくれていたのは本人から聞いていました。そのおかげで千里は単位を全科目取ることができていたんです。こういうかたちになってしまいましたけど、中川君には本当に感謝しています。本当に千里のためにありがとうございました。」

千里ちゃんのお母さんからの言葉を聞いた時、「自分がやってきたことは間違っていなかったのかな」と思うことができた。好きになった人のご両親から感謝をされたことなんて、今まで1度もなかった。「最後の半年間、千里ちゃんの幸せの手伝いをすることはできた」と前向きな気持ちになれた。
 その後、就職先などが決まった時などに千里ちゃんのお母さんへ連絡をして、近況を報告するようになった。彼女が亡くなってから3ヶ月が経ったある日、この日も電話で千里ちゃんのお母さんと話をしていた。すると彼女のお母さんが

「やっぱり・・・、中川君には正直に伝えておくべきだと思うので、聞いてもらえますか?」

そう私に語り掛けた。私はこの電話の少し前に千里ちゃんの実家に彼女宛の手紙を送っていた。そこには自分の就職先が決まったことや自身の近況、彼女が亡くなった2週間後に東日本大震災が発生して、日本が大変なことになっていることなどを書いた。その手紙をお母さんも読み、私へ真実を伝える決心をされたそうだ。最初は何のことだが分からなかったのだが、

「実は千里は・・・病気で亡くなったのではなく、自ら命を絶ったんです」

その言葉を聞いた時は信じられなかったが、詳細を話してくれた。

 千里ちゃんは幼い頃から体が強くなかったそうだ。上げたらキリがないくらい様々な病気や怪我と戦っており、高校生になってもその状況は変わらなかったそうだ。その時に支えになった人と交際を開始。その人は既に大学を卒業した社会人の人だった。大学に入ってからもお付き合いは続いていたのだが、病気で彼女が大学へ通うのが難しくなった時期に彼に裏切られて、2人の交際は終わりを迎えた。その後に山口君との付き合いが始まったのだが、山口君も千里ちゃんと交際をしている間、千里ちゃんを裏切るようなことをしてしまったらしい。病気になり、大学へもなかなか通えなくなり、好きな人から立て続けに裏切られたことで自分が許せなくなり、自ら命を絶ってしまったのが真相だった。
 死の真相を聞いて、私の中で今まで引っ掛かっていた謎が解けた。当時18歳だった千里ちゃんが大人びた指輪をしていたこと、遺体の首にスカーフが巻かれていたこと、通夜の席で山口君が号泣していたこと、全てを理解することができた。千里ちゃんのお母さんからは

「中川君は山口君を許せないかもしれないけど、きっかけはありましたが彼のせいではなく、私達家族の責任が大きいのでどうか彼を責めないでほしい。中川君は誰かと素敵な恋愛をして幸せになってほしいです。」

そう念押しをされた。
 お母さんは千里ちゃんが両親に心配を掛けないために一生懸命だったことも話してくれた。年上の彼と付き合っていたことがお父さんに分かった時も

「内緒にしていてごめんなさい。お父さんにはどうしても言えなかった。お父さんの前ではいい子でいたかった。」

そうお父さんにメールで伝えたそうだ。お母さんは「いい子・・・こんなことを思わせてしまったのは私達のせいです」と話していた。千里ちゃんが最後に家族へ向けて書いた手紙の内容についても聞かせてもらったが、

「私を産んでくれてありがとう。私がいなくなってお父さん・お母さん・お姉ちゃんが辛く悲しむ人生を歩んでほしくありません。家族の幸せを祈っています。」

このような家族への感謝の言葉がたくさん書かれていたそうだ。いちばん驚いたのが、私が千里ちゃんに送ったメールを全て保護して、千里ちゃんが残していたことだった。

「消えないように保護していたのだと思います。千里は中川君からのメールを励みにして何度も読んでいたと思います。」

千里ちゃんのお母さんからの言葉がありがたかった。電話が終わった後、千里ちゃんのことを思い出しながらメールを読み直した。その時にあることに気付いた。千里ちゃんからの最後のメールだ。

「中川君は『僕なんか』って言ったけど、そうは思わないでほしい。中川君の幸せを祈っています。
本当にありがとう。」

当時はこの言葉の意味を理解できなかったが、この時に千里ちゃんは自ら命を絶つことをもう決めていて、「これが自分への最期のメールになるかもしれない」という思いで送ったメッセージだったのではないか?しかも亡くなる前日に私は彼女へ連絡をしようか迷っていたが、結局、山口君の立場を考えて連絡をしなかった。千里ちゃんが亡くなった当初は「病気で亡くなったのなら、前日に電話をしても出遅れだった」と思っていた。しかし、実際は私が電話をしようか迷っていた時、千里ちゃんは自ら命を絶つ準備をしている最中だったのかもしれない。
 私が今まで千里ちゃんにしてきたことは一体何だったのか。彼女のことを考えて行動したこと、優しさだと思っていたことのほとんどが結果的には間違いだった。

「もし年上の彼と付き合っている時にそのことを気にせず、自分に正直になって気持ちを伝えていれば」

「山口君が告白するより先に自分が告白していれば」

「せめて亡くなる前日に自分が電話を掛けていたら」

「どれか1つでも決断して行動していれば、千里ちゃんは今でも生きていたのではないか」

そう思ってしまった。



※1 稲葉浩志『この手をとって走り出して』2010年

第5章 後悔の先にあるもの

 千里ちゃんが亡くなって以降、私は就職活動で忙しい日々を送っていたこともあり、何とか気持ちを紛らわすことができていた。就職活動の結果、4月1日にスポーツチーム運営会社から内々定通知が届き、この日に大学卒業後の進路を事実上決めることができた。私の就職活動は6ヶ月に及んだ。当時、4月の頭に就職先が決まるのはかなり早いほうで、私のまわりで就職先が決まっている人はまだ誰もいなかった。私は会社の選考をそこまでたくさん受けたわけでもなかった。就職活動の中で記入した履歴書の枚数は10枚ほどだったが、当時の就職活動は履歴書を20枚以上書いて、それだけの選考を受けることも珍しいことではなかった。
今になって思うのだが、日本の大学生の就職活動はおかしなことが本当に多い。当時よく言われたのが、ボランティア活動やそういった取り組みに参加することが就職活動の際の強みになり、大きなアピールになるということだった。もちろん、ボランティア自体に興味があり、前向きな気持ちで参加するのはとても良いことだと思う。しかし、就職活動のためにボランティアに数回参加しただけで、自分にとってどれだけの意味があるのだろうか。履歴書に書くためや面接で話すためのネタ作りとしてボランティアに参加したところで、身になることはあまりないと思う。それなら学業に励むことは前提として、好きなアーティストのライブにできるかぎり参加をするためにアルバイトを頑張って、いろんな地域へ遠征をするなど、何でも良いので好きなことに取り組む人のほうが遥かに魅力的だし、多くのスキルや行動力を習得できると思う。
他にも合同説明会や大学が実施する面接の練習などに参加しなければ、就職活動の際に不利になるため、1つでも多く参加しなければならないという風潮があった。もちろん大手の就職サイトは就職活動の際の参考になるし、気になる企業が合同説明会で出展をしていれば、参加すれば良いと思う。しかし、大手の就職サイトに掲載されていなくても、自分に合う企業があるかもしれない。面接の練習にしても、最低限のマナーさえ把握していれば、スパルタの特訓なんかは必要ないと思う。私も社会人として後に面接官の仕事をする機会があったのだが、その人を採用するかどうかは第一印象と話し方でほとんど決めていた。社会人の経験がないのに分かったようなことを言う学生よりも、話し方が上手くなくても、会社に興味を持ってくれていて、誠実さが伝わる学生のほうが「一緒に働きたい」と私は思う。当時は私も世間のことを何も分かっていなかったため、就職活動の中で自分を見失いそうになった。10年間の社会経験を積み重ねて気付いたのは、まわりに流されてはいけないということだ。「みんながやっているから、自分もやる」ではなく、「興味があるからやる。心からやりたいと思うからやろう。」という気持ちが大切だと思う。それこそ、就職だけが選択肢ではなく、大学院への進学や自分がやりたいことで起業、フリーで働くなど幅広い視野で自分の将来を決めて良いと思う。自分の人生は自分のものなのだから。
とにかく当時の私は興味を持った会社から内々定の通知を受けて、嬉しさと安心した気持ちが溢れた。
 大学4年生になり、私は卒業論文の作成に本格的に取り組むようになった。私が通っていたゼミは本来、大学卒業前の12月中を目安に卒業論文を完成させれば良かったのだが、私は卒業直前の1月の後半に社会福祉士の国家試験を控えており、夏休みからは国家試験の勉強に専念したかった。夏休み前には卒業論文をほぼ完成させた状態にしておきたかったので、進路が決まったのと同時に急いで卒業論文の作成に取り掛かった。大学の授業では社会福祉士の国家試験合格へ向けて、社会福祉を中心に学んでいたが、卒業論文では全く違うテーマについて研究をすることにした。当時の私は政治のニュースや経営者の本に興味があり、「政治やリーダーについての研究をしよう」と考えていたため、『国民からの支持率が総理大臣に与える影響について』というテーマで研究を進めた。6月の中頃には卒業論文をほぼ完成させて、後はゼミの先生に添削をしてもらい、修正を加えれば正式に完成という状態にすることができた。
 卒業論文が完成に近づいていたある日、私は大学のパソコン室で卒業論文の作成をしていた。パソコン室にはパソコンが50台ほど設置されており、私はその中の1台を使用していた。この日もキリの良いところまでは作業を進めることができたため、自宅へ帰ることにした。大学4年の1年間は今までの3年間で単位を取得できていれば、ほとんど授業に出席する必要がなく、私も週に3コマしか授業を取っていなかった。この日も午前中に授業を終えていたため、帰宅するためにパソコン室の出入口へ向かったのだが、出入口のすぐ近くの席に後藤さんがいることに気付いた。

「自分は後藤さんに利用されているだけで都合のいい存在」

1年前にそう思ってからは自ら後藤さんと関わることはなくなっていた。しかし、この時は

「せっかく同じゼミ、同じ社会福祉士コースのメンバーになったのだから、以前のように楽しく関われたほうがいいのかな・・・」

そう思えたため、昨年の7月以来、初めて後藤さんへ自ら声を掛けた。

彼女はあまり元気がない表情でパソコンの画面を見つめていたが、声を掛けると少し安心した表情を見せて、調べている内容について話してくれた。この時期、後藤さんは就職活動を続けており、就職について悩んでいた。ちょうど彼女も帰るタイミングだったようで、一緒に帰ることになった。後藤さんは大学の最寄り駅まで直通のスクールバスで帰るため、2人でバス停まで歩いた。私はバス停とは反対側にある駐輪場にバイクを止めており、そのことを彼女も知っていたので、「バイク、向こうに止めているんじゃないの?」と聞いてくれたが、「一緒にバス停まで歩きたいから、バス停までは一緒に行く」と伝えて一緒に歩いた。パソコン室からバス停までは歩いて10分ほどの時間が掛かるのだが、その間に後藤さんから就職活動についての相談を受けた。

「正直、就活は難しい。中川君みたいにすぐに決められない。私は自分のことが嫌いだから。」

「自分が嫌い」という言葉は前にも後藤さんから聞いたことがあった。いつもなら「自分が嫌い」なんて言われたら、掛ける言葉を見つけることができなかったと思う。しかし、この時は自然と言葉が出てきた。

「『自分が嫌い』という人に『そんなことないよ』なんて簡単には言えない。『自分を好きになったほうがいい』と分かっていても、なかなか好きになれないから困っているんやもんね。でも僕は麻美ちゃんが好き。いいところがあるから。『私は自分のことは嫌いかもしれないけど、そんな私にもいいところはある』くらいに思っていたら、気持ちが楽になるかもしれないし、麻美ちゃんに向いている会社や仕事を見つけられるかもしれないよ。」

私の言葉を聞いた麻美ちゃんは吹っ切れたような表情をしていた。

「確かにそうかもしれないね・・・。そうか・・、そう考えたらいいのか!!なるほどね・・、ありがとう。」

麻美ちゃんの可愛らしい笑顔を久し振りに見ることができた気がした。バス停に到着後、バスの到着まで少し時間があったのだが、「せっかくやからバスが来るまで一緒にいる」と伝えて、そこからは他愛もない話をしたと思う。バスが到着した後、彼女を見送って、バイクを止めている駐輪場へ向かって歩き出した。そして、この時に思った。

「やっぱり自分は麻美ちゃんをほっておけないし、彼女のことが好き」

正直、この時期は恋愛をすることに迷っていた。千里ちゃんが亡くなってまだ3ヶ月しか経っていないし、以前好きだった麻美ちゃんをもう1度好きになるのはどうなのかと・・・。私が最初は麻美ちゃんを好きだったこと、その後に千里ちゃんを好きになったこと、一部の友達にしか伝えていなかったが、私の普段の態度からそのことに気付いていた人もある程度はいたと思う。今、麻美ちゃんのことを好きになっても、誰にも応援をしてもらえないと思った。しかし、千里ちゃんのお母さんから「中川君は誰かと素敵な恋愛をして幸せになってほしいです」と念押しをされていたこと、千里ちゃんに対してしたことが結果的に裏目に出てしまったという事実が私の迷いを振り切った。

「誰にどう思われたとしても自分に正直に生きよう」

そう思うことにした。ただ、麻美ちゃんと久し振りに関わった日、彼女の右手薬指には指輪が光っていた。自分が素敵だと思う人を他の誰かがいつまでもほっておくはずがない。そんな都合良くいきなり告白をするほど図々しくはなれなかったので、私はチャンスを待つことにした。そして、大学卒業までにチャンスが来なくても、麻美ちゃんに恋人がいても自分の想いは伝えようと決めた。
 そこからは麻美ちゃんとの関係も以前のかたちに戻った。利用されているとか、都合の良いだけの存在かどうかはどうでも良くなっていた。すると、彼女のほうから就職活動・卒業論文・社会福祉士の国家試験の勉強などについて相談を受けることが増えた。7月最初のゼミの授業が終わった際、まだゼミの他のメンバーがいる中で

「病んでいる時は中川君に話を聞いてもらいたくなる」

「いつも的確なアドバイスをしてくれる」

「本当に尊敬している」

そう話している姿を見て、「また熱弁している・・・」と思ったが、やっぱり嬉しかった。アドバイスを求められた時はその時の自分にできる助言をするようにしていた。だが「国家試験の勉強のやり方が分からない」などの相談を受けた時は一旦持ち帰って、後日改めて勉強のポイントをまとめたプリントを作成して渡すようにしていた。それが麻美ちゃんにとってはありがたかったらしい。彼女の役に立てていることを実感できた時が当時はいちばん幸せだった。
 大学の夏休みが終わってすぐの時期、麻美ちゃんとのエピソードで印象深い出来事があった。その日は午前中だけ社会福祉士コースの授業があり、授業後は友達と昼食を食べて過ごした。この日の午後は自宅で国家試験へ向けての勉強をするつもりだったのだが、社会福祉実習室へ提出しなければいけない書類があった。社会福祉実習室はスタッフさんが平日の9時00分〜17時00分は常駐しており、社会福祉士コースの学生をいつもサポートしていた。私は実習室で書類を渡したらすぐに帰るつもりだった。しかし、実習室に入ると、麻美ちゃんと彼女の友達である社会福祉士コースの女の子が一緒に丸テーブルを囲っていた。麻美ちゃんがいることに私は驚いたが、書類を提出してすぐに帰るつもりだったので、彼女がいることがそこまで気にはならなかった。しかし、実習室にいた麻美ちゃんの友達が「麻美、中川君が来てくれたから聞いたらいいやん!!」と話していた。何のことだか分からないままスタッフさんへ書類を渡しに行ったが、スタッフさんも「中川君、めっちゃいいタイミングで来てくれた!!」と驚き、「今、時間大丈夫?」と私に確認をした。
 この日は木曜日だったのだが、3日後の日曜日までには社会福祉士の国家試験受験のための書類を郵送で送らなければいけなかった。私は既に郵送をしていたのだが、麻美ちゃんはまだ受験のための書類を全く書けていなかった。彼女は元々、書類を書くことが苦手だったようでスタッフさんに助けてもらおうと実習室へ来ていた。だが、この日はスタッフさんも別の仕事で忙しかったようでマンツーマンでサポートすることはできず、少し離れた丸テーブルで麻美ちゃんには過ごしてもらい、記入の仕方でどうしても分からない時だけ、彼女からスタッフさんに質問をすることにしたそうだ。友達は受験のための書類は既に提出していたが、卒業論文の作成が進んでいなかったため、集中して取り組むために麻美ちゃんと実習室を訪れていた。スタッフさんが「時間があれば麻美さんを助けてあげて。この時期にまだ国家試験の書類を出していないってありえないでしょう!!」と私に言ったため、「・・・、麻美さんが嫌じゃなければ自分は大丈夫ですよ」とスタッフさんに言いながら麻美ちゃんを見ると、申し訳なさそうにしながらも、満面の笑みで私を見ていた。友達が「私は卒論を頑張らないといけないから、こっちの机に移動するね。麻美をよろしく!!」と席を移動したため、丸テーブルは麻美ちゃんと私の2人になった。「どの部分の書き方で困っているの?」と聞くと、麻美ちゃんは「全部!!まだ名前しか書けていない。全てにおいて不安!!」と自信満々に答えるので、さすがに笑ってしまった。「じゃあ記入見本の紙を見ながら一緒に書いていこうか」と伝えて、私もルーズリーフの紙を出して、書類に書く内容を実際に書きながら彼女にも記入を進めてもらった。
 結局1時間30分ほどで麻美ちゃんは受験のための書類を完成させることができた。「日曜日までに出せば大丈夫やけど、念のために明日金曜日の終日中には出したほうが確実やと思う。郵便局で重さを測ってもらって、切手をその場で貼ってもらって、後は郵便局に任せれば大丈夫。明日この封筒を持って郵便局へ行ってね」と伝えて帰ろうとすると、彼女は「ホントにありがとう・・・。あの・・・、卒論のことも聞いていい?」と確認してきた。聞くと卒業論文のまとめ方に困っているとのこと。私はここまでできている内容を聞いた。内容を調べること自体はできている様子だったので、起承転結をどのようにすれば内容が上手くまとまるかを伝えた。結局、国家試験の書類を書き始めてから卒業論文のアドバイスが終わるまで、2時間30分以上は麻美ちゃんと一緒に過ごした。友達は先に帰っていたため、麻美ちゃんと2人でバス停までの道を歩いた。

「今日はありがとう。中川君に迷惑を掛けないようにこれからは早めに準備するようにします。」

「受験の申込みとかは絶対に間違えられないから心配になるもんね。でも・・・、麻美ちゃんなら迷惑掛けてもいいよ(笑)」

そんな会話をして、バス停で彼女を見送った。
 その後も麻美ちゃんと学校で会い、一緒に勉強に取り組むことや相談に乗ることがあったが、なかなか自分の気持ちを伝えるタイミングを掴めなかった。年末には彼女の右手薬指に指輪がないことに気付いたが、なかなか勇気が出ないまま年が明けて、学校での最後の授業も終わってしまった。もう彼女と会えるのは社会福祉士の国家試験当日と卒業式しかない。しかし、同級生がたくさん集まる日に告白などできるわけがなく、「どこかで・・・伝えておけば良かった」と後悔しながらも、国家試験へ向けて毎日8時間は勉強をする日々を送っていた。「9月以降に毎日8時間の勉強をすれば、国家試験に合格できる」と先生から言われていたため、それが習慣になっていた。今までの自分なら、勉強が忙しいことを理由にして、麻美ちゃんへ気持ちを伝えることをしなかったと思う。
 だが、今回だけはどうしても諦められなかった。電話やメールで気持ちを伝えることもできたのだが、今回は直接伝えたかった。「会ってほしい」とお願いすることも考えたが、会うのを断られて千里ちゃんの時のようにメールで伝えざるを得ないことになるのは避けたかった。直接会って、想いを伝える方法は何かないのか?私はあることを思い出した。
 以前、国家試験の勉強方法について麻美ちゃんは「自宅では気が散って勉強ができないから、近所の図書館の自習スペースで勉強をしている」と話していた。私はどこかで会いに行けないかを考えた。唯一、1月17日だけは就職先の勤務地を決めるための面談を行うために名古屋市内まで行かなければならなかった。当時は勉強時間を確保することに神経質になっており、麻美ちゃんに会いにいくことで合格する可能性が下がる心配もあった。しかし、そのリスクを承知の上で彼女が勉強をしている図書館まで行き、気持ちを伝えることにした。
 しかし、これを実現できる可能性はかなり低かった。図書館で勉強をしていることは本人から聞いていたが、どこの図書館かは聞いていなかった。彼女の自宅の最寄りの地下鉄の駅は知っていたため、候補になる図書館を探したのだが、可能性がある図書館が3ヶ所もあった。その駅が自宅からの最寄り駅だとしても、駅からどの方向に自宅があるかで自宅からいちばん距離が近い図書館も変わってしまう。パソコンで各図書館の内観の画像を見たが、1ヶ所だけ自習ができそうなスペースが十分にある図書館があった。そこが駅から最も距離が近かったこともあり、当日はその図書館へ向かうことにした。だが、勤務地面談の時間の関係もあり、私が図書館へ到着できるのは15時30分頃になってしまう。もし朝早くから麻美ちゃんが勉強をしていれば、既に帰っている可能性もあるし、そもそもその日に彼女が図書館で勉強をしている保証はなかった。会える可能性は限りなく低かった。しかし、「これで会えなければ麻美ちゃんとは縁がなかった」と諦めるつもりだった。
 当日の勤務地面談が終わった後、私は会社の最寄り駅まで全力で走った。1月にも関わらず、地下鉄に乗った後は汗がなかなか止まらなかった。30分ほどで図書館の最寄り駅に到着。初めて来る駅だったので、地上に出てからは手書きの地図を見ながら、道を間違えないように歩いて移動した。今ならスマートフォンの地図のアプリなどを使えば目的地まで簡単に辿り着けるが、当時はまだスマートフォンを持っている人のほうが少数派で私もガラケーを使っていた。10分ほどで図書館に到着。スムーズに移動ができたため、15時00分頃には目的地に辿り着くことができた。ドキドキしながら館内に入り、1階のスペースを探した。この図書館には1階のスペースに全ての書庫があり、机で本を読むことや勉強に取り組むことができるようになっていた。私は全てのテーブルを確認して麻美ちゃんの姿を探したが、彼女を見つけることはできなかった。「もしかしたら席を外しているだけかもしれない」と思い、館内を3周ほどまわったが麻美ちゃんの姿はなかった。この図書館の中で自習に取り組めそうなのはここしかない。建物自体は上にも階があったが、図書館のフロアは1階だけだった。

「そんな都合良くはいかないか・・・」

私は帰るために出入口へ向かった。建物から出て行こうとしたが、どうしても諦めきれない。入口に掲示されていた建物の案内図が気になったので、何気なく見た。するとあることに気付いた。確かに図書館のフロアは1階のみだが、2階に自習室や会議室があった。

「自習室ってここか!?」

私は2階まで階段で上がり、自習室へ向かった。自習室の収容人数は20名ほど。そこまで大きな部屋ではない。

「この中に麻美ちゃんがいるかもしれない」

緊張しながらドアを開けると、5人ほどが勉強に励んでいる様子が見えた。その中に私に背を向けた状態で、壁に体を向けて勉強をしている女の子の姿が目に飛び込んだ。その後ろ姿は間違いなく麻美ちゃんだった。彼女はまだ私に気付いていない。あまりの驚きで一旦ドアを閉めた。会いたくてここまで来たのに、いざ目の前にすると行動に移すことができなかった。自習室の入口から少し離れたところでドキドキしながら、自習室へ入ることができずに困り果てていた。よそ見をしているうちに麻美ちゃんが帰らないように自習室の入口からは目を離さないようにしていたが、どうしても決心がつかない。諦めて帰ることも考えたが、その時に過去の恋愛を思い出した。あの時は最終的に自分の言葉で直接想いを伝えることができなかった。もう後悔はしたくなかった。時計の針は16時30分を指していた。これ以上グズグズしていたら、閉館時間の17時00分になってしまう。私は決心した。さっきまで緊張で回すことができなかったドアノブを回して自習室に入った。室内は私語が厳禁だったため、麻美ちゃんのすぐ後ろまで行き、肩を2回ポンポンと叩いた。私の姿を見た時、麻美ちゃんはかなり驚いていたし、状況を掴めていなかったと思う。彼女に小声で

「渡したいものがあるから、勉強が終わるまで外で待っていていい?」

そう伝えた。すると、彼女が

「私もそろそろ帰ろうと思っていたから、一緒に出よう」

そう話してくれたので、荷物をまとめた麻美ちゃんと一緒に外へ出た。私は国家試験の勉強のためにまとめたプリントのコピーを彼女に渡した。

「これを渡すためにここまで来てくれたの?」

「うん・・・、今日は名古屋で就職先の勤務地面談があったから、その後に来た。

「ありがとう、・・・よくここにいるのが分かったね(笑)」

「自宅の近くの図書館で勉強していることを前に聞いたから『ここかな?』と思った」

「すごいね(笑)地下鉄で来たんよね。駅まで一緒に行くよ。」

駅までの道のりは15分ほどだったが、「この時間が永遠に続けばいいな」と思った。当時の私は「社会人になったら新車を一括で買いたい」という目標を持っていた。麻美ちゃんは私がほしいと思っていた車のディーラーに就職して、受付の仕事をすることになっていたので、自分の目標について伝えると、

「名古屋まで買いに来てよ!私、受付にいるから。」

こんな話をしながらあっという間に時間は流れて、駅の4番出口に着いてしまった。出口の前に着いてからも他愛もない話をして2人で過ごした。

「じゃあ、私は帰るから気を付けて帰ってね。」

麻美ちゃんはそう言って、その場を立ち去ることもできたはずだった。しかし、私が気持ちを言い出すのを待ってくれているようだった。

「ごめんね、ちょっと待ってもらっていい?」

麻美ちゃんに1度背を向けて、覚悟を決めた。改めて彼女を見つめて、今まで想ってきたことを伝えた。

「『国家試験のプリントを渡すためにここまで来た』ってさっきは言ったけど、本当はそれを口実にして麻美ちゃんに会いに来た。ちゃんと伝えないと後悔すると思ったから。僕はゼミで出逢えた時から麻美ちゃんが好きやった。でも、3年の時に『自分は麻美ちゃんにとって都合のいいだけの存在なのかな』と思って、麻美ちゃんへの想いはなくなった。ちょうどその時期に千里ちゃんのことを好きになった。最後はあんなことになってしまって・・・。『当分は誰かを好きになることもないのかな』とその時は思った。でも、就職活動や卒論、国家試験の勉強で困ったり悩んだりしている麻美ちゃんを見て、ほっておくことができなかったし、『やっぱり自分は麻美ちゃんのことが好き』と気付いた。僕のことを恋愛対象として見られないなら、はっきり断ってくれて構わない。今は国家試験のこととかで頭が回らないのなら、麻美ちゃんの結論が出るまで待つ。自分は麻美ちゃんと付き合いたい。それを伝えるために今日は来ました。」

最後は麻美ちゃんが自分を後押ししてくれたことで伝えることができた。

「ありがとう。そう、中川君は私のことを好きでいてくれたのに・・・、私のせいで中川君の気持ちが離れていったのも、千里ちゃんのことを好きになったのも気付いていた。『中川君には私より千里ちゃんのほうが合っている』と本当に思っていたし、2人がすごくいい雰囲気だったから、『このまま2人が付き合えばいいな』と思っていた。だから千里ちゃんが山口君と付き合っていることが分かった時は本当に驚いた。
 私、今はもう別れたんだけど、4年になってから付き合っていた人がいたの。実は2年の時、中川君がデートに誘ってくれた時、『彼氏に怒られるから』って断ったけど・・・、ごめんね、あれは嘘なの。本当は当時から片想いの人が別にいて、その人のことがずっと諦めきれなくて、前の彼とも別れたの。今でもその片想いを諦められなくて、毎日を過ごしているんだけど・・・、えー、どうしよう・・・。中川君の気持ちは本当にありがたいし、自分を好きになってくれて本当に嬉しいけど、やっぱり・・・、今好きな人を諦められないから、中川君とは付き合えない・・・。」

「分かった。ここまで誠実に向き合ってくれると思っていなかったから、本当に嬉しかった。ありがとう。ただ・・・、自分も麻美ちゃんのことは諦められないから勝手に好きでいさせて。他に好きな人ができたら、その恋愛に生きるけど、麻美ちゃんが忘れられなければ勝手に好きでいると思う・・・。もしも今後の人生でお互いの気持ちが一致することがあれば、その時は付き合ってください。」

「うん、分かった」

「ありがとう。気持ちを聞いてくれて、本当に嬉しかった。じゃあ帰るね。」

「うん・・・、本当に・・・ありがとう」

 私は地下鉄の駅へ向かう階段を降りて行った。階段の下に着いた時、1度だけ振り返ったが、まだ麻美ちゃんが待っていてくれた。私は手を振って笑顔で去った。麻美ちゃんは申し訳なさが表情に出ていたが、それでも笑顔で手を振って、私を見送ってくれた。断られるのは覚悟だったが、「さすがに断られたら気持ちが沈むんだろうな」と思っていた。しかし想いを伝えた後の私は晴れ晴れとした気持ちになっていた。電話でもメールでもなく、目の前で気持ちをちゃんと伝えたのは初めてだったが、「こんなにもスッキリした気持ちになれるのか」と思った。そもそも本当に麻美ちゃんに会えるとは思っていなかったし、彼女が真剣に向き合ってくれたことが嬉しかった。

「自分の気持ちに正直になって良かった」

そう思える出来事だった。

第6章 本当の幸せ

 大学を卒業して社会人9年目を迎えた年、私は30歳になっていた。大学卒業前に受験した社会福祉士の試験には無事に合格。その後は予定通りスポーツチーム運営会社に就職して、社会人としてのキャリアを積んでいた。転勤を何度か経験して、26歳からは大阪のチームを担当するために地元へ戻ってきていた。
 27歳の頃までは好きな人がいたが、大阪に転勤をして会社での自分の立場が上がり、仕事が忙しくなるにつれ、恋愛をする暇もなくなっていた。結婚願望があるわけでも、絶対に結婚はしないと思っているわけでもなく、「良いご縁があれば」とは思っていたが、30歳手前になると仕事に時間を取られるようになっていた。
 そんな日々の中で1人の社員が入社してきた。彼女の名前は野澤 茜(のざわ あかね)さん。私よりも3歳年下だが、今までもスポーツ関係の仕事経験があり、即戦力として入社をされた。野澤さんと初めて会ったのは彼女がまだ入社をする前に会社の見学へ来た時だった。「性格の良さが滲み出ている人だな」というのが第一印象だった。野澤さんとは同じ部署で働くことになり、仕事の中で会話をすることはあったが、最初はそれだけの関係だった。しかし、あることがきっかけで彼女と関わる機会が増えた。
 当時、会社では電車・自転車・徒歩のいずれかで通勤をすることが社内規則になっており、私は電車通勤をしていた。そのため仕事が終わると、電車通勤をしている他の社員と一緒に電車で帰宅をしていた。一方、野澤さんは自転車で通勤をしていた。彼女の自宅が駅とは反対方向だったこともあり、帰宅の時は野澤さんだけが反対方向へ帰っていた。ちょうどこの時期、日本でも新型コロナウイルスの感染が拡大した影響で、会社が自家用車での通勤を認めるようになった。私はこの頃から車で通勤をすることになった。電車だと自宅から会社へ行くためには2回の乗り換えをして、1時間以上も通勤時間が掛かるのだが、車なら40分程度で通勤をすることができた。車は会社近くのコインパーキングに駐車をすることにしたが、そこが駅とは反対方向の場所にあった。そのため帰宅する際は会社からコインパーキングまでの僅かな距離を野澤さんと一緒に帰るようになった。おそらく30メートルくらいの距離だったと思う。しかし、この僅かな距離、少しの時間の関わりが野澤さんに対する私の気持ちを変えていった。表現をするのが難しいのだが、話をしている時の波長が合って、一緒に過ごしている時の居心地が良かった。彼女が入社して3ヶ月が経った頃には

「野澤さんと一緒になれば、幸せになれるかも」

そう思うようになっていた。しかし、この時はまだ野澤さんに対して恋愛感情はなかった。実際は当時の自分の状況が恋愛することを妨げていたのだと思う。会社での立場が上がったことで仕事量が増えていき、自宅で仕事をする時間も長くなっていった。自分の時間が確保できていないのに、「こんな状況で人を幸せにできるわけがない」と思っていた。それを理由に恋愛をしない方向へ自分の心を動かしていたのだと思う。
 しかし、野澤さんがただの同僚でないことは私も自覚していた。何か困ったことがあれば彼女にいつも頼んでいたし、彼女も何かあれば私に仕事を頼んでいた。持ちつ持たれつの関係になっており、自惚れかもしれないが、「野澤さんも私をただの同僚とは思っていないのではないか?」と感じていた。帰りに雨が降っている時は彼女の自転車を私の車に乗せて2人で帰ることもあった。初めてデートをしたのは出逢って1年半以上が経ってからだった。この日はクリスマスの夜だったのだが、私も野澤さんも残業をして2人だけが会社に残っていた。何とか仕事を終わらせて帰ることにしたのだが、この日は夜に雨が降っていたので、「車に自転車を乗せるから一緒に帰りましょう」と誘って、一緒に帰ることにした。最初は真っ直ぐ彼女を自宅へ送るつもりだったのだが、この日はいつも以上に寒い1日だったので、無性にラーメンを食べたくなった。私は普段、1人で外食をしないのだが、この日はどこかでラーメンを食べて帰ろうと思った。最初は1人でラーメンを食べに行こうと考えたのだが、せっかくなら野澤さんと一緒に食べに行きたいという気持ちになった。私はダメ元で

「めちゃくちゃラーメンを食べたいんですけど、一緒に行きませんか?」

そう尋ねた。彼女は笑顔で

「ぜひ行きましょう!!」

そう言ってくれた。聖なる夜にラーメン・・・、野澤さんの前では変な意地を張らずに素の自分でいることができた。初めてのデートは意識的にデートをしたというよりは、結果的にデートになったという感じだった。
 次に2人でデートをしたのは翌年5月の後半だった。新年度の4月から野澤さんは大阪の別の部署へ異動となり、それ以降、会う機会は減っていたのだが、異動以降も連絡は取り合っていた。5月に入り、野澤さんの異動先が人員不足で大変になっていることを聞き、「彼女を元気づけたい」と思った。5月の前半に食事へ誘い、お互い翌日が休みになる日の夜、仕事終わりに2人で食事へ行くことになった。2人とも焼肉が好きなため、今回は一緒に焼肉を食べに行くことにして、この日を楽しみにしていた。
 しかし、元々は異動先で大変な思いをしている野澤さんを励ますために食事へ誘ったにも関わらず、食事の約束をした直後から私の仕事の負担が一気に増えて、段々と疲れていった。この時期は元々の仕事にプラスしてトラブルが立て続けに発生したため、自分でも追い込まれていることには気付いていた。食事の際、野澤さんに自分の現状を伝えると、優しく励ましてくれた。この時はお互いが部署の責任者という立場だったため、彼女も私の大変さを嫌というほど分かっていた。食事後は2時間00分ほど一緒にドライブをして過ごした。野澤さんから元気をもらった私はもう1度仕事を頑張ることにした。社会人になり11年目を迎えていたが、今までも辛くて仕事を辞めようとしたことは何度かあった。しかし、その度に乗り越えてきたので今回も何とか乗り越えようと思った。
 私は自分が抱えている仕事をどのように片付けるかを考えた。いろいろ考えた結果、野澤さんと食事をした翌週から仕事がある日は毎朝5時00分に起きるようにした。10時00分の始業時間までにメールの確認や資料の作成などの仕事をある程度終わらせて、就業時間中は余裕を持って行動できるようにした。当時はどうしてもイレギュラーな業務が多く、ルーティンの仕事を業務時間中に腰を据えて取り組むのが難しい状況だった。夜に残業をしても仕事の効率が悪くなるのは分かっていたため、朝早くに起きて、仕事を片付けていくことにした。このやり方は最初上手くいき、6月の1ヶ月間は無事に乗り越えることができた。7時00分に起きても、5時00分に起きても、大して体調に変化はなく、5時00分に起きたほうが仕事中に眠くなることもなくなり、体調が良くなっている気さえしていた。
 しかし、7月に入ると他の部署が人員不足になったこともあり、私が在籍していた部署の負担がさらに増加した。5時00分に起床をしても、本来の退勤時間に帰れないことが増えた。その時間はどんどん延びていき、帰宅時間が日付を超えることも増えていった。食欲もなくなり、昼食を食べない日も多くなった。追い討ちをかけるように7月の中頃には同じ部署の同僚2人がコロナウイルスで10日間休むことになり、この時には自分でも仕事の優先順位が分からなくなっていた。自分のことだけでも精一杯、自分の部署でも感染者が出ているのに、他部署でもクラスターが発生したことで私が他部署のヘルプに行くことが増えた。今までスムーズにできていた業務に時間が掛かるようになり、滑舌が回らず、朝礼や会議で上手く喋れないことも増えた。この時期には会社へ出勤すること、明日が来てしまうことが怖くなっていた。自分でも「さすがにまずい」と思い、7月の後半、上司に「責任者から下ろしてください」と頭を下げた。しかし、それは認められなかった。「仕事を減らせるようにこちらも配慮するから何とか頑張れ」が上司からの返答だった。決して自分自身が仕事のできる人間だと自惚れているわけではないが、私が在籍していた会社は優秀な人間に仕事が集中することが常態化していた。その対価として給料が増えればまだ納得できるのだが、責任者になっても一般社員と5万円ほどしか給料が変わらなかった。もはや責任者を務めることが罰ゲームのようになっていた。さらに私が在籍していた部署に業務が集中しており、なぜか取引先の医療メーカーに出すための膨大なデータ整理を私の部署だけが担当することもあった。この時は5日連続で日付が変わった2時00分まで会社に残った。もう限界だった私に上司がある一言を言い放った。

「なんで営業へ行かないの?」

確かにこの時期、私の部署の業績は下がっており、営業活動などの動きが必要になっていた。だが、業績が下がったのは部署の社員の責任よりも、私の部署に仕事が集中する会社構造、すぐに人員不足になる他部署へのヘルプをいつも出さなければいけないことが大きな原因になっていた。それでも私はこの忙しい中でも営業活動は行っていた。上司からは「同じ営業先へ週に1回は行くようにしろ。何度も会って売り込め。」と指示を受けていて、7月の前半に5ヶ所の営業先を訪問した。ただあまりに頻繁に訪問をすると、営業先が迷惑に感じる可能性が高いと判断したため、営業先への訪問は1ヶ月以上の期間を空けたほうが良いと思った。そのことを上司にも報告をして了承も取っていたのだが、そのことを忘れた上司が既にキャパオーバーの私に言い放ったのが「なんで営業へ行かないの?」の一言だった。

「こんな上司の下で仕事をする意味があるのか?」

そう思ったが、それでも何とか事態が好転することを信じて、今まで通り仕事に取り組んだ。
 8月1日、この日は夜に各部署の責任者が集まる会議があった。私はそこで自分の部署の業績が悪いことを詰められた。詰められるのは分かっていたが、この役割を同じ部署の誰かに背負わせたくなかった。そして、自分が会社へ顔を出すのはこれが最後になることを自分自身が分かっていたのだと思う。
翌日はシフトの関係で仕事が休みだったが、自宅で仕事に取り組んだ。しかし、3日までに終わらせたかった仕事が夜になっても片付かなかった。このまま明日を迎えるわけにはいかなかったのだが、さすがに疲れたので、明日は何とか乗り切ろうと思い、寝ることにした。しかし、疲れているはずなのに、全く眠ることができない。どんどん時間が過ぎていき、私はパニックになった。どうしようか迷ったが、この時に生まれて初めて24時間対応のフリーダイヤルに電話を掛けた。既に日付が変わり0時30分頃。何度か電話をしてみたが全く繋がらない。「世の中にはこんなにも悩んでいる人がいるのか」と妙に冷静な気持ちになれた。電話をすることは諦めて寝ようとしたが、やっぱり眠ることができない。今まで仕事が大変になり、食欲がなくなったことは何度かあったが、眠れなくなることは1度もなかった。辛い時こそ眠って頭をスッキリさせてから、これからどうするかをいつも考えていた。疲れているのに眠れないのは相当まずい状況だと自分でも分かっていた。しかし、私は社会人になって10年以上、高校・大学も含めれば、もう17年以上、学校や会社を休んだことがなかった。会社には行きたくないのだが、この判断が社会的に正当なのかが分からなかった。時間はもう3時00分を過ぎていた。普段ならあと2時間もすれば起床をする時間である。私はもう1度フリーダイヤルに電話を掛けた。3回ほど電話を掛けるとついにオペレーターに繋がった。オペレーターは男性だったのだが、私は休みの日も含めて2年間ほとんど毎日仕事をしていること、特にここ2ヶ月間、仕事がある日は朝の5時00分に起きて就寝できるのが0時00分頃になっていること、最近の体調などについて話した。オペレーターは以前に私と同じような仕事を経験したことがあるのか、私の会社の仕組みや人員配置も理解されており、話が伝わるのも早かった。オペレーターからは「お話を聞いている限り、あなたには休む権利があると思います。今のご自身の状況を会社へ伝えて、しばらくお休みされるのはどうですか?もしも有給休暇が残っているなら、それを使うのは労働者の権利ですし、病院で診断を受けてお休みされるのも1つの手だと思いますよ。」と話があった。この話を聞いて、私は生まれて初めて仕事を休むことに決めた。その後すぐに上司へLINEを送り、しばらく有給休暇で仕事を休むことにした。最低限の仕事の引き継ぎを済ませて、仕事のことはもう気にしないことにした。もちろん自分が担当していた業務、自分にしか分からない業務もあったので、不安になることはあったのだが、「私に仕事を任せるだけ任せて、業務の負担を減らすための策をほとんど講じなかった会社が悪いのだから、もう知らない」と開き直り、自分のことだけを考えるようにした。
 まず私は心療内科の医療機関を探すことにした。7月の終わり頃からホームページで診断できるうつ病の自己診断を受けて、自分がうつ病なのは間違いないと思っていた。ただ、この段階では仕事を休むための客観的な根拠がなかったため、医療機関でうつ病の診断を受けて、仕事を休むための根拠がどうしてもほしかった。私は今まで心療内科に通院したことがなく、街で意識して見ることもなかったため、どこに心療内科の医療機関があるのかが分からなかった。調べてみると、自宅から徒歩10分ほどの場所に1軒、自転車で10分ほどの場所に1軒、車で10分ほどの場所に1軒の心療内科を見つけることができた。私は自宅に近い医療機関から電話を掛けた。しかし、1軒目は最短の予約が1ヶ月先、2軒目も最短の予約がお盆休み明けの2週間先とすぐには予約が取れなかった。後で分かったことだが、多くの心療内科は常に予約が埋まっていて、初診ですぐに診察をしてもらうことが難しいらしい。しかし、3軒目に電話をしたクリニックはたまたま2日後の午前中に空きがあるということで予約を取ることができた。私は「病気の診断を受けたい」という気持ちがエネルギーになり、心療内科の医療機関を探して、偶然にもすぐに診察をしてくれるクリニックを見つけることができ、予約をして足を運ぶことができた。だが、メンタルが落ちている時に心療内科の医療機関を探して、予約をして診察を受けるのは本当に労力が必要となるので、「ある程度、元気な時に心療内科の医療機関を見つけて、半年に1回くらいは相談へ行って、かかりつけにしておけば良かった」と思った。予約当日、私は心療内科のクリニックへ向かった。
 生まれて初めて訪れる心療内科。医師の診察前、各質問に対して「全く当てはまらない〜とても当てはまる」の5つの中から答えていくかたちで問診票を記入した。その際、「全部の質問でいちばん悪い選択肢を選べば、病気と診断を受けられるかな・・・」とも思ったが、「正確な診断をされずに治療が上手くいかなければ、悪いかたちで自分に返ってくる」と考え直して、自身の今の状況を正確に記入した。診察の際に自分の状況を正しく伝えるため、いつの時期から休日も仕事をするようになったか、この2年間の労働時間、ここ2ヶ月の体調の変化や会社を休むことになった経緯などは事前に紙に書いてきた。上手く説明する自信がなかったので、この紙を事前に準備してきたのだが、診察中にこの用紙を見ることはなかった。紙にまとめたことで頭の中が整理されて、医師に今の状況を伝えることができた。診察の結果、うつ病の診断が出た。診断が出た時は正直ホッとした。「もしこれで何の診断も出なければ、どうしよう・・・」と思っていた。ただ「本当にうつ病になってしまったのか・・・」という思いも少なからずあった。医師からは「今のあなたはうつ状態にあります。仕事を頑張り過ぎて脳が放電していると思ってください。『頑張ろう』という気持ちがあっても、脳が疲れ切って気持ちと行動が一致しない状態です。今はとにかく休みましょう。少なくとも2ヶ月は仕事を休んでください。診断書を書きますから会社へ提出してください。もう仕事のことはほっておいて構いません。今はとにかく休む。ゴロゴロして脳を休ませてください。」と指示を受けた。2ヶ月も休んで良いという診断が出るとは思わなかったので、自分でも驚いた。無理をすれば何とか働けると思っていたが、それは間違いだった。
 私は有給休暇を全て使って、休職をすることにした。休んでいる間は昼夜逆転になったとしても、寝たい時に眠り、起きている時はベッドの上からお笑いの動画を観て過ごした。部屋の掃除に取り組むことやスーパーへ買い物に行くことはあったが、すぐには元気にならなかった。うつ病は右肩上がりに元気になるのではなく、好不調の波を繰り返しながら回復していくということは医師からも聞いていたのだが、なかなか元気にならない。うつ病の診断を受けて最初の1ヶ月半はどのような流れで自分が元気になるのか分からなかったし、そもそも自分が元気になるイメージが湧かなかった。スーパーへの買い物と通院以外で外へ出ることもなかったため運動不足になり、ダルさで思うように体が動かない日々が続いた。うつ病になった人のあるあるで「お風呂に入るのが面倒になる」というのがあるのだが、私も例に漏れず、お風呂へ入るのが面倒になった。今までは朝に起床した後は毎日シャワーを浴びるのが日課だったのだが、うつ病の診断を受けた後、最初の1ヶ月半はとにかくシャワーを浴びるのが面倒だった。入浴には多くの作業が伴う。私の場合は頭をシャンプーとコンディショナーで洗い、顔を洗顔用の石鹸、体をボディソープで洗い、髭も入浴の際にT字の電動剃刀で剃っていた。お風呂から出たらバスタオルで体を拭き、服を着て、髪の毛をドライヤーで乾かして、顔と体は保湿をする。入浴は意外とやることが多いのだ。
 9月の中頃までは思うように体調が回復しなかったのだが、それには理由があった。私の中では10年以上勤めた会社を退職する気持ちをほぼ固めていたのだが、それを上司へ伝えることができなかった。休職中は自ら誰かに連絡をすることはなく、心配して連絡をくれた同僚からのLINEも返信をせずに放置していた。仕事をしていた時は1日に何通ものメールを送っていたのに、休職してからは僅か数行のLINEやメールを送ることさせも億劫になっていた。有給休暇の消化は9月の前半で終わっており、「退職するなら9月末」と考えていた。そもそも会社からは「会社に在籍しながら10月以降も休む場合は9月で会社の厚生年金と健康保険を解約してほしい」と言われていた。要は10月以降も休むなら「もうあなたはいらない」と事前に通告を受けていた。会社なんて、こんなものなのだろう。うつ病の診断を受けた段階で退職をしたかったのだが、うつ病の診断を受けて間もない時期に退職や転職・結婚や離婚などの重大な決断をするべきではないと考えていたこともあり、決断を先送りしていた。うつ病を発症している時は脳が正常な判断をできない状態になっている。そんな状況で重大な決断をすれば、間違った判断をしてしまうかもしれない。しかし、9月16日、この日が9月30日で退職をするためには会社へ申し出なければいけないリミットだった。私は退職の旨を伝えるメールを何とか作成して上司へ送った。いざメールを作成し始めると5分ほどでメールが完成した。10年以上勤めた会社にも関わらず、最後は呆気なかった。その後は本部の社員とメールでやり取りをして退職の話が進み、正式に9月30日付で退職することが決まった。
 会社に退職する旨を伝えたことが私の状況を良い方向へ変えていった。休職を始めて最初の1ヶ月半はなかなか体調が良くならず、息苦しさ、異常な肩こり、謎の歯の痛み、眼精疲労による目の奥の痛みによって、夜中に2回の嘔吐をして朝まで眠れなかった日もあった。前向きになれない日が続いたが、退職の準備がほぼ終わった9月22日、自分が元気になっていることに気付いた。うつ病の診断を受けて以降、部屋の掃除に取り組むことはあったが、不要な物の片付けは億劫に感じて取り組むことがなかった。しかし、この日は片付けに取り組みたいと思い、数時間を掛けて不要な物の処分に励むことができた。身体が元気になると、気持ちにも余裕が生まれるようになった。
 私は社会人になってから常に何かに追われる日々を送っていたと思う。起きている時間に何も考えずボーっと過ごしたことがなかった。医師から聞いたのだが、好きなことをしている時間であっても脳を使っているので、脳は疲れてしまうそうだ。眠っている時がいちばん脳を休めることができるのだが、それだけだとどうしても脳を休める時間が足りないため、起きている間も何も考えずにボーっとする時間は作ったほうが良いらしい。うつ病になり、退職することを決めて、気持ちの面でも余裕が出たことで私はボーっと過ごすことができるようになった。朝に目が覚めてカーテンを開けた時、天気が晴れていて景色がきれいな時は30秒ほど眺めることが増えた。たった30秒だが、会社に勤めていた時には考えられないことだった。
 元気になったことで取り組みたいことも一気に増えた。野球観戦・音楽鑑賞・ドライブ、元々好きだったことへの興味・関心が復活して、今まで以上に楽しめた。時間と気持ちに余裕ができたことで、これまでは取り組めなかったことにもチャレンジできるようになった。私は中学時代からある女優さんのことを応援していた。お会いしようと思えばイベントなどで会えるチャンスはあったのだが、イベントのほとんどが東京で行われるため、大阪や愛知からだとある程度は気合いを入れて行かなければならなかった。愛知に住んでいた大学時代は時間こそあるが、使えるお金が少なくて断念、社会人になって大阪に戻ってからはお金こそあるが、時間と気持ちに余裕がなく、自分の中で理由を作って会いに行こうとしなかった。
 私はうつ病の診断を受けた段階で、今まで勤めていた会社を辞めることはほぼ決めていたのだが、10月からは転職して仕事へ復帰する気持ちでいた。厳密には「復帰しなければいけない」と思っていた。医師から2ヶ月の自宅療養の診断を受けていたが、これを「2ヶ月後には働ける状況にしなければいけない」と勝手に誤解をしていた。うつ病の診断を受けてから、1ヶ月弱で自覚できるくらいには元気になったのだが、これは回復の流れとしてはかなり順調なほうらしい。うつ病の診断を受けて、元気になるのに1年以上掛かる人はたくさんおり、10年以上うつ病に悩まされている人もいるそうだ。当時の私はそのことを知らずに仕事復帰を急いでいたのだが、8月の終わりに医師からある助言を受けた。

「すぐに新しい仕事に取り組むよりもまずは仕事以外、趣味でも何でも良いので好きなことや興味が湧くことに取り組むのが良いと思いますよ」

幸い私は最大で1年半の間、傷病手当金を受け取ることができる。貯金もある程度はあったため、とんでもない無駄遣いをしない限り、1年半はお金の心配をする必要がなかった。社会人になり、仕事が忙しくなってからは大学時代の自由で楽しかった時間を思い出して、「自分が定年退職をするまで、自由に好きなことに取り組める時間はもう来ないのか」とずっと思っていた。誰かに「夢は何ですか」と聞かれても、答えに困る日々を何年間も送っていた。

「本当に自分がやりたいことを仕事にしたい」

「それを探すために今までできなかったこと、興味があることはできるかぎりチャレンジしよう」

そう思うようになっていた。
 そんな時、憧れの女優さんとお会いできるチャンスが訪れた。彼女は男女どちらの体型にもフィットするジェンダー・ニュートラルなデザインのアパレルブランドをプロデュースしており、11月に東京で期間限定のポップアップイベントを開催することになっていた。彼女も店頭に立つことを分かっていたため、私は東京まで会いに行くことにした。今まで大阪から東京まで車で行ったことはあったが、最後に東京へ行ったのは5年前。仕事が忙しくなってからは車で遠出をすることはなくなった。うつ病の診断を受けた直後は車の運転をすることに怖さを感じるほどだった。しかし、身体が元気になってきた時期にその証として、そして、中学時代から憧れていた人に会うために車で東京へ行くことにした。11月23日の11時00分に東京の池袋へ到着するため、私は前日の22時30分に大阪の自宅を出発した。何度もサービスエリアで休憩をして、東京へ向かった。静岡の浜松サービスエリアで仮眠を取るまでは少し疲れもあったが、眠って疲れが取れた後はあっという間に東京へ着くことができた。予定よりも2時間ほど早く到着できたため、私は駐車場に車を止めて、開店まで待つことにした。待っている間は憧れの人の動画を観て過ごした。
 いよいよ開店の時間。私はすぐに店頭へ向かった。そこには20年近くずっと憧れていた人の姿があった。運良く他のお客さんがいなかったため、たくさん関わることができた。

「中学時代からずっと好きです」

想っていたことを伝えて、一緒にアイテムを選んでもらい、ツーショット写真も撮ってもらった。一緒に過ごすことができた20分間は本当に幸せな時間だった。その日のうちに大阪の自宅へ帰ったが、不思議と疲れはなかった。帰宅後はすぐに眠るつもりだったが、サッカーのワールドカップの日本代表の試合が22時00分からあったため、観ることにした。日本が逆転勝ちでジャイアントキリングを果たしたドイツ戦だ。「2022年11月23日、この日を世界中の誰よりも満喫したのは自分だったのかもしれない」と思えるほど、長く幸せな1日だった。
 ちょうどこの時期だったと思うが、私は部屋の模様替えや空気をきれいにすることに取り組むようになった。元々、2月の後半〜4月末の期間に花粉症になることが多かったのだが、初めて11月に花粉症を発症してしまった。目が痒く、鼻はムズムズして、喉には粉末がこびりつくような不快感、明らかに花粉症の症状だが、11月に花粉症になるという発想がなかったため、最初は原因が分からなかった。ただ、首よりも下は元気だったので、風邪などの病気ではないことは予想できていた。症状が出て、数日が経った時に「これは花粉症ではないか?」と気付いて、病院で薬を処方してもらったのだが、「これはまずい」と思った。「こんな時期から花粉症になっていたら、2月の後半以降はどうなってしまうのか?根本的に解決をしないと健康に過ごすことができない。」と思い、今後の対策を考えた。
 体調についていろいろ調べていて気付いたことがある。起床時に花粉症の症状が出ることをモーニングアタックと呼ぶのだが、花粉が多い外ではなく、自宅の中で症状が出るということは花粉以外の要因も考えられることが分かった。特にほこりが原因になっているケースが多いようだった。部屋の中での生活を少しでも快適にするため、改めて部屋の片付けや掃除に取り組んだ。エアコンの掃除、カーテンや毛布などの洗濯ができるものは全て洗濯をして、布団もきれいにした。ベッドの下、テレビ台や冷蔵庫の後ろなどのほこりはできるかぎり掃除をして、不要な物も処分をした。意外と盲点だったのが、物が多いとほこりが溜まりやすくなり、健康にも良くないことだ。新しい棚を1つ買って、今まで床に置いていた物を棚へ移動させて家具の配置も変更、床に物を置かなくしたことで部屋が一気に広くなり、日頃の床掃除もやりやすくなった。健康のために湿度を意識するようにもなり、温湿度計を購入。加湿のために冬は風呂に水を貯めておくようにした。今までは関心がなかった観葉植物にも興味が湧くようになり、購入して机の上に置くようになった。植物は二酸化炭素を吸って酸素を出してくれるため、部屋の空気をきれいにしてくれて、多少ではあるが加湿も効果もある。いろいろやって効果が出なければ、最終手段として空気清浄機の購入も考えたのだが、これまでの取り組みで驚くほど効果が出て、体調も劇的に良くなったため、購入は見送ることにした。
 憧れの人へ会いに行き、部屋の環境を整えて、自分の体調について前向きに考えられるようになったが、9月の後半から自分の将来についても考えるようになっていた。

「自分が本当にやりたいことは何なのか?」

「本当の幸せとは何か?」

私の中にフリーで働くという選択肢が出てきた。今までフリーで仕事をすることを考えたことがなかったし、どちらかというと否定的だったと思う。会社に在籍しているほうが保険などにも恵まれて、いざという時に助かるし、リスクマネジメントになると思っていた。しかし、10年以上の会社勤めを経験して気付いたことがあった。会社や組織は仕事ができる人間やいろんなことに気付いて行動できる人間が、仕事ができない人間やサボるのが上手い人間をサポートすることで成り立ってしまっている。自分が仕事のできる人間なのかは分からないが、他の社員が気付かないことに気付いて取り組むことは多かった。出世や自分の役割が増えることで給与が一気に増えるのなら、やりがいはある。だが、私は社内で中間管理職と呼ばれる地位にはなっていたが、月給は入社当時と6万円ほどしか変わらなかった。最後は物理的にこなすのが不可能な業務を抱えて、うつ病になるほど追い込まれて会社を退職した。もちろん業務を部下に上手く分担できなかった自分にも責任はある。しかし、キャパを超える仕事を任されて、それに見合う給料を受け取ることもなく、うつ病になるほど追い込まれて会社を辞めることになったのは事実だ。

「ある程度のスキルがある人間はフリーで働いたほうが過労のリスクが少ないし、報われる部分が大きいのでないか」

そう思うようになっていた。
私は日本の労働環境が今後どのようになるかも考えた。例えば、高齢者の介護施設は今後減っていくと思う。高齢者人口が増えることで需要が増える可能性が高いが、今の給与水準の介護業界で働きたいと思う人が増える可能性は低いだろう。今はまだパソコンやスマートフォンを使い慣れていない高齢者が一定数いるが、私が70歳になる頃、2050年代の後半頃にはパソコンやスマートフォンを使いこなせる世代が高齢者になっている。そうなると今後は介護スキルを持つ労働者を高齢者がパソコンやスマートフォンで探して、高い給料で個人契約をすることが主流になると思う。介護以外の業界もこの流れになると予想している。私はある程度のスキルがある人間ならば、会社の中で多くの仕事を任されて体調を崩してしまうリスクよりも、フリーの仕事で生活ができなくなるリスクのほうが低いと感じた。そして、「真面目に仕事に取り組む人間にとって、労働者を会社が守ってくれるというのは幻想であり、自分のことは自分自身で守らなければいけない」ということが10年間の会社勤めで分かった。

「もう会社勤めはしないで、フリーの仕事で生きていこう」

そう決心した。しかし、自分に何ができるのか、やりたいことが何なのかを考えなければならない。

「自分が本当にやりたいことは何なのだろうか?」

私はあることを思い出した。
 私が高校3年生だった時、現代文の授業でエッセイを書いたことがあった。自由なテーマでクラス全員が書いたのだが、数日後の授業の中で先生が良いと思った作品3つを取り上げ、誰が書いたのかは伏せた状態で3つの作品の全文を先生が読み上げた。いちばん最後に取り上げられたのが私の作品だった。内容は『人の死について』。

 人は自分にとって大切な人を亡くした時に悲しい気持ちになってしまう。しかし、本当は誰かを失った時に涙が流れるほど悲しい気持ちになれるような人と出逢えたこと自体が幸せなことではないだろうか。私は今後の人生で大切な人を失うことがあるだろうし、その時は悲しい気持ちにもなると思うが、「この人と出逢えて本当に良かった」という前向きな気持ちを持ちながら、お別れができるような人間になりたい。そして、大切な人との別れはいつ来るか分からないので、大切な人との日々を後悔なく送れるようにしていきたい。

このような内容だったのだが、先生が私の作品を発表した直後に当時好きだった西川さんが「すごい・・・、めっちゃ感動した。これ誰が書いたの?」と感想をポツリとこぼしてくれた。それだけでも嬉しかったのだが、後日、私が大学受験へ向けて放課後に1人、教室で勉強をしていた時にある出来事があった。クラスメイトのほぼ全員が併設の大学への進学や指定校推薦で進路を決めていたため、クラスで本格的に受験勉強に取り組んでいたのは私1人だった。この日も放課後に1人で勉強をしていたのだが、勉強がひと段落した時、西川さんの机の中に教科書やノートが入っているのが見えた。私が通っていた高校では生徒1人ひとりに教科書などの荷物を収納できるロッカーが与えられており、そのロッカーは各クラスのすぐ外にあった。週に1回程度しかない授業やほとんど使わない教材はロッカーに入れて、普段は施錠をしているのだが、頻繁に使用する教科書やノートは各自の自己責任で自分の机に入れている生徒も多かった。以前の現代文の授業でエッセイが発表された際、各自が印象に残った作品についてノートに感想を書いていたため、「もしかしたら西川さんが自分の作品に対して感想を書いてくれているかも?」と思った。放課後の時間帯、ほぼ間違いなく誰も教室へ来ないことは分かっていた。私は西川さんの机の中に現代文のノートが入っていないか「ごめんね」と思いつつ探してみた。机の中に入っていた教科書やノートを1冊ずつ確認すると、彼女の現代文のノートを見つけることができた。自分の席に戻ってノートの中を読んでみると、私が書いたエッセイを絶賛する感想を詳しく書いてくれていた。いちばん最後には

「この文章を誰が書いたのかを本当に知りたいくらい感動しました。でも、書いた人が誰なのか、何となく分かっています。」

そう書かれていた。

「自分が書く文章には人を感動させる力があるのかもしれない」と思い、この時期から

「将来は1冊、何でも良いから本を書いて世の中へ出したい」

そう思うようになった。それから時間が流れ、仕事で忙しい日々を送る中でそんな目標も忘れていたが、

「この夢を叶えるなら今しかない」

「自分が今まで経験してきたことを題材にして作品を書けば、誰かの心に響くかもしれない」

そう考えて、仕事を休んでいる間に今までの人生を題材にした小説を書くことに決めた。最初は「絶対に世の中へ出そう」という気持ちよりも、「半分はリハビリの気持ちでとりあえず書いてみよう」という思いのほうが強かった。
 9月の後半から執筆を始めて、1ヶ月ほどでほぼ完成したのだが、後は加筆や修正を繰り返しながら自分の作品をどのように世の中へ出すかを考えた。2023年の2月に自費出版に力を入れている出版社が個別の相談会を開催するため、私は予約をして足を運ぶことにした。本当に自費出版をするのか、何かのツールを使ってインターネットで発信するのか、他の方法を探るのかは正直分からない。最終的に自分が納得する方法を選んで、作品を世の中へ出したいと思っている。
 うつ病の診断を受けた時は外へ出るのが億劫になるような暑い日が続いていたが、気付けば12月の寒い時期になっていた。12月に入ってからも、うつ病の診断を受けた時から服用している睡眠導入剤とモチベーションを上げる薬は毎晩1錠ずつ飲んでいるが、「年明けからは薬を服用する頻度を減らすことを検討しましょうか」と医師からは言われている。元気になってくると、薬の服用を面倒に感じることが増えたのだが、私はうつ病の治療の中で1つ決めていたことがある。それは「薬の服用に関する判断は医師に任せる」言い換えれば「自分の判断で勝手に薬の服用をやめない」ということだ。もしかしたら全ての病気がそうなのかもしれないが、うつ病が完治することはないらしい。元気になったとしても、それは寛解と呼び、再発する可能性はずっと残り続けるそうだ。うつ病の症状が寛解した人で比較的多いのが、薬の服用を勝手にやめて、うつ病が再発することだそうだ。本当に元気になった人が「まさか自分が再発するとは・・・」というケースもあるらしい。そのため薬の服用に関しては医師の指示に従うようにしている。
療養生活中、私はある考えを持ちながら生活を送っていた。それは元気になろうとするのではなく、元気になるのを待つことだ。例えばうつ病の診断を受けた人の過ごし方、元気になるためのステップとして散歩を勧める人がいるが、そもそも脳が正常に機能していない状態で散歩をする余裕が生まれるとは思えない。散歩に限らず、元気になるためにやろうとしている時点で脳に負担が掛かっているため、メンタルが落ちている人が元気になるために何かに取り組もうとするのはあまり良くないと感じた。それよりも本当に取り組みたいと思えること、もしそれが睡眠なら遠慮せずにそれを満喫するべきだし、それが散歩であれば取り組めば良いと思う。そして、やりたくないことはやらないほうが良い。苦手に感じている人と連絡を取ることや関わること、それが負担になっているならこの機会に縁を切るのも良いし、縁は切れないとしても関わる機会を減らすことはできると思う。人生の中では嫌でも頑張らなければいけない時があるのだから、病気の時くらいは自由に生きても良いはずだ。
仕事に対する考え方も以前とは大きく変化した。以前は1つの仕事を3年は続けることが大切だと考えていた。しかし、本当にそうなのだろうか。世の中にはたくさんの仕事がある。日本国内の仕事だけでもまだまだ知らない仕事があるだろうし、世界に目を向ければ日本にはない仕事もたくさんある。無数にある仕事の中から本当に自分に向いている仕事に出逢える可能性はそんなに高くないのかもしれない。しかし、様々な仕事に取り組んだり、たくさんの経験をしたり、多くのことを知れば、天職に辿り着く確率も自然と上がるはずだ。そう考えれば、「辛い」「苦しい」「楽しくない」と感じる仕事をずっと続けるよりも早めに見切りをつけて、様々な仕事にチャレンジするほうが幸せな人生を送れる可能性も上がると思う。
12月頃には朝に目が覚めて、日によって昼寝をする日があったとしても夜にはちゃんと眠り、朝にまた起床することが当たり前になっていた。学生時代も含めて、1人暮らしを始めてからここまで規則正しい生活を送れたのは始めてかもしれない。仕事に関しては「文章を書く仕事をして、これからは生きていきたい」と明確に思うようになっていた。何もそれで億万長者になりたいわけではない。「1年で300万円ほど稼ぐことができて、それで足りなければ単発のアルバイトをして生きていこう」と今は思っている。
 執筆をする中で自然と自分自身の恋愛についても考えるようにもなった。特に千里ちゃんと麻美ちゃんの2人のことを思い出すことが増えた。自分に正直になれずに自分に嘘をつき、思いやりだと思って行動したことが結果的に裏目になったこと、自分の気持ちに正直になり、最後に自分の想いを正直に伝えた結果、断られた悲しさよりも誠実に向き合ってくれて嬉しかったこと。

「仕事もプライベートも含めて幸せな人生を送りたい」

そう思うようになっていた。しかし、心のどこかで迷っていることがあった。

「自分は本当に幸せになっていいのか?」

今までの人生を振り返った時、幸運に恵まれたこともたくさんあったが、辛いことも間違いなくあった。私は幸せになることに慣れていなかった。堂々と幸せになることに抵抗を感じていた。しかし、迷っていた私の背中を押してくれた出来事があった。それは私の33回目の誕生日を迎えた日のことだった。
 12月12日の夜に眠った時、夢の中に千里ちゃんが出てきた。うつ病がある程度は寛解して元気になってきた時期、不思議と小学校と大学時代の夢を見ることが多かった。この日は小学校が夢の舞台だったのだが、そこに千里ちゃんが出てきてくれた。状況が矛盾していることを理解した私はこれが夢だとすぐに気付いた。彼女の手を握って、廊下のいちばん南側、階段のすぐ近くにある6人ほどが座れるベンチまで一緒に走った。誰もいない場所の中でいちばん近いのがここだった。ベンチに2人で座って私は千里ちゃんに相談をした。

「千里ちゃん、話したいことがあるから、まだ覚めないで。自分は体調を崩して、仕事を辞めたんやけど、もう会社勤めをする気はなくて、文章を書く仕事をしたいと思っている。本当にそれで生活をしていけるか不安なんやけど、千里ちゃんはどう思う?」

「どうして不安なの?私は中川君の言葉に勇気付けられて、幸せな気持ちになれたんだよ。中川君の言葉でたくさんの人を元気にしてよ。中川君ならできるよ。」

「そっか・・・、ありがとう。あともう1つだけいい?僕は幸せな未来を生きていいと思う?」

「幸せになっていいに決まっているじゃん!!中川君は自分が思っている以上に本当に素敵な人だから、幸せになるべきだよ・・・。堂々と幸せになってね!!」

「!!!・・・分かった(笑)・・・千里ちゃん、夢に出てきてくれてありがとう。元気が出た。これからの人生、幸せに生きるね。あと・・・、最後に千里ちゃんの手を握ってもいい?」

「うん、いいよ。私も最後にメールでしか伝えられなかったから、自分の口からちゃんと伝えるね。中川君の幸せを祈っている。本当にありがとう。」

千里ちゃんの右手を私が両手で握った瞬間、千里ちゃんの姿はきらきらと光り輝きながら消え去り、その瞬間に夢から覚めた。目には涙が溢れていて、両手には彼女の手の感触が残っていた。夢を見ていただけなのに、さっきまでの出来事が私の中で確かに残っていた。そして、私の中にあった迷いは彼女の姿と一緒に消え去った。
 私は起床してすぐにある人へ久し振りに連絡を取った。

「会ってくれますか」

たぶん断られると思っていたのだが、彼女からすぐに返信が届いて、年末に2人で会うことになった。この人と会うのはいつ振りになるのだろう。
 いろいろなことがあったし、これからもいろいろなことがあるのかもしれない。それでも私は堂々と幸せに生きている。完

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